災厄の魔女
目の前の大河を、真っ黒な水が轟音をたてながら流れていく。カイルは渡し船の流されてしまった船着き場を見てため息をついた。
傭兵のカイルは、恋人のリーゼと共に聖都に向かう一行の護衛として旅をしていた。
しかし、その途上で世界でも有数の大河を渡る必要があったのだが、その大河が豪雨で氾濫して河を渡れなくなってしまったのだ。
大河の流れが静まるまで、数日は様子を見なければならないだろう。それに、渡し船が流されてしまったので、代わりの船を調達するのにどれくらいかかるか分からない。
護衛していた一行、貴族令嬢のミレア・サーヴェイとその従者たちの待っている宿に急いで戻りながら空を仰ぎ見ると、真っ黒な雲が空を覆い尽くし、いつ豪雨が止むのか予想もできない。
宿の一階の酒場に駆け込み、雨に濡れたフードを脱ぐと、ボタボタと水の滴が滴る。
ミレアはリーゼと共に酒場でカイルたちの帰りを待っていた。金髪碧眼の令嬢はこんな田舎の酒場では酷く目立つ。同行している修道士が落ち着かない様子で周りを伺っていた。ナジルという名のまだ若いその修道士は、リーゼが護衛に残っているとはいえ不安だったのだろう。カイルの顔を見るとほっとした顔をした。
しかし、カイルが船が流されてしまったことを話すと、その顔があからさまに曇った。
この時期は河が氾濫することが多いらしい。ミレアたちもそれを知っていて旅路を急いだのだが、間に合わなかったのだ。
リーゼたちに部屋に戻っているように言い渡して、カイルとナジルは手分けして村人たちから話を聞くことにした。船が流されるとは予想していなかったとしても、河の氾濫が毎年のことならば、村人たちも河を渡る方法に心当たりがある可能性が高かったからだ。
結果としては、すぐに船を手配する当てはなかったが、河の流れが落ち着けば近くにあるとある村から河を渡れる可能性があるという。
なんでもその村ではとある事情から船の渡しを最近しておらず、船は陸に揚げてしまっているので、この氾濫で流されている心配はないのだという。
ただ、その渡し船を止めた理由というのが問題だった。
ミレアの部屋で皆にそれを告げると、案の定ミレアたちは困惑に顔をしかめた。
水の魔女。
それが渡し船が運行しなくなった原因だった。
河の上流にいつしか魔女が住み着き、それ以来、村の男たちは魔女の呪いを恐れて船を出さなくなったらしい。この村の者たちは魔女などあるわけがないと鼻で笑っていた。
村人は船を出すのを渋るだろうが、貴族と聖職者がいるのなら断れないだろうと言っていた。建前上は俗世と縁を絶っているが、まだ洗礼を受けていないミレアは困ったような微妙な顔をしていた。だが、洗礼をまだ受けていない以上、貴族の地位を保っている。問題はないだろう。
その村に向かうことは決まったが、リーゼたちの顔色は優れなかった。
リーゼとナジルの顔には不安の色が濃かった。当然だろう。この国の人間なら、魔女の話は小さな頃から聞かされている。
魔女は己の欲望を満たすために、魂を代償に悪魔と契約した背信者だ。大半が女であることから魔女と呼ばれるが、実際には男の場合もある。南方に住まう、生まれながらに悪魔の血を継いでいる魔族と比べれば力が弱いというが、彼女らには恐るべき力があると言われている。
魔術だ。
魔女は悪魔の力を借りて超常的な出来事を引き起こすことができる。
一般によく知られ、そして恐れられているのは呪いだ。
力の弱い魔女なら、家畜の乳の出が悪くなるなどの質の悪い悪戯程度のことしか出来ないが、力の強い魔女なら人を呪い殺すことも出来るという。
カイルが小さい頃に、よく悪戯ばかりしていると魔女に見込まれ連れ去られてしまうと聞かされたものだ。
もっとも、全て村で幼心に聞いたおとぎ話だ。実際の魔女がどのような人間か、魔術とはどのようなものかは何も知らないといって良いだろう。
その時、カイルはミレアだけが不安そうな他の二人と違い険しい顔をしていることに気付いた。
どうしたのかと訊ねたカイルは、ミレアの答えを聞いて驚いた。
ミレアは、自分たちの手で魔女を倒せないかと聞いてきたのだ。
リーゼとナジルが悲鳴をあげ、カイルも思わず顔をひきつらせた。
それも当然だろう。
触らぬ神に祟りなし。魔女とは関わることを避けるべき存在だ。カイルは自分の剣に自信はあったが、剣では呪い相手には役立たない。
冗談であって欲しいというカイルたちの願望を余所に、ミレアは真剣だった。
その村が魔女の脅威に晒されているのなら、見捨てることはできない。それが彼女の主張だった。
この辺りは既にサーヴェイ家の治める地域ではない。だが、貴族としても聖職者としても、魔女の脅威を見過ごすことはできない。
躊躇うカイルたちに彼女は熱弁した。
カイルとリーゼは困惑して顔を見合わせるしかない。ナジルに至っては壁に向かって膝をつき、ひたすら祈り続けていた。
今回の旅には、今この場にいる四人しかいない。そして護衛対象でありミレアと案内役のナジルは戦力外だ。サーヴェイ家の護衛は家を離れる都合上、連れてくることは出来なかった。カイルとリーゼの二人で、どんな力を持っているか分からない魔女と戦うなどあまりに無謀だ。
カイルたちは必死に説得したが、ミレアは前言撤回しなかった。
彼女が言うには、十分な勝算があるのだという。それを聞いても、でカイルたちは半信半疑だった。
なんでもミレアは修道院にいた時、現実の魔女というものについて学んだことがあった。
魔女というのは直接的に人に危害を加えることは出来ない。力のある魔女なら人を呪い殺すこともできるが、呪いには様々な制約がある。
まず呪いをかけるには相手のことをよく知っている必要がある。そして、呪いをかけるには様々な道具と時間が必要であり、強力な呪いほど希少な道具と多大な時間が必要なため、人を殺せるような呪いはそうそうかけられないのだという。
呪いをかける準備をする時間を与えず殺せば、呪いにかけられることはまずない。ましてや魔女に知られていないカイルたちなら、呪いにかけられる心配はない。それが彼女の主張だった。
ミレアが翻意しそうにないことを見て取って、カイルはため息をついた。
河を無事に渡るには、魔女を退治しておいた方が安全なのは確かだ。カイルはそう自分を納得させることにして、彼女の主張を受け入れることにした。
村への道程を軽く打ち合わせしてから、泡を吹きそうになっているナジルに肩を貸して部屋に戻るのだった。
豪雨が止むまで数日を要した。雨の止んだその日の正午に村を出た。
まだ地面は泥だらけで、馬車を牽く馬の足取りが乱れがちだ。リーゼが侍女代わりにミレアの世話をし、カイルはナジルと交代で御者をしながら周囲を警戒していた。
都市と都市を結ぶ街道から外れると、道といえる道はない。獣道のような踏み固められた地面だけが、辛うじて道であることを示していたが、それも豪雨のせいではっきりとしない。まだ馬車が通れるだけの幅があるだけ、ましな方ではあるが。
途中、馬車の中で一夜を過ごしながら、2日ほど旅したところだった。
木々の間から、微かに河の水の煌めきが見えた。遠目に見た限りでは、河の流れは収まりつつあるようだ。
それからしばらくすると、目的の村が見えてきた。
一言で言ってしまえば、酷く寂れた村だった。家が10戸程しかなく、頼りない木の柵で囲われているだけだ。魔物が出たら、簡単に村の中に入られてしまうだろう。
前の村で聞いたところでは、この村から四半刻程離れたところに大きな村があるらしく、ここは村というよりその村の一部のようなものらしい。だからといって、魔物対策がされていないのは問題だが、貧しい村ではそれが出来ないことも多い。
村人に話を聞こうとしたが、村人はほとんど居なかった。ようやく見つけた中年の男に聞いたところ、ここは渡し船の人足とその家族が住んでいたが、渡し船を辞めてからはあの近くにあるという大きな村の親戚の家にやっかいになっているらしい。カイルたちの出会った男は、いつか渡し船が再開できるようになった時のために、ここに残って陸に揚げられた船の手入れをしているという。
カイルは早速、渡し船を使いたい旨を相談したが、中年男は拒絶した。予想通り魔女を恐れているらしい。
具体的に魔女がここで何をしたのか、カイルは疑問に思って訊ねた。
今年の豪雨はこれまでよりも遙かに激しかった。魔女の仕業に違いない。もしも渡し船を続けていたら、船を流されて死者も出ていたかもしれない。
中年男はそう言ったが、カイルは首を捻った。
偶然ではないかと訊ねると、中年男は自分が嘘を言っているというのかと怒り出した。慌てて宥めていると、ミレアが服の裾を引っ張っていることに気付いた。
男に頭を下げてから、引っ張るミレアに従って男から離れる。ミレアは男から見えなくなったことを確認すると、気遣わしげな顔で彼女が知っていることを話し始めた。
何でも、災害を引き起こすことができるような魔女は滅多にいないらしい。ただ、既に起きている災害の被害を大きくすることは出来るらしい。呪いがかけられているかどうか判別する方法はないがその可能性はある。
どうするのか?
それを訊ねたカイルに、ミレアはハッキリと答えた。
放置していたらこの村にどんな災厄を引き起こすか分からない。出来る限り早く退治するべきだ、と。
ミレアは男の元に戻って、自分たちが魔女を退治する代わりに渡し船を出して欲しいと提案した。後ろでナジルの顔色がどんどん青くなっていくが、ミレアがそれに気付いた様子はない。
男は不安そうに腕を組んで躊躇った。それを見たミレアがサーヴェイ家の名前を出すと、男はギョッとした顔をして慌てだした。
そして、しばらくすると力なく肩を落として頷いた。
この村の宿の主人は大きな村の方に移ってしまったらしいが、ベッドなどの最低限の家具は残っていたので、それを借りる。目を輝かせた中年男の様子を見ると、宿の主人の手には渡らず男に横取りされそうだが、それはカイルたちには関係がない。きちんと金を払ったという事実さえあれば良いのだ。
カイルは人の多い大きな村で情報収集することを提案したが、ミレアはそれに反対した。魔女に呪いをかける準備をさせてはいけない。下手に動いて気付かれる方が危険だと。魔女についてはミレアが一番良く知っている。カイルは渋々それに同意した。
男から魔女の住んでいる場所は聞いていた。カイルはリーゼと二人だけで向かうつもりだったが、ミレアはどうしても自分も付いていくと言い出した。
カイルは護衛対象を危険に晒すことはできないと突っぱねたが、ミレアは何を言っても聞く耳を持たない。大人しい印象を持っていた彼女のワガママに困惑したが、とうとうカイルが折れるしかなかった。
カイルたちは慎重に魔女の住むという場所に向かった。
本当はあの男に道案内をして貰いたかったのだが、真っ青になって気を失いかけたのを見ては無理強いすることもできなかった。ミレアは酷く嘆いていたが、カイルは当然のことだと思った。
そういえば、聖教会は魔女を特に敵視していることをカイルは思い出した。もしかしたら、ミレアも修道院で魔女に対する姿勢というものを教え込まれていたのかもしれない。
もうすぐ魔女の住むという小屋が見える頃になって、カイルはミレアとナジルにその場に残るように指示してリーゼと二人だけで先へ進んだ。
ベネトかセトが居れば良かったのに。カイルは別れてしまった仲間を思い出し、苦虫を噛み潰したような思いがした。
この手の斥侯はベネトが得意だった。ベネトと仲の良かったセトも彼から色々教わって斥侯の真似事は出来るようになっていた。彼らがいれば今回の仕事はずっと容易だった筈だ。いや、旅そのものがずっと楽だっただろう。
そんなことを考えていたカイルは、隣に居たリーゼがギョッとした顔をして振り返ったのを視界の隅に捉え、慌てて自分も振り返った。そして彼もギョッとした。
ミレアが付いて来ていたのだ。
追い返そうとするカイルに、彼女はそっと口を押さえて首を振った。ここで騒げば気付かれる。彼女の言いたいことに気付いて、どうすればよいかカイルの動きが止まった隙に、彼女は彼の前に出てしまった。
慌てて後を追ったカイルとリーゼは、ミレアに追いつくとその視線の先にあるものに気付いて動きを止めた。
河に面した岸に、木造の小屋が建っていた。
そしてその家の前で一人の女が桶に何かを漬けていた。
40半ばの銀色の髪をした女だ。どこか気品のある顔立ちをしており、身に纏っているのは見たこともない光沢のある青色の長いローブだ。
あれが魔女なのか?
カイルは魔女と聞いてしわしわの老婆を想像していた。多分、隣で困惑した表情をしているリーゼも同じだろう。
予想外の事態にカイルとリーゼが視線を合わせて考え込んでいると、ミレアがカイルの耳元に口を寄せて囁いた。
魔女に気付かれてはいけません。奇襲を仕掛けて、反撃する機会を与えず倒すべきです。
耳元で囁くミレアの息がかかって、カイルは背筋がゾクッとした。思わず顔を赤らめながらコクコクと頷く。そして次の瞬間、隣に居るリーゼの冷ややかな視線に顔が真っ青になった。
恋人の冷たい視線に慌てながら、誤魔化すように身振りで魔女を指した。リーゼは小さくため息をつきながら、それでも弓を構えて矢をつがえた。
カイルも剣を構え、突撃するタイミングを計る。
そして、リーゼの指が弦を離れると同時に突撃した。
矢は真っ直ぐに飛び、全く反応できていない魔女の腹部に突き刺さった。
女特有の甲高い悲鳴が響きわたり、無様に倒れた魔女に駆け寄って心の臟を貫いて止めを刺した。
魔女はしばらく痙攣していたが、やがて身動きしなくなった。警戒していたカイルが慎重に忍び寄り、魔女の首めがけて剣を振り降ろすと、魔女の首が宙を舞った。それを見て、ようやくカイルは魔女が死んだことを確信した。
呆気ない幕切れにカイルとリーゼがホッとしていると、険しい顔をしたミレアが素早く小屋に駆け寄った。とっさに止めようとするカイルの腕をかいくぐって小屋の扉に取り付くと、何の躊躇もなく扉を開けて中を覗きこんだ。
そして、すぐに扉を閉ざすと険しい顔のままカイルに指示した。
この小屋を残しておいてはいけない。すぐに焼き払う必要がある、と。
小屋の中に何があったのか訊ねたが、ミレアはカイルに教えてはくれなかった。こに在ってはいけないものが在った。すぐに消し去らなければならない。ただ、そう繰り返すばかりだった。
カイルたちは仕方なく彼女の指示に従うことにした。村人たちの承諾が必要ではないかとも聞いたが、ナジルによれば魔女の所有物については、これを討伐したものの判断に任せられるらしい。村人に確認しなくても問題はなかった。
カイルは知らなかったが、ナジルはミレアの指示で予め油を用意していた。大した量ではなかったが、木造の小屋はよく燃えるから足りるだろう。
魔女の遺体と小屋に油をまき、火を付けると小屋は大きく燃え上がった。
魔女も、魔女の小屋も、炎の中に消えていった。
村に戻る途中で、煙に気付いて様子を見に来た村人と鉢合わせし、村人に事情を説明した後、戻って小屋の様子を確かめると、村人は歓喜して村に知らせに走っていった。
その日の夜、村では宴会が開かれカイルたちは村人たちの歓迎を受けた。
宴会は深夜まで続き多くの者が酔いつぶれる中、カイルは火照った頭を冷やす為に村の外れの草地に横たわった。
気付けば彼の隣にはリーゼがいつの間にか座っていた。
彼女は心配そうにカイルの顔を覗き込みながら、優しい声で囁いた。
大丈夫。貴方は間違ってないわ。
その言葉を聞いてカイルは一瞬目を見開き、それからすぐに彼女に笑いかけた。それを見て、彼女も安堵したように笑い返す。
そう、間違っていない。魔女の脅威が払われ、渡し船は再開するそうだ。カイルたちが再開した最初の客なのは光栄だと村人たちは笑っていた。
間違ってはいないのだ。カイルはこの村を救ったのだ。
もしも、あの魔女が本当は何もしていなかったとしても。