見えざる壁の向こう側
リーゼは固唾を飲んで目の前の戦いを見守っていた。
リーゼは恋人のカイル、幼馴染のセト、街で出会ったベネトの四人で『不朽の剣』を名乗って傭兵としてとある交易都市で活動していた。
今は双頭蛇という魔物の討伐の依頼を受けて街の傍の森にいた。
双頭蛇は全長1m程の大きさの頭が二つある魔物だ。魔物と動物の違いとして、人を襲うことか、飛び抜けた異形であることが挙げられるが、双頭蛇はその双方の要件を満たす魔物だ。
二つある頭のどちらか一方には毒があり、大人なら咬まれても苦しむだけで死にはしないが、子供が咬まれると死に至る危険性がある。また見かけの頭は二つあるが、実は毒のある方の頭には脳がなく、毒のない頭の方にだけ脳がある異形である。
この魔物が街のすぐ近くの森で目撃されたことから、討伐依頼がきたのだ。
気配を探るのが巧いベネトが斥侯となり、彼が双頭蛇を見つけて合図を送ると、カイルとセトがそちらへ向かった。
今回の依頼では、リーゼは後方で待機だった。
狩人の娘であるリーゼの獲物は弓だったが、村から持ち出してきた粗末な弓では、草むらに紛れる細長い双頭蛇を射抜くことはできなかったからだ。
双頭蛇は番なのかちょうど二匹で活動していた為、カイルとセトが一匹ずつ相手することになった。
カイルは地を這う双頭蛇に苦戦していた。下手に仕掛けて外すと剣の切っ先が地面に刺さってしまい、双頭蛇に反撃される恐れがあったからだ。
だが、リーゼはカイルのことは心配していなかった。恋人の剣の技の冴えを知っていたからだ。
リーゼの予想に違わず、カイルは危なげなく双頭蛇を仕止めた。切っ先で双頭蛇を牽制し、飛びかかってこようとしたところを狙って両断したのだ。
それに対して、セトの方は少々心配したが、こちらも支障なく仕止めていた。
彼の武器は剣ではなく、右手に持った短剣だった。この依頼を受けてから街で仕入れた厚手の皮を左腕にまき、縄紐で固定していた。その左腕を双頭蛇の目の前でちらつかせる。
双頭蛇が勢いよく飛びかかり左腕を咬んだが、その牙は厚手の皮を貫けず、動きが止まったところを短剣で切り裂いた。
ホッとするリーゼを後目に、カイルがセトに苦言を呈していた。セトはその苦言をうるさそうに聞き流している。
カイルはセトがやったような対策を厭う傾向がある。腕を磨くために小細工は避けるべきだと考えているのだ。元々きちんとした剣術を学んでいる為か、こと戦い方に関してはカイルは融通がきかない。彼の唯一といっていい欠点だ。以前ベネトがお坊っちゃん剣術と茶化した時は、カイルは本気で怒っていた。
だから戦闘後は、セトはいつもカイルの小言を聞かされることになる。
苦笑していつものようにリーゼが仲裁に入ろうとすると、背後から聞こえた声が言い争う二人を止めた。
バークレー卿。
涼しげな呼び声を耳にすると、リーゼは胸の奥にざわめくような苛立たしさを感じた。
振り返った先には、カイルと同じ金髪碧眼の少女がいた。田舎育ちのリーゼとは違い肌にはシミ一つなく、身に纏った修道女の服と相まって、神聖な彫像のようだった。
ミレア・サーヴェイ。
リーゼは記憶があやふやだったが、確かリーゼたちよりも2つ年上だった。整った美貌は彼女が高貴な血筋を受け継いでいることを示しているようだった。
傭兵団『不朽の剣』がだんだんと信用を得られ始めたある日、聖教会からある護衛の依頼が彼女たちに持ち込まれた。彼女はその護衛の仕事の護衛対象であり、今回、彼女たちの戦いぶりを見たいとついてきたのだ。
加えて言えば、彼女はリーゼたちの護衛対象であるというだけではない。ミレアはリーゼたちが拠点とする交易都市の領主の姪なのだ。
彼女の呼びかけに、爽やかな笑みを浮かべてカイルが振り返った。隣で嫌そうな顔をしたセトを肘打ちで黙らせる。
バークレーというのはカイルの家名だ。カイル・バークレー。それがカイルのフルネームだ。ミレアは彼を呼ぶ時、いつも家名で呼ぶ。
それがリーゼは嫌だった。
カイルは元貴族だ。だが、元とはいっても、貴族としての権力と富を失ったというだけで、この国の身分制度でいえば未だに貴族である。ミレアがカイルを家名で呼ぶ度に、リーゼは恋人との身分差を突きつけられるような気がした。
リーゼの複雑な想いを余所に、ミレアがセトの不真面目な態度を窘めていた。素人の彼女には、セトの狩り方が手を抜いているように見えたようだ。
結局、セトと口論していた筈のカイルが彼女を宥め、ミレアは渋々引き下がった。
それを見て、リーゼは更にイライラした。恋人が、依頼主とはいえ別の女性に親身になって尽くすのを見るのは耐え難かった。
リーゼがカイルと出会ったのは、彼女たちが5才の時だった。
それまで貴族として生活していたカイルの一家は、村での素朴な生活に慣れることができずに四苦八苦していた。まだ子供だったカイルの世話もまともにできず、彼は昼間はリーゼの家に預けられていた。
初めてカイルを見た時、おとぎ話に出てくる王子様のようだと思った。彼女の家には本なんて高価なものはなかったが、時折遊びに行く村長の家にある絵本には金髪碧眼の王子様の挿し絵があって、カイルはそれにソックリだった。
一目惚れだった。
彼女は家で喜んでカイルの世話をした。家族だけでなくカイル自身も村での生活に慣れなかったらしく、リーゼは同い年にも関わらずお姉さんぶって色々世話をやいた。
それからは、リーゼはどこに行ってもカイルと一緒だった。成長して自分の恋心に気付いた時には、もう彼のことしか見えなかった。
自分以外の女の子がカイルに近付いてきた時は全力で邪魔をした。カイルと二人きりになりたかったので、本当はウロチョロするセトも邪魔だったが、幼馴染なので特別に許すことにした。
カイルに近付いてきた女の子を追い払う為に大喧嘩をした、その尻拭いをセトにさせていたことなどは都合良くリーゼの記憶からは抜け落ちていた。
そのカイルと初めて受けた山賊討伐の前日に結ばれた。酒の勢いも借りたが、リーゼとカイルが恋人同士であることは疑いようもない。
でも、リーゼはミレアとカイルが一緒にいるのを見る度に不安になった。二人は端から見てもお似合いの二人だった。カイルを信じてはいるが、彼女に惹かれない男はいないだろう。
ミレアを止めてホッとしているカイルの傍にそっと近寄って、その腕にしがみつく。
一瞬驚いて、それからどうしたのかと甘い笑みを浮かべて訊ねるカイルに、何でもないと答えながらもしがみつく腕に力を込める。
カイルは甘えるリーゼを見て頬を緩め、優しく彼女の頭を撫でた。
アタシにはカイルさえ居ればいい。
そう心の中でリーゼは呟いた。
そうして二人は、甘い恋人たちの時間を過ごした。
リーゼたちが二人だけの時間を過ごしている間に、ベネトとセトが必死に双頭蛇を討伐していたのは余談である。