剣をとる女
一人の女が街の路地裏を必死に走っていた。女の後を追って、人相の悪い数人の男達が追いかけてくる。
女の方が脚力に優れていたが、男達に比べて土地勘が無い様子で逃げ切ることが出来なかった。
女は無意識に腰に下げた剣の柄を握りしめながら、視界に映った道の曲がり角に飛び込む。
何故こんなことになったのか、女は舌打ちしながら想いを馳せた。
女はある国のメルギド家という騎士爵の家に生まれた。シエラ・メルギド。それが彼女の名だ。
その国においては、騎士爵とは男爵の下に当たる下級貴族に相当する。平民であっても国に仕える騎士となることができれば騎士爵が与えられ、最下級とはいえ貴族の仲間入りをすることができる。
その代わり、その地位は一代限りだ。騎士の子供は騎士爵を継ぐことはできず、平民となってしまう。故に騎士爵の家は子供も騎士になることが至上の命題となっていた。
だが、彼女の家には息子が生まれず、子供は彼女だけだった。そのままでは貴族の地位を失うことになると、彼女の両親は焦っていた。
彼女が貴族と結婚することができれば良いのだが、跡取りのいない騎士爵の家は、貴族にとっての魅力は皆無だ。
貴族との婚姻など夢のまた夢だった。
彼女が小さな頃から、夜に両親が顔を見合わせて深刻な様子で相談しているのを何度も見た。
それを見ていた幼い頃の彼女は思い立った。
自分が騎士になろう・・・と。
この家に騎士がいないのが問題ならば、自分が騎士になればいい。
だが、その夢は呆気なく潰えた。
理由は単純明快だ。女は騎士にはなれない。
彼女の両親はその夢を聞いただけで怒り狂った。
貴族の間に根付いている聖教会の教えでは、女性は家を出ずに夫を支えるのが理想とされていた。そして、騎士に叙勲されるには敬虔な聖教徒であることが要件とされており、両親も聖教会の忠実な信者だった。
もっとも、両親の執着を抜きにしても、もし彼女が騎士になりたいという夢を他人の前で語っていたら、彼女の家は爪弾きにされていたのだが。
彼女は実感できていなかったが、女が社会にでることに対する反発はそれほどに厳しい。
結局、彼女は騎士にはなれなかった。
その夢を口にして以来、両親とも上手くいかなくなり、彼女はとうとう家を飛び出して傭兵となった。
傭兵として名を上げ、騎士として迎えられることを夢見て。
それから何年も経ったが、彼女は未だに全くの無名だった。
名を上げるどころか、そもそも傭兵としての仕事を受けることができない。女というだけで、どこからも敬遠される。必死に磨いた剣の腕を見せる機会さえ与えられず、門前払いされるのだ。
彼女と同じ女性の傭兵もいるにはいたが、彼女たちは個人ではなく傭兵団に入ることで仕事を得ていた。
しかも、ほとんどの物は剣を振るって戦うのではなく、傷の手当てや野営の準備などの後方支援か、傭兵団の専属娼婦のような役割だった。
それでも諦めきれずに傭兵を続けていた彼女は、この街である傭兵団に入れないかと試みた。
ボゾン傭兵団という黒狐と棍棒の旗を掲げた傭兵団が今この街に駐留していることを知って、その溜まり場に向かったのだ。
旗を掲げることができるというのは、大きな傭兵団だけである。
旗、正確に言えばそこに紋章を掲げることは、特別な許可を受けなければできない。何故なら、紋章とはどこの国のどこの家かを一目で判別する為に、厳格に管理されているからだ。
彼女がいるこの国の貴族は、盾と兜が紋章の基本になっている。
紋章の中央には盾が掲げられ、その盾に設けられた縞状の模様の位置で、その貴族の領土がどこにあるかを示す。例えば、盾の左側に縦縞の模様があれば、その貴族は国の西部に領土があることになる。
そして、盾の上の小さな兜が正面、左右のどちらを向いているかで、その家の当主か本家か分家かを示し、その兜についている飾りが爵位を示す。
ここまでが基本で、これにどこの家かを示すその家特有の紋章が加わる。大抵は動物と武器の組み合わせになっており、どこの家か簡略して示す時はその組み合わせだけで示されることもある。
これがこの国の紋章だが、当然、別の国では違う法則で紋章が形造られているので、その種類は膨大なものになる。
だが、異国の紋章だからといって無視することもできない。他国から貴族がやってきた時に、その紋章を知らなかったとなれば、大きな汚点となってしまう。
そこで、これらの紋章を全て把握する役目を果たしているのが、紋章官と呼ばれる者たちだ。
紋章官となるには国の試験を受けて合格しなければならず、その窓口は極めて狭い。紋章官になれるのは極めて高い教養と人脈が必要なのだ。
それでも、高位の貴族や世界をまたにかけるような大商人ならば必ずお抱えの紋章官がいる。
このように紋章は厳格に管理されている為、傭兵団が旗を掲げる許可を得るには厳しい審査が必要となる。
その旗が貴族の紋章に似ていれば、その貴族に対する侮辱になってしまうし、他国の紋章と似た旗を掲げる事を許可すればその国との間で問題になりかねない。
従って、許可をえるには、その旗がどこの国の貴族の紋章とも似ていないことを紋章官に調査して貰う必要がある。
しかし、紋章官は国か大貴族か大商人に仕えているのが通常である為、彼らとのコネがなければ、そもそも紋章官に調査して貰うことができない。
そして、仮に調査して貰うことができ、問題がないという結論が出てもまだ大きな問題がある。
莫大な費用だ。
紋章官は、各国の紋章を把握する為の紋章を登録した名簿を所有している。当然、その中には、傭兵団などが許可を得た旗も含まれる。
従って、新たな旗を掲げるには、その名簿に登録する必要がある。
そう、世界各国にいる全ての紋章官の名簿を更新する必要があるのだ。一人一人は対した額ではなくても、その数は膨大だ。遠方にいる場合には運送費も馬鹿にならない。
当然、その費用を負担するのは傭兵団である。並の傭兵団では負担できない額になる。
旗を掲げることができるということは、貴族たちとの太い人脈を有し、豊富な資金を有している証なのだ。
まあ、勝手に旗を掲げている傭兵団もなきにしもあらずなのだが、ボゾン傭兵団は正式な許可を得た実力派の傭兵団だ。黒狐も棍棒も、貴族からは敬遠されるので得易い紋章とはいえ、その人脈と資金は本物である。
彼女はそんなボゾン傭兵団の門戸を叩き・・・
現在、逃亡していた。
理由はよくあることだ。
対応した傭兵団の男が、傭兵団に入れる代わりに身体を要求してきたので思わず殴り倒しただけだ。
それだけならこれまでにもあったことなのだが、今回は相手が陰湿だった。
女に正面から殴り倒されたとは言い辛かったのもあるのだろうが、男は彼女に不意打ちで襲撃されたと報告した。結果、彼女は怒りに満ちた男とその傭兵仲間に追い回されることになったのだ。
もっとも、追って来るのはあの男を含めて4人ほどだ。彼女は知らなかったが、男たちは最近入ったばかりで、入団以前から連んで野盗紛いのことをしていたグループだった。
分断すれば各個撃破できるかもしれないが、土地勘の無さから分断するどころか追い込まれてばかりだった。
角を曲がったところで鈍い銀色の輝きに気付き、慌てて飛び退くと一瞬前まで頭があった場所を刃が通り過ぎる。いつの間にか先回りされていたのだ。下品な笑みを浮かべた身軽そうな男が舌なめずりする。
ちらりと背後を窺うと、三人の男たちが背後から迫っていた。このままでは挟み撃ちになる。
だが、今は目の前の男だけだ。
増援がいないなら、まずこの男を倒す。
そう決意すると、素早く剣を抜いて切りかかった。相手が女だからと油断して剣を抜くのを見逃していた男は、その剣の予想外の鋭さに慌てて飛び退いた。
それを更に踏み込んで反撃する暇を与えず数合打ち込むと、耐えきれずに男の剣が弾き飛ばされた。だが、止めを刺そうとしたところで、背後から男たちの気合いの声が聞こえ諦めて振り返った。
足の速さの違いからか、一人だけ突出している。ここで一撃で決めるしかない。そう覚悟を決めて自分から勢い良く踏み込んだ。
彼女が飛び込んでくるとは考えていなかったのだろう。その男は慌てながらもタイミングを合わせて切りかかってくる。
彼女はそれを受けず身を捻って紙一重で避けると、袈裟掛けに切りかかった。驚愕の表情を浮かべたまま、肩を切り裂かれた男が剣を落としてうずくまる。
一つ間違えれば自分が先に切り裂かれかねない危険な賭だったが、彼女はその賭に勝った。
それで油断していたのだろう。
残り二人。
男たちが怯んでいるのを見て、今なら勢いに乗って追い払えるのではないか。
そう考えて迎え討とうとした瞬間、背後から急に羽交い締めにされた。最初に剣を弾き飛ばした男が無傷のままであることを失念していたのだ。
男を振り払おうとしたが、追ってきた男たちが追いつく方が早い。仲間が切られたことで興奮した禿頭の傭兵が、何の躊躇もなく切りかかってくる。
もう駄目かと思わず目を瞑ったその時、ギィンという金属音がして目の前まで迫った剣の風圧が止まった。
彼女が恐る恐る目を開けると、一人の少年が禿頭の男の剣を受け止めていた。
それが、後に剣妃と呼ばれる剣豪シエラ・メルギドと未完の英雄カイル・バークレーの初めての出会いだった。
紋章についてはかなり適当です。本物の紋章学とか手に負えません。
近代以前、女性が就ける仕事には大きな制約がありました。
魔女として処刑されたあの有名なジャンヌ・ダルクが処刑された際に上げられた罪の一つに、『男装の罪』というものがあります。
女性が就ける仕事が少ないことから、女性が男のふりをして仕事に就くというケースがあり、これを取り締まる為に女性が男装することを罪と規定したのです。
ファンタジー小説によく出てくる女騎士ですが、実際には途轍もなく大変なことです。