夢の終わり 伍
一年を締めくくる年の暮れ。
人里は降り積もった雪によって白銀に染まり、家々では年末の大掃除や正月に向けた買い出しなどで人々が右往左往しており、刀哉が住む美剣城でも女中たちが慌ただしく廊下を駆けまわっていた。
掃除の指揮を白刃に一任した刀哉は年賀状の執筆に追われ、知人や友人に宛てて真っ白な葉書に新年の挨拶を書いていく。
同時に年末の挨拶におとずれてくる客の対応にも追われていた。
阿求や慧音など、殆どが人里に住む者達からであるが、意外な人物が城を訪れたこともある。
八雲紫だ。
来客の受付をしている女中から紫の名を聞いたとき、彼は我が耳を疑った。まさかあの八雲が、表玄関から入ってくるなど一体どういう風の吹き回しであろう。これは明日あたり雪ではなく空から槍が振ってくるに違いないと思いつつも、来たからには応ぜざるを得ず、ただの挨拶ではないと判断して応接間ではなく居間に通した。
「ごめんなさいね、お忙しいときに」
益々気味が悪くなった。紫は遠慮がちに座布団に腰を下ろすと、明らかに刀哉を気遣うような素振りを見せている。
「熱でもあるのなら、無理をせず休んでいたほうが良いぞ?」
「失礼ね。私だって礼節は弁えているわ。ただ礼に値する相手がいないだけであって……何よ、その疑わしい目は」
じとりとした視線に紫は珍しく慌ててみせた。
「で、ただ年末の挨拶に来たわけでもないのだろう?」
「まあね。ほら、いつだか屋台で結んだ約束を覚えている?」
「ああ……あんたの家に行くというアレか。あれやこれやですっかり忘れていた。すまない」
「いいのよ。仕方ないもの。だから、もし宜しければこれから我が家に遊びに来て下さらない? こういうのも何だけど……もう、時間が無いでしょう?」
彼女の言葉に彼は黙ったまま腕を組んだ。
やはり八雲は何もかも見通している。
あるいはあの戦いを全て見ていたのかもしれない。
主だった面々の挨拶が終わった時を見計らって来たのも、八雲なりの気遣いであったのだろう。ならばその気遣いに応えぬわけにもいかず、ましてや一度約束したのだから違えるわけにもいかなかった。謎の多い幻想郷の中でも特に謎とされているのが八雲の住処。
誰も知らず、誰にも辿りつけない、あるのかどうかすら疑問視されている妖怪屋敷。
幻想郷の中でも彼女の住処に招待された者は、霊夢を含めたごく僅かのみ。
ある意味で光栄であるが、一体どんな魑魅魍魎が跋扈しているのかと思うと気が滅入る。
ともあれ約束は約束。行かなければ沽券に関わる為、彼はスキマをくぐって八雲屋敷の敷地に足を踏み入れた。真冬だというのに周囲は鬱蒼と生い茂る木々や桜梅桃李に囲まれ、池で泳ぐ魚たちの殆どが海に棲むものばかり。そして佇む屋敷の前で、彼女の式である八雲藍と橙が彼と主人を出迎えてくれた。
藍は自慢の九尾を揺らし、両腕を袖の中に納め、恭しく刀哉へ一礼する。
「八雲紫様の式、藍と申す。以後お見知り置きを」
「刀哉と申す。こちらこそ以後昵懇に。といっても春までの命だが。そちらの猫娘は、いつぞや我が家に来ていたな?」
「は、はい! 改めまして、橙と申します!」
互いに挨拶も済ませたところで、立ち話もあれなので屋内へ入ろうという紫の提案によって彼は縁側に面した茶室へ通された。紫自らの手で茶が立てられ、辺りから漂ってくる一足早い花の香りが心を鎮めてくれる。
「誠に奇っ怪な場所だ。真冬だというのに花が咲き、池には海の魚。まさに妖怪の住処といったところだな」
「気に入って頂けたかしら?」
「たまに見るにはいいが、いつも見ていては季節の有り難さを忘れそうだ」
干菓子を味わい、程よい熱さの茶を二、三度啜る。
「茶の湯の心得が無いので、無作法だが許せ」
「お気になさらず。私も幽々子ほど達者ではないもの。ただ、貴方とはじっくりと話をしてみたかった。今まで私は貴方という人間をずっと見守ってきた。この世界に流れてきた外来人は多くいたけれど、貴方はその中でも特に特殊。異質といっていいかもしれない。でもその前に、私は貴方に御礼を言わせて頂くわ……」
紫は居住まいをただし、深く深く頭を垂れた。
「この世界を救って下さいまして、ありがとうございました。この御恩は生涯忘れません」
一切の裏表のない純粋な感謝の念。ここで言わねば二度と言えなくなる……そんな想いが紫を駆り立て、永きに渡る彼女の生の中で後にも先にもこれっきりという覚悟の篭った、真心からの謝礼であった。面食らった刀哉は暫し固まってしまい、我に返るのと同時に紫の細くしなやかな肩に両手を添えて頭を上げさせる。
「礼を言われる筋合いなどない。俺は、自分の故郷を守っただけだ。大切な友人の為、かけがえのない家族のために戦っただけのこと。すまんことなどあるものか。俺の命のことを負い目に想うこともない。俺は人の子だ。人の子は天命に従う。それだけだ。それより、あんたが淹れてくれた茶は実に美味かった。もう一杯、頼めるか?」
「えぇ……喜んで」
二杯目の茶は作法など気にせず、まるで煎茶を飲む如く語らいの合間に喉を潤していく。
「この世界は、どうだった?」
不意に尋ねた紫の問いに彼はフッと微笑む。
「そうさなぁ、長い夢を見ていたようだ。気がつけば彼岸の花園に立って、わけもわからないうちに刀を振るっていた。ルーミアや魔理沙に救われて、人里では阿求や慧音に居場所を与えられ、道場まで開くことが出来た。まあ、射命丸には少々してやられたが、おかげで山の連中とも知り合えたし、色々と教授してくれる師に巡り会えた。妖夢という剣客仲間も出来たし、永遠亭にも随分と世話になった。戦が起きれば練り上げてきた剣の腕を存分に振るえた」
一旦言葉を区切って深く呼吸をし、さらに続ける。
「白刃という家族を得て、黄泉の国へ渡った時は随分と驚いたが、自分の過去を取り戻すことも出来た。まあ、紅魔館のお嬢には少々難儀をしたが、それでも楽しかった。皆のおかげで立派な城を構えて白刃の願いも叶ったし、後を託すことが出来る子も間もなく産まれるだろう。此度の異変も、俺に宿ってくれた神が心残りにしていた因縁も果たすことが出来たし、きっと満足してくれていることと想う」
そして彼は心から笑ってみせた。
「幸二の一生は辛く悲しいものだったけど、刀哉の一生はこの上なく幸せだった。故に、俺に幸せを与えてくれた幻想郷には、感謝してもしきれない。もう思い残すこともない。俺は春の訪れと共にこの世界から去る。後のことを赤子に託して、俺はこの夢から醒めようと想う」
「夢……なんかじゃないわ――」
紫は彼を強く抱きしめ、嗚咽混じりの悲鳴のような声で彼に叫ぶ。
「夢なんかじゃない! あなたは此処にいる! 刀哉という人は此処にいる! そして此処にいた! 誰が忘れたとしても、私は貴方を忘れはしない! 私は貴方に何もしてあげられなかった! どんなに感謝しても、どんなに悪びれても、貴方はいつも笑ってゆるしてくれる! それが辛かった! その優しさが嬉しかった! だから私は、いつも貴方を頼ってばかりで、いつも高いところから見下ろしてばかりで……お願い……死なないでよぉ」
感情の爆発と共に今までの想いが堰を切ったように溢れだした。
刀哉は震える紫の背をそっと抱く。妖怪の賢者と讃えられ、幻想郷の管理者と畏れられた八雲紫の、弱々しい少女のような細い背。いくら年月を重ねようとも、いくら強大な力を持っていようとも、これこそが八雲紫の本当の姿なのかもしれない。
「紫……ありがとうな。俺を見守っていてくれて。今にして思えば、この世界に流れてきた俺の記憶を消してくれてよかった。おかげで俺は色んな幸せを得られたのだから。紫は俺を救ってくれたよ。幸二が願った、人のために剣を振るうことが出来たのだから」
「馬鹿ぁ……あなた、馬鹿よぉ……」
「くくく。紫こそ、涙と鼻汁で馬鹿みたいな顔になっているぞ? 後のことは……頼む」
季節は移ろい、年が明ければ彼は門下生たちを集めて最後の稽古をした後に免許皆伝を童たちに与えた。不思議がる子どもたちは口々にまだまだ稽古がしたいと言うが、彼は笑うばかりで答えようとはしなかった。
「先生は……どこかに行っちゃうの?」
特に懐いていた童の一人が問う。
「ああ、少し、長い旅に出ることにしたんだ。稽古はこれで終わりだけど、日々の鍛錬だけは欠かすなよ? 皆は十分強くなった。もう教えられることはない。あとは自分たちの力で技を磨くんだ」
と、彼は弟子たちに言い残して道場の看板を下ろした。
その知らせを生徒たちから聞いた慧音が寺子屋を飛び出し、刀哉のもとへ駆ける。
またぞろ山にでも篭もるのかもしれない。きっとすぐに帰ってくるだけだ。
願うように自分に言い聞かせた慧音が息を切らして城の前まで来ると、刀哉はちょうど子供たちを見送って城内へ戻ろうとしていた。
「刀哉!」
慧音の呼び声に刀哉は振り返り、にこりと笑って城の中へ消えていった。
まるで、もう追いつくことが出来ないのではないか。彼は手がとどかない場所へ行ってしまうのではないか。そんな予感が慧音の脳裏を駆け抜けた。
刀哉は後日、無縁塚を訪れた。
幻想郷における自身の始まりの地。全てはここから始まったのだ。
彼は腰の神刀を外して彼岸の大地に突き立てる。
すると刀は青白い光を帯びて宙に浮き、脳裏に厳かな刀神の声が響いた。
「思ひ残すことはなきや?」
「ああ。俺も、天に帰るときが来た。俺に、幸二に、命を与えてくれたこと、感謝に耐えない」
「汝に使はれて、我も幸せなりき。さらば」
神刀、布都御魂剣は稲妻となって天空へ昇り、やがて消えた。
彼に残されたのは、肉体を維持するために残留した魂の霊力だけ。
降り積もった雪が溶け、桜の木々に蕾がついた頃、白刃が産気づき始めた。
里中から産婆たちが城に集まり、白刃はその時を前にして刀哉に手を握られている。
「白刃……元気な子を、産んでくれよ?」
「お任せ下さい……殿に負けないくらい、よい子にしてみせます」
「頼んだぞ」
刀哉の子の誕生を見守ろうと、城には幻想郷の面々が一堂に会していた。
大広間では既に大宴会の支度が進められており、中には料理をつまみ食いし、先に一杯引っ掛けている不届き者もいたが、誰も咎めることはなく、ただ子の産声を誰もが待ち望んでいた。
刀哉は白刃を見送った後に、ただ一人、誰もいない縁側に腰を下ろして、徐々に白み始めた地平線を眺めていた。あの朝日が昇る頃には産まれるだろう。
そのとき、自身の星も落ちる。
他の星々が暁の輝きに消えていく中で、彼の宿星だけが煌々と最期の輝きを放っていた。
段々と意識が霞んでくる……。
身体も無気力になって、命の炎が消えかけていることが理解出来た。
そのとき廊下に騒がしい足音が響いた。
「あ、こんなところにいた。おいおい、自分の子供が産まれそうだってのに、なんでこんなところにいるんだぜ?」
姿が見当たらない刀哉を探しにきた魔理沙が、彼の隣に腰を下ろす。
「なんだよ、俯いちゃってさぁ。もしかして緊張しているのかぁ? くくく、刀哉にもそういうところがあるんだな。ちょっとした発見だぜ。皆に言いふらしちゃうぞ?」
「ああ……そりゃぁ、ちょっと困るなぁ。格好わるいところを見られた」
刀哉は消えかけていた意識を魔理沙の声によって取り戻し、懐から短冊と筆を取り出す。
「お? 何だ? 俳句か?」
「まあ、記念にな。一つくらい残しておいてもいいだろう」
「見せてくれよ」
短冊を取ろうとする魔理沙の手を軽やかに避ける。
「ダメだ。子が産まれた後にでも、読ませてやるから……魔理沙、ありがとうな」
白刃は産婆たちに囲まれていた。
痛み、苦しみ、そして悲しみが彼女を襲う。
今まさに彼の子が産まれようとしている。
だが産めば彼は自身の前から消えてしまう。
告げられた日から覚悟はしていた。子の誕生を彼が願うのならば、それに応えるのが家臣としての、妻としての役目。だが、しかし……。
「殿……殿ぉ!」
叫ぶ白刃。子も父の最期を知ってのことか、中々母から出てこようとしない。
難産だった。が、彼が短冊に句を書き終えた直後、するりと赤子は母の腹から離れ、産婆たちの手の中にその小さな身体を曝け出す。男児であった。
城中に響かんばかりの産声を上げ、すぐに清潔な布で身体を拭かれ、湯で身体を洗う。
その声を城の天守から聞いた紫が天を見上げると、暁の空に一筋の星が落ちた……。
「産まれた……産まれたんだぁ! おい刀哉ぁ! お前の子が産まれ……刀哉?」
はしゃぐ魔理沙が刀哉を覗きこむと、彼は身体を壁に預けたまま瞼を閉じていた。
「お、おいおい、なに居眠りしちゃってるんだよ! 産まれたんだよ! お前の子が産まれたんだよ! さっさと起きて迎えに行ってやれって! おい刀哉!」
魔理沙が彼の肩を激しく揺さぶると、その手に持たれていた短冊がするりと抜け落ちた。
刹那、蕾であった桜の木々が一斉に開花して花吹雪を巻き起こし、城も庭も、そして彼と魔理沙をも包み込む。まるで幻想郷そのものが彼を送り出すかのような奇跡。
刀哉、逝く。
春の初めの、暁天に。
魔理沙が驚く中、スキマから現れた紫が短冊を拾い上げる。
一睡の 夢路の朝に 咲く花の 香りに誘われ 雲の彼方へ
「辞世……最期の最期まで、あなたは……」
感極まった紫が口元を押さえて涙を零す様を、魔理沙はただ見守るより他に無かった。