夢の終わり 肆
翌日から刀哉は部屋に籠もるようになった。といっても毎朝の鍛錬は欠かさず、食事を済ませた後に自室を固く閉ざして誰も入れず、広げた紙に筆をはしらせる。
まだ数ヶ月の猶予があるというのに、気がつけば自身が死んだ後のことをあれこれと書き残している。おかしなものだと嘲笑ってしまった。しかし、いつかは遺さねばならないことだ。
年を越し、新しい一年を迎えれば春まであっという間なのだから。
ついでに友人への頼りも認める。尤も寿命のことは一切記さず、他愛のない近況や来訪を促す程度にしておいた。だが言わずとも彼の運命を知る人物が少なからずいる。
その内の一人が紅魔館の主、レミリアであった。
彼女は飛脚の韋駄天が届けた刀哉からの手紙をテラスで読み、瞼を閉じて彼の行末がピタリと閉じられていることを感じ取った。生きとし生ける物が須らく抱く運命の断絶。
通常の死期ではない、唐突な運命の途切れ。まるで消えて無くなってしまうかのような不可解な運命に、彼女は刀哉に待ち受ける結末を悟る。羽ペンにインクを浸し、羊皮紙に向かう彼女はふと可笑しくなった。今まで誰かと文通をすることなどあっただろうか。
ましてや相手は半神とはいえ自らを人間と称す男性。
いざ書くとなると、一体何を書けばいいのか分からなくなった。
いっそのことフランを伴って会いに行こうか。考えてみれば彼が紅魔館を訪れてからフランの狂気も無くなり、今までの蟠りなど消え、愛する妹は自由に館の中で過ごし、仲睦まじい姉妹となっていた。あるいは彼に救われたのはフランではなく自分自身なのかもしれない。
まだお礼を言っていなかった……。
と、レミリアは挨拶の後にらしくもないことを匂わせる程度に記し、咲夜に届けるよう命じた。
また、白玉楼の主も彼の死期を察していた。
彼岸の裁判所から訪れた閻魔を客人に迎えていた西行寺幽々子は、今しがた届いた彼の手紙を彼女にも読ませ、妖夢を呼びつける。表向きは茶菓子を購入してくるように言い、ついでに刀哉に挨拶を済ませて来いと申し付けた。主の言葉に多少の疑問を覚えつつも妖夢は人里へ向かい、一部始終を見ていた閻魔、四季映姫は幽々子に苦言を呈する。
「正直に、彼に別れを告げて来いと言えば良かったのでは?」
「貴女は物事を白黒付けたがりすぎる。あの実直な彼が自らの行末を知りながら普段通りに、人の子として振る舞うというのならば、私達も普段通りに彼を見送ってあげるべきなのよ。真実を妖夢に言えば、あの子は普段通りでいられなくなるわ。それは彼の意思を無碍にすることになるのよ。だから、知らぬ方がいいの。知らない振りをしたほうがいいの」
死にゆく者、死した者に対する最大の供養は、その遺志を尊重すること。
途方も無い数の死者の声を聞いてきた幽々子だからこそ、途方も無い死者を裁いてきた映姫だからこそ、彼の不器用な気遣いに涙を零した。
妖夢が買い物を終えて美剣城の門をくぐった時、彼はレミリアからの返書を黙読していた。
「お嬢が手紙を寄越してくるとは……やはり、隠せぬ相手もいるということか」
「失礼致しますだ。先生、白玉楼の妖夢さんが来られました」
「妖夢が? わかった。すぐ行く」
応接間にて互いに挨拶を交わし、妖夢からは戦勝の賀詞を賜り、しばらく語らう内に彼は妖夢を中庭に連れ出して竹刀を投げ渡した。
「久方ぶりに、お手合わせ願う」
「ご指南……お願いします」
冬の空に軽快に響く竹刀の音。
妖夢も以前に増して技のキレが良くなっている。
自分なりに修行を積み重ねたことが竹刀を通して伝わってきた。
おそらくはこれが最後の手合わせとなるだろう。故に、彼も一切の手抜きをせず、自身が練り上げてきた技を披露した。この太刀筋を、剣客刀哉の生き様を目に焼き付けて欲しい。
「あっ!」
儚い願いを竹刀に載せて一閃すると、妖夢の手から離れた竹刀が宙を舞った。
「参りました……まだまだ、お兄様には敵いませんね」
「よく修行をしたようだな。見事な打ち込みだったぞ」
と、彼は手を伸ばして妖夢の銀髪を優しく撫で回す。
「な、何をなさるのですか……恥ずかしいです」
「許せ。ただ、妖夢が俺の妹分になってくれたことが嬉しかった。共に剣技を競い、道を修める仲間が出来た。感謝している」
「そんな大げさな。私の方こそお手合わせするたびに学ぶことばかりで……でも、私も刀哉さんと会えてよかったと思っています。これからも共に頑張りましょう! いつか私は貴方もお祖父様も超えて見せますから!」
「そうか。それは、楽しみだ」
最早彼女の願いが叶う日は訪れず、彼女の願いを見届ける時間も彼には無い。
だというのに、彼は本心から彼女の成長を楽しみにしていた。
思いがけず長居してしまい、幽々子が待っているので暇乞いをした妖夢を見送った彼は里の酒屋へ向かうと、一番上等な大吟醸を一升仕入れ、徳利を引っ提げて妖怪の山を登った。
夏の頃とは打って変わった雪景色。
木々の葉は落ち、獣たちも春を待って冬眠の日々。
河童たちで賑わっていた渓谷を流れる川も、大蝦蟇が塒にしていた池も、今となっては静まり返っている。枝の間を抜け、霧と見紛う飛沫を吹き上げる滝の畔に出た彼を出迎えた人影。
苔むした大岩に腰を下ろし、煙管から紫煙を立ち上らせる妖怪の山の大天狗にして彼の師は、弟子の赤らんだ顔を見た途端に呵々と大笑して岩から飛び降りた。
「よう来た! かような寒空に拙僧を訪ねるとは、何か企みがあってのことじゃな?」
「企むとは心外な。師と一献酌み交わそうと思い立ったまでのこと」
「む? 一献とな? それは重畳じゃ。ちょうど酒を切らしておったのでな」
鞍馬は自らの髪の毛を毟り取って息を吹きかけると、二本の毛は鹿の毛皮が敷かれた床几となって二人の腰を支えた。盃に酒を酌み交わし、一息に飲み干す。
「おお、これは良い酒じゃ。して……何の話ぞ?」
「話すことなどない。先ほど言ったように、ただ俺は酒を」
突然振り下ろされた鞍馬の錫杖が刀哉の脳天を打った。
「この大たわけめが。拙僧の眼を誤魔化せると思うておるのか?」
ズキズキと痛む頭を擦る彼は眼を丸めて師を見据える。
「あのことをご存知なのか?」
「無論、存じておる」
「誠に?」
「いや知らん」
危うく床几から転げ落ちそうになったのを何とか踏みとどまり、見事にハッタリをかましてくれた師に呆れ返る。しかし当の鞍馬はしてやったりと勝ち誇った顔で高く伸びた鼻先を撫でており、年季の差に参った刀哉は淡々と語り始めた。
「冬が明け、春が訪れたとき、俺の子が産まれる」
「おお、其れは祝着至極じゃ」
「そのとき俺の宿星が堕ちる。赤子の産声と共に」
盃を傾けようとした鞍馬の手が一瞬止まり、すぐに飲み干して身を刀哉へ乗り出した。
「死が恐ろしいか?」
「いや、元より失った命。恐れはない。ただ、後に残る子が気になる」
「さもありなん。死は万人に等しく訪れるものじゃ。拙僧とて、いつ死ぬるかわからぬ。要は、如何に死ぬるかじゃ。生者の価値は如何に死に、何を遺すかによって決まる。おぬしが幻想郷に遺すものは何じゃ」
「……子、か?」
「それもある。だが、お主がこの世界の住人の命に刻んだものは……志じゃ。拙僧がお主に惚れ込んだのも、清廉潔白にして実直な剣の志じゃ。正道を生きようとする義の志、誰もが胸に抱く生き方であるが、実行できる者などそうはおらぬ」
「そうかな。俺は単純明快であろうとしただけだが」
「それこそがお主の価値じゃ。人は悩み、迷い、欲望に溺れるものと教えたろう? 人とはそういうものだ。だからこそお主のような生き方をしようとも、出来ぬ。じゃがお主は人里の連中、また妖怪どもに、生き方を実践してみせた。誰の心にもお主という人間がおったと刻まれた。それこそがお主がこの世界に遺したものじゃ」
ここまで言われると気恥ずかしさで背中がむず痒くなってしまうが、鞍馬はさらに捲し立てる。
「故に、お主は最期までお主でいればよい。堂々と死ねい。拙僧が弟子の死に様を自慢できるように死ねい。見事な最期だったと皆に讃えられるように死ねい」
「弟子に向かって死ね死ねと言う師匠がいるとは思わなんだ」
「カッカッカ! いつでも化けて出て来い!」
何やら奇妙な師弟のやりとりであったが、今の刀哉には、鞍馬の変わらぬ人を喰った物言いが有りがたく聞こえた。
少なくとも悲しまれるよりは余程いい。良き死に方まで教わることになるとは思ってもみなかったが、最後の最後まで気にかけてくれる師の存在は中々得られるものではない。
春まであと幾ヶ月かあるが、二人は口に出さずとも、この酒盛りを今生の別れとして存分に語らい、存分に飲み、そして互いの帰るべき場所へ戻っていった。