夢の終わり 参
い草の香りが鼻をくすぐり、ぼんやりとした視界に映り込んだのは見覚えのある天井の木目だった。体を動かそうとしても一向に力が入らず、かろうじて首が左右に動くくらいで、体を包む布団を払おうとしても腕が言うことを聞かない。仕方がないので思案を巡らせるが、記憶のところどころが曖昧にぼやけていてハッキリとしなかった。
が、息を吸えることから生き延びたことだけは理解できた。
尤もここまで満足に動けないところから察するに、相当の体力と霊力を消費してしまったのだろう。どうやら此処は永遠亭の病室であるようなので、あとは月の名医の腕を信じるよりほかになかった。
幾度も深呼吸を繰り返すうちに、ぼやけていた思考も徐々に澄み渡ってくる。その中で真っ先に思い出したのが、あの言葉だった……。
――赤子の産声と共に宿星は墜ち、神の器に過ぎない己はただ消える。
目眩を覚えた。しかし動揺はしていない。星神が倒れた今となってはその言葉の真意も真偽も確かめる術がないが、刀哉は直感的に、偽りではないのだろうと思った。万物の宿命を司ると嘯くほどの相手。
人を見下していたが決して汚れてはいなかった。
ゆえに信用に値する。
我が子の誕生と共に己は死ぬ。
ひどく淡々と結論づけた刀哉であったが、今一つ、腑に落ちない点があった。なぜ敵はその場で宿星を落とさなかったのか。勝ったと確信した隙を突かれたにしても、とどめを刺す力が無かった相手を葬ることも十分に出来たはず。あるいは勝者が死の恐怖に怯えながら過ごす日々を眺めて楽しむつもりであったのか、それとも星神に余裕が無かったのか、いずれにしても確かめることは出来ないし、興味もない。
生き残った。勝った。それだけで刀哉には十分過ぎた。
たとえ産声と共に消えようとも、その瞬間まで精一杯生き抜いてみせる。ただの偽りであるならば、一人の父として我が子の為に命を捧げる。ただそれだけのことと彼は清々しい思いで笑みを浮かべた。
まもなく廊下に二人分の気配が現れ、盆に薬を載せた永琳と輝夜が彼のもとを訪れた。
「具合は如何? といっても動けないでしょう」
「よほど酷くやられたようだな」
「生きているのが奇跡のような傷よ? 肩から脇まで抉られ、出血量もとうに致死量を超えていた。手術、大変だったんだから」
と、医者らしい冷たい顔で症状を伝える永琳の傍らに座る輝夜はにこりと笑み、無言で彼の功を労っていた。
包帯を交換する間も、彼は輝夜と言葉を交わす。
「白刃は?」
「別室で寝てるわ。見上げた忠臣ね。三日間食事も睡眠もとらずにあなたを看病していたわ。結局体力が尽きて気を失ったけれど、譫言のように、殿、殿と繰り返している」
「あいつめ。腹の子に障るようなことをして……」
「そういえば夫婦の仲だったわね。しかも子まで拵えるとは隅に置けないじゃないの。是非詳しく聞かせていただきたいものだわ。永遠を生きる妾が経験したことがない男女のおとぎ話を」
艶やかに唇を舐めてみせる輝夜に刀哉は溜息を吐く。
「疲れている。戯れ言は勘弁してくれ」
「あら連れないのね。そうそう、貴方にお見舞いが来ているわ」
「見舞い? 誰から」
「みんなよ。八雲も守矢も紅魔も白玉も、その他一同様から品が届いているわ。会わせろというのを追い返すのも骨が折れたわ」
「左様か。皆には、礼を言わないとな。見舞いの品はそちらで分けてくれていい。気持ちだけで十分だ」
言葉を切り、白刃のことを想う。
例のことを知ればどうなるだろうか。
刀哉のことを主君として、また夫として慕う気持ちと、世継ぎを産まねばならない気持ちが板挟みになって苦しむに違いない。
下手をすれば、子を産んだ後に追い腹を切ることも考えられた。
ともなれば残された子のことが不憫でならない。
言えぬ。とても言えぬ。
だが言わなければ、そのときになって白刃がどれほど悲しむか、考えただけで胸が痛んだ。
「何か憂いでも?」
顔をのぞき込んでくる永琳に刀哉は驚く。
「顔にでていたか?」
「勘よ。図星のようだけど。星神に何かよからぬことでも告げられたのかしら?」
「さすがは月の賢者か。隠せぬな……永遠を生きる二人だからこそ、話すべきかもしれない。くれぐれも他言無用に願う」
前置きし、彼は星神から告げられた言葉を紡いだ。
「……事実、でしょうね」
沈痛な面もちで輝夜が声を絞り出した。
「不吉な紅い星が夜空から消えた。でもそのすぐ後に、蒼い星が異様に輝いている。それが貴方の宿星なのだとすれば……」
「是非もない。それが避けられぬのであれば。永琳、子が産まれるまであとどのくらいだ?」
「順調に育てば、次の春。でも、本当にそれでいいの? 私はその気になれば、私や姫様が呑んだ蓬莱の薬を作ることもできる。人であることを捨て、永遠に生きることも可能よ?」
「そんな生き方は御免被る。人は、限りあるものだ。限りがない生き方に、価値などない。散らぬ花はないんだ。俺を冷たい造花にしないでくれ」
心から願う彼の言葉に、彼女たちは其れ以上何も言えなかった。
彼の性格を知れば知るほどに重みが増す。今までも、そしてこれからも、彼の生き方は何一つ変わることはない。変えようとも思わない。たとえ死を目前にしても泰然自若。ただあるがままに、人の道理に従い、真っ直ぐに歩み続ける。
誰もが一度は夢見た不老不死に見向きもせずに。
「貴方は……強いのね」
「そんなことはない。結局俺は悩み続けてばかり。心が休まるときなど、ほんの少ししか無かった。だからせめて、これからは剣を置き、白刃や童たちと静かに過ごしたい。もう、斬るのは沢山だ」
この瞬間、彼は自ら剣客としての刀哉に別れを告げた。
二日も経てば身体もかろうじて動くようになり、一週間後に退院を迎え、彼は白刃に支えられて迷いの竹林をゆっくりと歩く。幾度か足を運んだこの道の静けさや竹の香り、小鳥の囀りに耳を傾けると、心が穏やかになる。
「白刃、城に帰ったら、お前の作る飯を食べさせて欲しい」
「拙者の、で御座いますか? 自信はありませぬが、殿の為、精一杯作らせて頂きます!」
嬉しそうに顔を輝かせる妻に向ける微笑に、彼は影を落としていた。
まだ伝えていない。伝えるとすれば、今宵。食事をした後の酒の席あたりかと考えていた。
伝えるか否か散々考え続けた結果だ。
伝えずに逝くよりも、堂々と伝えて逝った方が自分らしい。
刀哉の帰還は人里を大いに沸き立たせた。誰もが「先生が帰ってきた」と彼に駆け寄り、身体の具合や見舞いの言葉を送る。一つ一つ丁寧に返礼し、阿求や慧音に挨拶を済ませ、ようやく城に戻った彼は自室に用意された床につく。
見れば、部屋の奥に置かれた台座に布都御魂剣が据えられていた。
彼は鞘から刃を引き抜き、無言で打ち粉をくれてやる。いつもよりも心をこめて、今まで命を繋いでくれた感謝をこめて、そして二度とこの刃が血で穢れぬように願いをこめて。
食事の支度が整った報せを受けた彼は、おぼつかない足取りで居間へ赴く。
白刃が腕に縒りをかけて作り上げた膳は、以前とは見違えていた。
飯は固く、味噌汁は薄く、味気なかったかつての料理は、季節の野菜をふんだんに用い、塩加減も出汁の取り方も城の女中たちと遜色ないほどに上達している。
「美味い……美味いぞ、白刃」
「誠で御座いますか! 恐悦で御座いまする!」
刀哉に褒められて余程嬉しかったのか、白刃は両手を拳にして良しと呟いている。
「これなら産まれてくる子も安心だな。母の飯が不味いのでは不憫だ」
「まだまだ上達する心持ちで御座いますゆえ、ご安心くださいませ!」
「そうか。これからは毎日、白刃の飯が楽しみだ」
「ははっ! お任せを」
食べ終わり、食器の後片付けをした刀哉は白刃を晩酌に誘った。
冬の月は他の季節よりも一層清らかに映える。温かな酒を湯呑に注ぎ、二人寄り添って互いに暖を取った。このまま何の気兼ねなく過ごせればどれだけいいことか。
しかし彼は腹に決めていたことを実行に移す。
「白刃……話がある」
「何で御座いますか?」
「星神を倒した際に、宿命を司る奴の口から告げられた。俺は……子の誕生と共に、死ぬ」
「え? そ、それは……誠で御座いますか?」
白刃は震える手で刀哉の寝間着を軽く掴み、不安に満ちた眼で彼を見上げた。
「正直、語るべきかどうか迷うに迷った。だが言わずにはいられなかった。俺を慕ってくれる家来に、俺の唯一の家族に、秘め事など出来ない。だから、先に言っておく」
「い、いやで御座います……殿が死ぬなど、殿と別れねばならぬなど、拙者は、拙者は!」
感極まって強く彼の胸に抱きつく白刃の背を、優しく撫でる。
「今すぐ死ぬわけではない。子が生まれる春までは、生きる」
「な、ならば、此度の子は――」
「白刃!」
間髪をいれず、刀哉は白刃を黙らせた。
「馬鹿なことを言おうとするな。命をなんと心得る。大切な俺達の子だ。たとえ俺が死ぬるとも、その子だけは、無事に産んでくれ。頼む……頼むから」
堪え切れずに胸元で泣きじゃくる白刃。刀哉もまた、眼から涙が零れ落ちた。
辛い。だが、言い切った。
思いは十分に伝えた。白刃も泣きながら産むことを約束した。
人と刀は永遠につながっているわけではない。白刃とて、幾度も主人の死に際を目の当たりにしてきた。戦に斃れる者も入れば、病に没する者、天寿を全うする者、別れ方はそれぞれだったが、主君が刀を想うように、刀も主君を想う。
その夜は泣くだけ泣き、酒に溺れた。
我を忘れるほどに飲み明かし、肌を重ね、幾度も相手を求めてまぐわり続けた……。