夢の終わり 壱
周囲は、白一色に染まっていた。
天も、地も、どちらに目を向けても、地平の彼方まで続く真っ白な世界。あの世でもこの世でもないひどく殺風景で不可思議な光景に、刀哉はただただ息を呑んだ。
もしも此処に幾年も放り出されては気がおかしくなるだろう。
「真に何もない世界というのは、気が滅入るものだな」
「そうね。早く全てを終わらせて、皆のもとへ帰りましょう。でもここから先は、貴方の戦い。私が出来るのはここまでよ」
紫は口惜しそうに奥歯を噛み締めた。
天地邂逅という大儀式を果たした彼女の妖力は今までに無く消耗し、刀神の力を顕にした彼が放つ破邪の霊力によって力が失われている。そんな状態で介入したところで、到底役には立てない。
彼女に残された最後の仕事は、全てを終えた彼を迎えること。
弱々しく震える紫の肩を、彼の手が優しく添えられた。
「また盃を交わそう。今度も盛大に、皆で朝まで飲み明かそう。その次の春も、その次の夏も、秋も、そして冬も…………白刃を、頼む」
「えぇ……えぇ……」
紫の頬に一滴の涙が溢れ、彼女は静かにスキマの中へ消えた。
一人残された刀哉は真っ直ぐに白い世界に輝く真紅の光を見据える。一歩、また一歩、足を進める度に霊力が高まり、神と同化した四肢の輝きが敵と対をなす。
瞼を閉じれば、思い出が蘇る。
様々な顔が浮かんでは消えた。
妙に心が清々しい。後顧の憂いもない。たとえこのまま最期を迎えることになろうとも、悔いは無い。だが負ける気は毛頭ない。
負けるはずがない。ただ勝つ。勝って、皆のもとへ帰る。
故郷へ、家族のもとへ。
今までと同じように、この一刀に全てを込めて敵を倒す。
刀哉の視線の先、純白の世界に降り立った紅い星がにこりと笑って彼を待ちわびていた。星霜の如き銀色の髪、星光の如き金色の眼、身にまとう白い着物の上に輝きを放つ丈の長い真紅の羽織。
そして手にはルーミアに与えられていた禍々しい邪剣が握られ、凶星こと、まつろわぬ者こと、天津甕星は透き通るような声で刀哉に語りかけた。
「大地に生きる諸々の子らよ。我は因果に縛られぬ者なり。我は時に流されぬ者なり。我は森羅万象に従わぬ者なり。天上天下にあまねく生きる者の宿命を司り、万物の生死を握り、汝らの道を開く者なり。汝らの道を閉ざす者なり。我は光に非ず、闇に非ず、善に非ず、悪に非ず、神に非ず、魔に非ず。我が名は天津甕星。我は凶星なり。我は告げる者なり。我、まつろわぬ者なり」
清らかな声色の中に潜む巨大な神威に刀哉は気圧された。
だが相手の名乗りに応えぬわけにはいかないと、彼もまた己が誇る名を告げる。
「星神に告ぐ。我が名は刀哉、この世総ての刀剣を統べる経津主命を宿す者なり。永きに渡る因縁を断つ為、そして俺の故郷を護る為、その首を頂戴仕る」
すると甕星は声をあげて仰々しく笑ってみせた。
「笑止。刀神を宿す人の子よ。所詮汝はヒトの手によって産み落とされた神に過ぎぬ。刀などという哀れな武具を司る矮小なる者よ、我は星なり。天地開闢より遥か以前に産まれ、かの日輪も、かの月輪も、この大地でさえ、我の前では司る一個の星に過ぎぬ。それとも汝の刃は、星をも断つと言うのか?」
甕星の顔から笑みが消えた。
成程そのとおりであろう。刀剣とはヒトの手によって生み出され、経津主神といえど刀剣と断ち切る威力が神格を得たにすぎない。
「たとえ――」
刀哉は神刀の柄を指先で撫で、抜刀の構えを取る。
「たとえ星であろうが神であろうが、俺の道を阻む者は全て断ち切ってみせる!」
「その道を定めるは我ぞ!」
音速をも凌駕する一閃を甕星の邪剣が打ち払う。
「剣戟などという児戯に興じるとは、我も堕ちたものよ。布都御魂剣……汚らわしい地上を平定した神殺しの冷刃。くくく、面白い。我が天之尾羽張剣もまた、神の血を欲しておるわ!」
かつて火の神を断ち切ったもう一つの神殺しの剣。
数多の怨念と邪気が刃に渦巻き、触れる者の魂を腐らせ、生き血を求め続ける神剣の成れの果て。善を絶ち、悪を育む妖かしの刃が黒い尾を引いて刀哉に襲いかかった。気を高め、ありたけの霊力を刃へ送る。一合、二合と打ち合う度に大気が震え、今まで積み上げてきた全ての技量を以って星神に挑む。
だが霊力は邪剣の妖気にかき消され、剣戟もまた甕星の急所に届かない。それどころか徐々に全身の力が抜けていくではないか。
節々が痛み、足が震え、呼吸も乱れる。
構えこそ解かないものの、肉体の異変に彼は内心で焦った。
甕星はそんな彼を前に嘲笑う。
「如何に凄絶な力を備えた刀神であろうと、所詮はヒトの身に宿ったに過ぎぬ。脆弱なヒトの身が我ら天津神の力を収めるに足る器に足りえるか? 答えは否。見よ、既に汝の肉体はあふれだす霊力に耐え切れず、悲鳴をあげているであろう。生ある者は神には成れぬ。いざ久遠の黄泉路を永劫に彷徨うがいい!」
高々と掲げられた邪剣が振り下ろされる。甲高い音が周囲にこだまし、尚も刀哉は神刀を振るって敵の凶刃を受け流した。
せめて一太刀。たとえこの身が滅びようとも、一撃だけ致命傷を与えれば良い。ただその一点だけを考え、肉体の崩壊も恐れず、さらに霊力を高め、身を低く踏み込み、一挙に敵の懐へ飛び込んだ。
蒼白の残光が真円の月輪を描く。
躱した甕星が間合いを開けようと一歩後退するが、さらに横一閃に薙いだ神刀から猛烈な風裂と迅雷が甕星を飲み込んだ。
並みの魑魅魍魎ならば瞬時に消滅する破邪の一撃。
だというのに、甕星はにやりと嗤って風雷を弾き飛ばし、お返しとばかりに邪剣の刃に紅蓮の炎を纏わせた。
「炎神の業火に其の身を焦がすが良い!」
さながら双頭の龍のように左右から炎が骨の髄まで焼きつくさんと襲いかかり、爆音と共に刀哉が灼熱に包み込まれた。
が、甕星が目を凝らすと炎の中にある刀哉の姿は陽炎のように歪に揺れ、やがて霞のように消え去った。
「幻術か」
「そのとおりだ!」
不意に甕星の背後から刀哉の抜刀が迸る。
咄嗟に防御しようとする甕星であったが、刀哉の踏み込みは甕星の左腕を確かに捉え、宙高く刎ね飛ばした。
「はぁ……はぁ……くっ、首を捉えきれなかった」
「くくく、よもや幻術の類まで扱うとは思わなんだぞ。しばらく見ぬうちに器用になったではないか、経津主よ」
左腕を失っておきながら、まるで苦しむ素振りも見せない甕星の笑みは不気味だった。果たして首を飛ばしたくらいで倒せるのかどうか不安になる。それどころか意識が朦朧とし始めた。
考えてみれば、刀たちの乱といい、紅魔館での一件といい、神の力を引き出したあとには必ず意識を失っていた。戦いの疲れと傷によるものとばかり思っていたのだが、甕星の言葉を借りれば肉体が霊力の許容量を超えていたからなのだろう。焦る気持ちが刀哉の太刀筋を鈍らせ、逆に甕星は脆弱な半神が消耗し、自滅するのを待つばかり。
なんと歯がゆいことか。極力霊力を消費せぬように再び刀を構え、踏み込む。
だが既に甕星は剣戟に醒めていた。
「粉骨砕身か。その意気は見事。されど所詮、刀は星に届かぬ」
無慈悲に振り下ろされた邪剣の刃が、鮮やかな朱の華を咲かせた……。