まつろわぬ者 参
光陰矢の如しとはよく言ったもので、一年もあと僅かとなり、今年を振り返ると様々な思い出が浮かんでは年月の早さを実感する。
昨夜の襲撃者について一応調査はしたみたものの、やはり目撃者や有力な情報は何も得られなかった。つまりは里の人間ではない。
そもそも人里の人間が刀哉を襲う道理などないし、あのような太刀捌きをする者がいたならばとうに一手交えているところだ。
またそのような剣客が現れれば噂好きな里のこと、すぐに風に乗って彼の耳に入ってくるはず。里の掟を気にして峰打ちで済ませたが、いっそのこと足でも斬って捕らえたほうが良かったかもしれないと若干の悔いを残しつつ、彼は朝から屋敷の縁側に腰を下ろして思案に暮れていた。吐く息を白く濁らせ、薄く氷の張った池をジッと見つめたまま動かない。風邪を引いてはいけないと白刃が淹れた熱い茶もすっかり冷めてしまった。
考えても考えても結論は出ず、迷うくらいなら素振りでもして己を鍛えようと立ち上がる彼の足元で、いつの間にか軒下に入り込んでいた黒毛の子猫が顔を出した。
興味深そうに視線を向けてくる子猫に彼はため息を吐く。
「俺もお前のように、明日食う飯のことだけ悩めれば楽なのだがなぁ」
身を屈めて猫を抱き上げようとしたとき、彼女は軽やかに刀哉から距離を取ってその手から逃れ、代わりに、空から庭に降りてきた八雲の式の胸元に飛び込んだ。橙色の服に緑色の頭巾、茶の髪から生えた猫の耳、そしてスカートから出た二本の尾と、言ってしまえば化け猫の少女が訪ねてきた。幻想郷の連中は自由に空を飛ぶので、律儀にも門から入ってくる者は数えるくらいしかおらず、はじめはきちんと正門から入って来いと霊夢や魔理沙に苦言を呈していたが既に諦め、庭に降りてきた橙に対しても特に驚く素振りも見せずに手招く。
「珍しいお客が来たものだ。おいで。寒いだろう?」
すると橙は礼儀正しくお辞儀をし、寒さも物ともせぬ元気な声で挨拶を送る。
「はじめまして! わたし、紫様の遣いとして来ました、橙といいます! 刀哉さんですか?」
「いかにも。八雲の使者だったか。何かアレについて進展でも?」
指先を空へ向けた刀哉に橙は困ったと笑みを引き攣らせる。
「えっと、わたしは紫様から伝言を預かって来ただけなので分からないです」
「左様か。して伝言とは?」
「今夜丑三つ時に博麗神社へ。以上です」
「それだけか?」
首を傾げる彼に橙は迷いなく頷く。
「はい」
「心得た。八雲にしては明瞭な伝言だ。では俺からも言伝を頼む」
「何でしょう?」
「昨夜、見知らぬ者たちの襲撃を受けた。おそらくは人間だと思うが、里の者ではない。行方も知れぬ。と」
「分かりました! では私は失礼します!」
と、橙は再び大きくお辞儀をして飛び去っていった。
丑三つ時に神社へ来いとは如何にも妖怪らしい。果たして霊夢が承知の上なのかは定かでないが、どちらにしても何かしらの情報か進展があったと考えて良いだろう。迷っている間に向こうから答えを出してくれるのなら有り難いところだ。
あの八雲に頼りっぱなしという点では不甲斐ないが、今度ばかりは人智を超えた相手。今までのようにただ刀を振るってどうにかなる相手でも無さそうだ。それが天に煌く星であるならば、尚の事。
「さすがに、星には刃が届かないからなぁ。悔しいが……」
いっそのこと全てを放り出し、また山に篭って剣のみに生きることができればどれほどいいことか。が、彼は多くのものを背負うようになった。なってしまった。ただ自分の記憶を探し、ただ己を鍛え続ける日々は過ぎ去った。彼は箪笥から打ち粉と刀油を取り出し、口に懐紙を咥えて愛刀の手入れを進める。
いつかはこの幻想郷でも剣が不必要になる時代がくるかもしれない。
いつかはこの幻想郷に己が不必要になる時代がくるかもしれない。
その時を迎えたら、果たして、素直に剣を手放すことが出来るのか。しかし自身から剣を無くして、あとに何が残るだろう。
自分は一体何者なのか……。
記憶を取り戻して尚も問い続ける自己の存在意義。
言ってしまえば夢の旅路。楽しいことも、辛いことも、全ては幻にすぎないのではないか。詮無きことと分かっていながら、彼は幾度も同じ問いを繰り返す。
俺は何のために生まれたのだろう――。
手入れの仕上げに懐紙で刃を拭き取り、淡い蒼が混じった刃紋を睨む。内に宿った神は何も告げてはくれない。道を示すことも、この問に答えることも、ましてや暇つぶしの話し相手にもなってくれない。戦いで傷つき、命を落とす危機に瀕して初めて彼は表側に現れる。その圧倒的な力は朦朧とする意識の中でもハッキリと記憶に刻まれた。されど、有難迷惑と思う時もある。
確かに彼のおかげで多くの者を救うことができた。
白刃然り、フラン然り。
だが生き残れば生き残るほどに、苦悩は続く。
仮に内なる神が自身に迫る『死』をも断ち切ろうとしているならば、一体いつになれば、楽になれるというのか。
そこで彼はハッと息を呑んだ。
安らかな生を求める一方で、安らかな死も望んでいる自分自身に。
人は何かを成すために生き、また何かを遺すために死んでいく。
つまるところ、死が無ければ生も無い。不老不死となった月ノ姫や竹林の娘の苦しみの一片を垣間見た彼は、ジッと己の手を見る。
神などになりたくない。
ただの人間として生き、人間として旅路を終えたい。
叫びたくなる程の願望を胸に秘め、拳を固めた彼は今までの考察を一切合切振り払って気持ちを切り替え、廊下ですれ違う女中たちを労いながら会合までの時間を潰すべく、久方ぶりに魔理沙の家を訪ねることにした。魔法の森に佇む洋風な一軒家の煙突から白い煙が立ち上り、普段は元気にあちらこちらを飛び回っている魔法使いの気配が屋内から伝わってくる。
刀哉は咳払いを一つ鳴らしてドアをノックした。
「はーい! アリスかぁ? 勝手に入っていいぜ?」
「刀哉だ。お邪魔するぞ」
と、ドアを開けた瞬間、屋根裏を改造した二階から爆発音が響いて煙が窓から溢れだし、たまらず一階へ降りてきた魔理沙が白い頬を黒く汚して咳き込んだ。
「げほっ! ごほっ! いやぁ、失敗失敗」
あっけらかんと笑う前向きな顔に苦笑した刀哉は懐からハンカチを取り出して彼女の顔を拭き、一体何をしていたのかと尋ねると、
「新しい薬をつくろうとしていたんだけどな、結果は見ての通りさ」
などと肩をすくめた魔理沙に二階の片付けを半ば無理やり手伝わされ、一段落したところでようやく紅茶が出された。
「しかし珍しいな、刀哉が遊びに来るなんてさ」
「いつもは魔理沙がうちに来ているからな。たまにはこちらから出向きたくもなる。先日は白刃が無礼なことを言ったようで、すまなかったな。よく躾けておいたゆえ、勘弁してくれ」
「え? あ、ああ! あのことな。別に気にしてないぜ? ほんと」
両手を振って平気な素振りを見せているが、彼女の声は上ずって明らかに動揺していた。
「そ、そんなことよりさ、刀哉が探していた星って見つかったんだろ?」
「ああ。あろうことかルーミアに取り憑いていてな。何とか俺の手で砕くことができたけど、八雲のやつがまだ調べているらしくてな。今夜博麗神社に来いと言われている」
「私にもその話が来てるぜ? というか、幻想郷の主だった連中のところには知らせが届いているって話だ」
「何やらきな臭いな……」
幻想郷の主だった連中……守矢、紅魔、永遠亭、白玉楼、あるいは黄泉かその他か。いずれにしても八雲が招集をかけたとなれば余程の進展があったと見るべきか。
「また厄介なことになりそうだな」
「私は結構楽しみにしてるんだぜ? 退屈しなさそうじゃないか」
「その気楽さが羨ましいところだ」
「ははっ、刀哉は真面目すぎるんだよ」
「俺は道理に従っているだけだ」
「こんな道理の通らない世界で、か?」
痛い返しに言葉が詰まる。魔理沙は呵々と声をあげて笑い、刀哉の眉間に指を突き立てた。
「その化石みたいな頭でもさ、私は結構気に入ってるんだぜ?」
「褒めているのか貶しているのか分からんな」
「どっちもだぜ。まっ、ゆっくりしていけよ。まだ時間はあるんだしさ」
友との語らい程時の流れを忘れる場面もない。
しかし彼の心は空虚だった。
やがて日は地平に落ち、月の光が闇を照らす中、幻想郷を一望する博麗神社の境内へ続々と実力者たちが集い始める。守矢の神々、紅魔の吸血鬼、永遠亭の姫君、白玉楼の亡霊、命蓮寺の住職、神霊廟の太子。彼女たちを迎えるのは結界の管理者たる博霊の巫女と、妖怪の賢者たる八雲紫。
そして最後に石階段を上って到着した、この世総ての刀剣を統べる半人半神。
皆の視線を一身に受け、傍らに魔理沙と白刃を伴い、其処に集った面々を見渡して感嘆の吐息を漏らす。
「錚々たる面子だ。正直肩身が狭い」
「何言ってるのよ。あんたがいないと始められないんだから」
皆が神社の広間に腰を下ろす。誰の顔にも僅かな緊張と多大な好奇心、そして揺るぎない自信に満ちあふれていた。特に紫がこのように招集をかけることなど滅多にない。明らかに宴会をやらかそうという空気でもない。皆が固唾を呑んで主催者の言葉を待ちわびていると、紫は厳かな声色で天を指した。
「天に悪しき神あり。名は――天津甕星」