まつろわぬ者 弐
寺子屋を後にした刀哉は散歩の続きとばかりに通りを歩く。
先ほどまで屋内にいたので寒さも倍に感じ、手をしきりに擦りながら人通りの少ない路地に差し掛かった彼の前に、紅い提灯をぶら下げた、少しばかり小汚い屋台が道の端に暖簾を出していた。
冷たい風に乗って、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「屋台か……少し引っ掛けるか」
芯から身体が冷えそうな彼は暖簾をくぐって席につく。
「あら、いらっしゃい。お侍さん。今日も冷えるわね」
割烹着を着込んだ夜雀の女将に迎えられ、炭火で焼かれる鰻と目の前で湯気を立ち上らせるおでんに涎があふれた。
「ご注文は?」
「熱いのを一本つけてくれ。おでんは適当に」
「ミスティア、私にも一本お願い」
不意に新たな客が刀哉の隣に腰を下ろした。
胡散臭い微笑に艶やかな金色の髪、そして他人の心を見透かしたかのような余裕。これから気分よく飲もうとした矢先に出会いたくない人物と相席になり、小さなため息が漏れた。
「八雲か」
「あら奇遇ね? あなたも飲みに?」
「あんたほど奇遇という言葉が似合わない奴もいない。どうせ、酒が不味くなる話でも持ってきたのだろう?」
「失敬ね。私だって、単に飲みたい時だってあるわ」
互いに酌み交わして程よく熱い酒を胃に流し込む。
「……ありがとうね」
「うん?」
「ルーミアのことよ。彼女を救ってくれた。いいえ、彼女だけじゃない。人里も、幻想郷も、あなたは良く守ってくれている。それだけで十分、お礼を言う価値があるでしょう? あ、辛子つける?」
紫から辛子の小瓶を受け取り、出汁の染み込んだ大根にたっぷりと付けて頬張る。
「はふっ……礼を言われる程のことではない。此処は俺の故郷だからな――くそ、付け過ぎた」
あまり辛味が得意でない彼の舌と鼻に辛子のきつい風味が突き抜け、目の端に浮かんだ涙を指先で拭う。紫はさも可笑しげに扇で口元を隠して笑った。女将は二人のやり取りを傍目に次なる酒を徳利に注ぎ、鍋で温めている。
「ところで八雲、一つ問いたいことがある」
「なにかしら?」
「俺があの星を砕く直前に、あんたは俺を止めようとしたと霊夢から聞いた。何故だ?」
すると紫は閉じた扇で刀哉の唇を押さえた。
「言ったでしょう? 今日は単に飲みたいだけなの。無粋はお話は無し。それに私もまだ確証を得られていない。調査中なの。あなたは気づいているかしら? 空に輝く紅い星を」
「星などゴマンとある。紅だろうが白だろうが幾らでもあろう」
「それはそうなのだけど……気になるのよねぇ」
憂いた顔を浮かべる紫の盃に酒を注ぐ。彼女はそれを受けて舐めるように味わい、ぼそりと呟いた。気づけば熱燗も三本目に入り、五臓六腑に酔が回り始める。段々と互いに口数も少なくなった。
「そうそう、彼女とは上手くやってるの?」
「白刃のことか? 相変わらずだ。別段、変わったことはない」
「そう。私もまさか貴方達が結婚するとは思いもよらなかった。あなたって、そういう色恋沙汰に疎そうだもの」
「俺とて一端の男だ……と、言いたいところなんだがな、確かに色恋に興味などなかったし、人生の足枷になると今でも思ってる」
「だったら、どうして?」
「情を交わした女にうつつを抜かすよりも、絆を交わした家族が欲しかっただけだ」
「家族……生前の、いえ、幸二のことを想ってのこと?」
「さあな……一杯引っ掛けるつもりが、少し酔った。女将、茶漬け」
音を立てて一気に茶漬けを胃へ流し込む間にも、紫の視線は彼の顔から離れない。顔を合わせる度に、言葉を交える度に、不思議と彼への興味は強まっていく。ここまで個人に対して興味を抱いたのは霊夢以来かもしれない。ある種の懐かしさすら感じた。
紫を始めとした妖怪、または神々等、遥か古から生きてきた者達からすれば、現代と呼ばれる外の世界から流れ着いた者の価値観等は正直新鮮過ぎて肌に合わないところが大きい。
しかし彼の価値観、死生観は彼女たちが生きていた時代と然程変わるものではなく、さらに多少大袈裟に言えば、本人に自覚は無くとも仁義礼智忠信孝悌を重んじる彼の生き方そのものが、外の世界の人間たちが忘れ去ってしまった幻想なのではないか。とすら紫は思い至った。
いつぞや魔理沙への恩返しで妖怪の巣窟に乗り込んだときといい、恥辱を晴らすために天狗の里に乗り込んだときといい、はたまた、白刃のためにレミリアに従ったときといい、幻想郷には信仰とも呼ぶべき人格者、絶対者がちらほら見受けられるが、彼の其れはいずれにも該当しない。
強いて言うならば、彼は網だった。
世の流れと道理に従って進み続ける彼の後ろには、網に絡められた多くの者たちがいつの間にか彼に追随している。
ひょっとすると自分自身も彼という網にかかってしまった大魚なのかもしれない。と、紫は自嘲めいた笑みを浮かべて皿に残った最後の煮玉子を頬張った。
宴もたけなわとなり、土産に鰻を数尾包んでもらった刀哉は顔こそ赤らんでいるが足腰は酔を感じさせず、屋台を出たところで紫と別れ合うこととした。
「今宵は思いがけず良い酒を飲めた。歯がゆい物言いさえなければ、また席を共にしたいところだ」
「それはどうも。私も愉しかったわ。それにしても……」
彼女は夜空に浮かぶ紅い星を睨む。
「やはり、気になるわね。今は私の式が調査しているけど、いざというときは、また貴方の力を頼らないといけないかもしれない」
「流石に、天に浮かぶ星を斬ることは出来ないぞ?」
「……そうね。ただ天を彩る星であればいいのだけど。近いうちに、我が家へ遊びにいらっしゃい。私の家族も紹介したいから」
「左様か。楽しみにしていよう。では、今宵はこれにて」
「ええ、おやすみなさい」
酒で火照る体を凍てつく夜風に晒し、皆寝静まった暗い夜道を歩く。昼間の喧騒が嘘のような静寂と暗闇。土産の鰻が冷めないうちに戻って、白刃の喜ぶ顔が見たい……などと柄にもなく顔を綻ばせていると、暗闇の中に複数の足音が聞こえ、近づいてくる。
見れば、提灯を片手にした見慣れぬ男たちが刀哉を取り囲んでくるではないか。灯りの陰で顔はよく見えないが、男たちの腰には何処ぞから持ち出してきた刀が差されている。何よりも刀哉の眉間にしわを寄せるのが、彼らの無機質なまでに感情のない殺気だった。
まるで地の底で恨みを抱いていた怨霊たちのように……。
「お前たち……何のつもりだ?」
すると男たちは問答の余地もなく刀を抜き払って襲いかかってきた。里の掟がある為、無闇に血を流すわけにはいかない。
刀哉は折箱を頭上に放り投げると神速の抜刀で一人目の鍔に切っ先を引っ掛けて弾き飛ばし、背後から斬りかかってきた男の顎に鞘の先端をめり込ませ、さらに身をかがめて斬り上げてくる三人目の肩に刀の峰を振り下ろした。
一歩もその場から動かず、瞬く間に三人を捌き切った彼は降ってきた折り箱を柄頭に引っ掛けて声たかだかに威嚇する。
「お前たちには俺を倒すだけの気概が足りんっ! 退かねば次は斬るぞ!」
しかし男たちは退くどころか怯える様子すら見せず、相変わらず魂が入っているのかどうか怪しい程の無機質さで間合いを詰めてくる。妖怪でもなければ人でもない。襲撃者の正体を判断しかねている間にも、男たちの刃は刀哉の急所を狙ってきた。
「やむを得んか」
あわや彼の刃が血の雨を降らせるかと思われたとき、足元から甲冑に身を包んだ武者たちが現れて刀哉の四方を守った。
「白刃か!」
「殿ぉ! ご無事で御座いますか!」
主人の帰りが遅いので迎えに行こうとした際、暗闇の中に刀哉の剣筋が煌めいていたので駆けつけた白刃は、自身も小太刀を抜いて男たちを威嚇した。
「控えよ、下郎共! 我が殿に手出しをするとは何事か!」
すると男たちは構えていた刀を下ろし、闇の彼方へ跳躍して霞のように消え去った。明らかに里の者ではない。太刀筋から考えてもかなりの手練だ。一体幻想郷の何処にあんな男たちが居たというのか。と、首を傾げる刀哉の胸元で白刃が見上げてくる。
「殿、お怪我は御座いませんか?」
「ああ。大事はない」
「それは良うございました。むむ? 何やら良い匂いが」
「先程、夜雀の屋台で一杯引っ掛けていた。土産の鰻だ。まだ温かいぞ」
「あの者共を追わずとも良いので?」
「追ったところで無駄だろう。既に気配もない。影を相手にしたような気分だ。それより今宵は冷える。体に障っては事だ」
白刃の背を押して城へ戻っていく刀哉は、ふと紫の言葉を思い出す。もしも天に煌く紅い星が、あの凶星であったならば、この先も異変が続くというのだろうか。
世に災いをもたらす禍つ星。
杞憂であって欲しいと願い、先の襲撃者たちのことも考えつつ、彼は床についた。