まつろわぬ者 壱
鉛色の雲が太陽を隠し、吹き抜ける風がより一層冷たさを増した冬の朝。庭に積もった霜柱を童たちが愉しげに崩し、里は来るべき年越しと新年に向けて買い物をする人間や妖怪が溢れていた。
中には寒さが苦手で家に引きこもるものや、妖怪の中には既に冬眠に入っている者もおり、次に会えるのは春を迎えてからだろう。
屋敷の縁側から門弟たちが遊びまわる様を眺める刀哉も、温かな羽織に真っ白なマフラーまで巻いている。寒さはどうにも苦手な体質のようで、毎朝の乾布摩擦と鍛錬を終えた後は炬燵に入りがちになってしまう。
寺子屋は冬休みに入っているが、道場はいつも自分の都合で開けたり閉めたりしているので、暇があるときには開くようにしていた。
童や数人の大人も喜んで通ってくれているのは有り難かった。
こと寒い日々が続くと体を動かして温まりたいようで、何よりも動かないまま風邪を引くよりは余程体に良い。
「せんせー! 一緒に遊ぼうよ! 今から鬼ごっこするんだ!」
「む? よぉし、手加減無しだぞ?」
両手で膝を叩いて縁側から立ち上がり、逃げ散る童たちを追い回す主の姿に白刃は微笑んだ。本人に自覚があるのかは知らないが、彼はかなり子供好きの類に入るのだろう。今や彼にとって生きがいとは道場で子供たちを鍛えることなのだから。
家臣として、おこがましくも妻として、主が人生の柱を失わなかったことは喜ばしい。以前のように自分のことを蜃気楼と思い、ただ当てのない自分探しを続ける生き方よりは余程幸福そうに見えた。
その姿は人間そのもの。あくまでも人の子として生きる姿勢は微塵も変わらない。清々しいほどに、あるいは、痛々しいほどに。
いっそのこと神として生きれば楽だろうに、あえて苦難の多い道を選ぶあたりが彼らしい。そんな彼だからこそ、神魔妖精を問わず、多くの者たちが訪れてくるのだろう。白刃からすれば天下に野心が無いことが唯一の不満であったが、最近はただ彼が穏やかに過ごす日々が続くように願っていた。
乱世があれば泰平もある。果たして刀は乱世の為に在るのか、それとも泰平の為に在るのかは分からない。しかし、少なくとも白刃は、童たちと遊ぶ彼の笑みがいつまでも続いてほしいと願った。
いずれは腹に宿った彼の子もあの中に加わることだろう。
彼の過去を知っているだけに、父となった彼が我が子をどのように育てるのか……。
そんな母親らしい心配をしている白刃を、童の一人が覗き込む。
「白刃おねえちゃん、どうして暗い顔してるの? 一緒に遊ぼ?」
「べ、別に暗い顔などしておらぬ! それより殿はどうなったのだ?」
すると童はため息混じりに首を横に振った。
「先生ったら、本当に手加減無しなんだもん。みんなあっという間に捕まっちゃって」
言われて庭を伺うと、今しがた蜘蛛の子を散らすように八方へ逃げた子供たちの大半が刀哉の手に掛かっていた。
中には逃げることを諦めて竹刀を構えた勇敢な童もいたが、ぴしゃりと素手で竹刀を払われて猫のように摘まれてしまった。
それならばと次は隠れんぼに興じることにしたが、何処に隠れても気配を察知されて捕まってしまう。児戯に興じる彼の顔は他の童と何ら変わらない。大人げないと思いつつもくすりと笑ってしまった白刃は訴えにきた童に皆を集めるように指示し、ちょうど稽古も終わりの時刻なので菓子を配って家に帰した。
「今日は何やら戯れてばかりでありましたね?」
「いや、あれも中々良い鍛錬になる。足腰もしっかりしているし、いざとなれば立ち向かう度胸もある。あとは経験だけだ。二、三度死ぬ思いをすれば立派な剣客になるだろう」
「親には聞かせられぬお言葉で」
「剣を学ぶということはそういうことだ。体も温まったし、少し散歩してくる。もし何かあれば報せてくれ」
「……いってらっしゃいませ」
何の目的もなく人里の中を歩きまわる。年末の買い出しのことも考えねばならない。豪勢な御節は少し厳しいところだが、せめて年越しの蕎麦くらいは皆に喰わせてやらねば。
と、家主としてあれこれ悩んでいる彼の胸元に何かがぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
「すまない。大事無いか……と、阿求殿じゃないか」
ぶつけた鼻を両手で抑える小柄な少女。高貴な紫色の髪を揺らし、雅な着物を纏う人里の名家稗田邸の九代目。この地に流れてから随分と世話になったこともあって、刀哉の頭が上がらない恩人の一人だ。
「こんな寒い日に散歩かい?」
「刀哉さんこそ。お稽古は終わったのですか?」
「今しがたな。子どもたちは皆元気で、こっちも愉快になる」
「ふふ、刀哉さんが楽しそうで何よりです。これから慧音さんのところで書の読み合いをするのですけど、刀哉さんもいかがですか?」
「書、か。そういえば久しく寺子屋の敷居を跨いでいなかったな。挨拶がてらに行かせて貰おうか」
寺子屋は思い出深い。刀哉にとって、幻想郷での出発点だ。
門を抜けて母屋に上がり、無人の教室に腰を下ろして、少女たちが物珍しい書物を互いに見せ合う様子を微笑ましく見守る。
「刀哉もどうだ? 日ノ本の書物もあるが、大陸の英雄伝もあるぞ?」
「じゃあ、同業の読み物でもあれば」
「ははは、お前らしいな。さて何があるかな?」
慧音は適当な読み物を山の中から漁りだして刀哉に渡した。
「新選組……ねぇ」
幸二の死後に活躍した剣豪たちの物語に彼は静かに心を燃やした。
叶うものならば手合わせしたいものだが、いくら願ったところで詮無きこと。第一、本人が書いたのならばいざしらず、筆を執った者の主観や脚色もあるだろう。と、話半分に流し読んだ彼がふと少女たちの方を伺えば、阿求が机に広げた、書きかけの幻想郷縁起の出来を確かめている最中だった。おそらくは読み合わせよりもこちらが主な目的であったのだろう。
二人は文面と刀哉の顔を交互に見やって微笑む。
「顔に何かついているか?」
首を傾げる刀哉が訝しむと、阿求は幻想郷縁起の一頁を彼に見せた。そこには刀哉が幻想郷に流れ着いてから今日までの軌跡が纏められており、阿求の人物評が添えられている。
質実剛健にして無類の頑固者。
荒波に削られる巨岩のような人物。
意地っ張りで負けず嫌い。
と、小動物のような愛らしい顔の下に随分と酷な評価を下す阿求に刀哉は参ったと髪を掻きむしる。反論の余地がない。他人から見ると己はかように映っているのかと思うと、何やら複雑な気持ちになってしまう。
「はてさて、弱ったな。阿求殿には敵わない」
「阿求様だからこそ、だな。これが射命丸が書いた評なら、また乗り込んでいるところだろう?」
「まあな。だが、俺のことを記したところで何の面白みも無いのではないか?」
「まさか。刀哉さんのやることなす事全てが面白くて仕方がありません。今まで幻想郷に貴方のような人物はいなかった。だからこそ記録する価値があります」
「後世の者達にまで笑われるのは勘弁願いたいな」
「歴史とは得てしてそういうものさ。それに、自分の名前が後世に遺るのは武人の誉だろう?」
「生憎と俺は、自分のことを武士と思ったことは一度もない」
「では何者だ?」
慧音の問いに彼は迷いなき眼で答える。
「刀哉。其れ以外に、何もない」
今度は慧音が参ったと肩をすくめた。
「感服だ」
「ふふふ、いかにも刀哉さんらしい答えですね。いつも悩んでいるのに、絶対に曲がらない芯があって、つい、あなたの背を追いかけてみたくなる」
「褒めすぎだ。面映ゆくて居心地が悪いから、そろそろ退散しよう」
立ち上がる刀哉を慧音の声が送り出す。
「またいつでも来い……此処も、お前の家なんだ」
無言で頷いたものの、何故だか、彼女の言葉がいつまでも心の奥底で響いて止まなかった。