人里 参
翌、早朝。
霊夢が寝室の障子を開けて縁側に出てみれば、既に起床した刀哉が縁側に腰を下ろし、足を組んだまま静止している。まさか座ったまま眠っているのかと驚いた霊夢が覗き込んでみた途端、刀哉の瞼が開いて霊夢に顔を向けた。
「おはよう。今日も良い天気だ」
「あんた、こんなところで何をしていたの?」
「いや、あまりに気持ちのよい風だったものだから、心を鎮めていた。おかげで実に爽やかな気分だ。朝飯に粥でも作ろうか?」
「……そうね。仕方ないから手伝ってあげる」
「そりゃ有難い」
刀哉の背に続いて廊下を歩く霊夢は、この化石のような信念に固まった少年に半ば呆れながらも感心を抱いていた。
成る程、八雲紫が評していた通り、どこまでもまっすぐだ。
自分を鍛え上げることに余念が全くない。
あるいは其れ以外にまるで興味を示さないのか。
外の世界でも、修行に修行を重ね続けていたのだろう。
未だに彼の剣技を目にしたことはないが、それでも、雰囲気から相当な使い手であることは分かる。
紫のことを訝しんでおきながら、いつしかこの剣客に興味を抱いていたことを霊夢は妙に可笑しくなって、彼の背をぽんと叩いた。
「ほら、急ぐ急ぐ! もう一日は始まっているのよ」
「応、心得た!」
米を研いで釜で煮込み、その間に霊夢が漬物を切り分け、山菜の和え物を手早くこしらえていく。朝食はすぐに出来上がった。居間にて粥をすすり、良い音を立てて漬物を食む刀哉は、今日から人里にて職を探す旨を告げた。
「何かアテはあるの?」
「無い。出来れば雨風を凌げる小屋でも借りたいところだな。里長は、どんな人物だ?」
「本来の里長は人間の爺さんよ。でも今は病に侵されて床に伏せっているから、代理として稗田阿求というやつが取り仕切っている。里では名門よ。話くらいは聞いてくれると思うわ」
「そうか。しかし、外来人というのは余所者だろう? 上手く事が運べばいいが」
「もうあんたのことは噂になっているでしょうよ。私の耳にも聞こえていたくらいだし、妖怪相手に無双したのなら尚更。狭い世界だもの。くれぐれも里で面倒なことは起こさないで頂戴ね?」
「分かっている。ただし向こうが襲ってきたら責任は持たないからな」
「ええ、そのときは刺身にでもしてやりなさい」
物騒なやり取りを済ませた後、刀哉は身支度を整えて神社を発つこととした。
見送りはいない。
霊夢は奥の間に引っ込んだまま姿を見せず、鳥居をくぐる際に神社へ向けて深く一礼した刀哉は、長い石段を駆け下りて再び人里へ足を踏み入れた。
霊夢の言うとおり、既に里では刀哉のことが噂として広まっており、人間たちは畏怖と好奇の目を向け、妖怪たちに至っては辻斬りが来たと身を隠す始末。
これは参ったと刀哉は腕を組んで低く唸った。
あまり悪評が広まって貰っては困る。これから此処に根を張って生きようと思っていたというのに、こう恐れられては付き合いも何もあったものではない。
ともあれ刀哉は稗田家を目指すこととした。
人間の里では由緒ある家柄だけあって、稗田邸はそこいらの民家に比べて門構えからして荘厳であり、家来と思しき女中たちが忙しく門を出入りしている。
声をかけようにも仕事の邪魔をして良いものかと躊躇していた刀哉であったが、門の陰に女人たちの動きを眺めている振袖の少女を見つけた。高貴な紫色の髪の毛を風に揺らし、黄金の振袖を羽織り、赤い袴を穿いている。家の人間であることは明らかだった。
刀哉は驚かせない様に近づくと、少女は見知らぬ来客に穏やかな微笑を浮かべて出迎える。
「お早う御座います。当家に御用ですか?」
「突然の来訪で申し訳ない。私は外来人で、名を刀哉と申す者。博麗霊夢の勧めにより、稗田家の当主殿と面会致したく訪ねた次第」
「それはそれは。では応接間にご案内致します。失礼ながら、御刀を預からせて頂きます」
少女が手を叩くと最寄りにいた女中が駆けつけ、刀哉から刀を預かると、彼を屋敷の中へ案内した。
松や池で飾られた中庭が見事だ。応接間にて抹茶と菓子が出され、庭園の風景を楽しみながら当主の到着を待つと、間もなく稗田家の九代目が現れ、相対する形で座布団に座り、恭しく一礼する。
「おまたせ致しました。稗田家当主、稗田阿求で御座います」
阿求は先の少女その人だった。まさかいきなり当主に声をかけたとは思いもよらず、彼女の穏やかな空気に触れたこともあってか、刀哉は深々と頭を下げて詫びた。
「先ほどの無礼な物言い、知らぬこととはいえ失礼致しました」
「いえいえ、お気になさらず。このような見た目ですので無理はありません。外来人ならば尚の事です。今は里長の代理を務めておりますが、普段は何でもない人間ですので、どうかお気楽に阿求とお呼び下さい。何でしたら、あっきゅん、でも構いませんよ?」
「いや、それはさすがに……では阿求殿と」
「はい。霊夢さんに勧められてということですが、人里におけることと拝察します」
「いかにも。本来ならば元の世界に戻るはずだったのが、己の記憶を失い、霊夢からも元の世界に戻ることが出来ないと言われ、ならばいっそこの地に根を張って生きようと思い立ち、出来れば雨風を凌ぐことが出来る仮住まいが無いものかと。無論、里のために出来ることならば何でもするつもりです」
「成る程。ちょうど空き家が一件御座います。寺子屋の敷地内で他の家に比べて少々狭いですが、お一人暮らしなら、問題ない広さだと思います。それにしても、刀哉さんはすっかり人気者ですね」
「噂になっていることは知っています……少し、肩身が狭いように思えますが」
「確かに、妖怪の皆さんは刀哉さんを恐れていますが、私達人間は良い目で見ている人も多いと聞いていますよ? 女中たちもしきりに噂をしています。妖怪退治をしている人間が現れたぞ~とか、外の世界から人間を守るための神が来たのかもしれないわ~とか」
「勘弁してくれ」
「何分、噂が大好きな気質ですので。昔と比べて人里では妖怪の脅威が殆ど無くなったとはいえ、幻想郷の秩序を保つため、やはり人は妖怪に取って食べられることが少なからず続いています。そういう時に、人間が妖怪を倒したという話は嬉しいものなのです。きっと、刀哉さんを慕う方々もいるはず。里の皆にも私から伝えておきます。不自由もあるでしょうが、私に出来ることならばお気軽に申し付けて下さい」
「かたじけない」
「どうかこれからも、ご昵懇に」
「こちらこそ」
思いの外、あっさりと仮住まいを手に入れることが出来た。まるで誰かが根回しをしていたのかと勘ぐってしまうが、何はともあれ、雨風を凌げる寝床が見つかったのは重畳と言わざるを得ない。人里に一件だけある寺子屋には、既に住人が一人いるという。
その者は半人半獣で、普段は里の子供らに勉学を教えている秀才でもあり、稗田家とも親交が深いと阿求が言う。
果たして他人の敷地に住み着いても良いのかと問う刀哉に、阿求はニヤリと口元を釣り上げた。
「そこで相談なのですが、妖怪たちを退治した腕を見込んで、子供たちに剣技を教えて頂けないものでしょうか?」
「道場を開け、と?」
「いえいえ。寺子屋での授業の一環として、ですよ。かつては妖怪退治を生業とする人間が多くいましたが、人里での掟が作られて以来、人間は妖怪から身を守る術を殆ど失ってしまいました。せめて護身用の武術くらいは身につけた方が良いと、里長や里人の方々から話が出ていたところなのです」
「成る程。そういうことならば、やるだけやってみよう」
「有難うございます。それでは、寺子屋まで案内させますので」
安請け合いをしてしまった気もするが、背に腹は代えられない。己の特技を活かして役に立てるのならば望むところ。女中に連れられて寺子屋の門前に移動すると、勉学を終えた子供らが元気に帰路についていた。
「せんせー! さようなら!」
「気をつけて帰るんだぞ!」
と、子供らに大きく手を振って見送る寺子屋の教師に刀哉は見覚えがあった。
滑らかな銀色の髪と知的な雰囲気は、博麗神社への道のりを教えてくれた女性ではないか。
不思議な縁があるものだと刀哉は苦笑し、女中の取次に続いて挨拶を済ませる。
「おお、君か。無事に神社へ辿りつけたようだな。何か、分かったのか?」
「生憎と、何も。元の世界へ帰ることも叶わず、こうして、この地に根を張ることとした次第。稗田阿求から、此処で剣技を子供らに教えて欲しいと頼まれた」
「なるほどな。ちょうど空き家を持て余していたので、こちらとしても助かる。立ち話もあれだろう、中で茶でもどうだ?」
「その前に寝床を確認しておきたい。色々と準備もあるだろうし。女中さん、阿求殿にくれぐれも宜しく。ここまでありがとう」
「ははっ、では私はこれにて」
女中を稗田邸に戻し、早速寺子屋の離れにある一軒家を目の当たりにした刀哉は驚いた。
てっきり厩のような掘っ立て小屋かと思っていたが、中に入ってみると、囲炉裏のある木床の居間に土間の台所、そして四畳半の寝室に風呂場まであるではないか。
立って半畳、寝て一畳と覚悟していただけに、喜びもひとしおだった。
自分の寝床を検めた後は寺子屋にて温かな茶を啜る。
「私は上白沢慧音。ここの寺子屋で、子供たちに勉学を教えている半人半獣だ。妖怪たちが辻斬りと騒いでいたが、とても澄んだ目をしているな。余程の腕前だということか」
「はてさて、この世界においてはどれほどのものか。ただ自分の肉体が覚えている動きに従っているようなものだから、流派も何も無い。生き残ったのも、運が良かっただけ」
「運も実力の内という。しかし困るのはこれからだぞ? 力のある妖怪は強者に対して容赦が無い。私のように人間に対して寛容な妖怪もいれば、昔の力関係を望む者もいる。くれぐれも気をつけることだ。それと、厄介なのは烏天狗だ」
「烏天狗?」
「幻想郷の文屋だ。といっても、まともな記事など殆ど無い。改ざん捏造なんでも御座れといった風で、おそらく君のところにもすぐ現れるだろう。下手に気を許していると、とんでもないことになるからな? もう手遅れかもしれないが……ところで、出来れば私にその腕を見せてもらえないだろうか」
「俺の刀術を?」
「ああ。興味があるんだ。妖怪たちを震え上がらせるほどの業前に」
刀哉は無言で申し出に応じた。腕前を見せると言っても、さすがに妖怪を切り捨てるわけにはいかない。人里の掟がある。そこで、慧音は寺子屋の敷地に藁束をカカシに見立てて幾つか設置し、その丁度中央に刀哉が立って愛刀の柄を撫でる。
慧音は離れたところから刀哉の一挙一動を睨んでいた。
親指で鍔を押して鯉口を切った刹那、二度、三度、光が閃いた。
峰を鯉口に走らせ、刃を鞘に収めると、カカシたちの首や胴が真っ二つに断たれて地に転がる。慧音は目を丸くして何度も瞬きを繰り返した。
半人とはいえ慧音もまた幻想郷を代表する妖怪の一人。戦いに臨んだことも一度や二度ではない。その慧音ですら、刀哉の抜刀からの流れは息を呑むものがあった。