白刃之舞 肆
古来より神とは荒ぶるものであり、常に人の隣に存在していた。
自らを人の子とし、頑ななまでにそれを貫き通してきた人里の剣客が、悲壮な決意と共に己の神影を露わにしたことが、彼を知る者にとってどれほどの衝撃であったか。八雲紫は手にしていた扇を落として唇を噛みしめる。
彼の、いや、あの刀神の力は幻想郷を容易く滅ぼす。フランの比ではないほどに、速やかに、そして確実に。今まで彼女はそれを恐れていた。
目を閉じれば恐怖と共に思い起こされる。
かつて神代と呼ばれた時代、大地に神々や精霊、そして妖怪が溢れかえり、繁栄を謳歌していた時代があった。
ある日、突如として天空が雲に覆われ、暴風と雷電が地上を襲い、天上から降り立った二柱の神によって地上のあらゆる神魔妖精が平定された。生い茂る木々、道端の石に至るまで……。
降りしきる雨の中、霞む視界に映り込んだ青白く輝く一振りの刃に彼女は膝を屈した。世は神魔妖精の時代から人間の時代へと移り変わり、取り残され、あるいは忘れ去られていく幻想たちの楽園を創ろうと志し、今に至る。
その想いは微塵も揺らいではいない。
たとえどのような神であろうと、悪魔であろうと、全てを受け入れてみせる。しかし彼がこの地に流れ着いた時、彼女は再び恐怖した。この楽園をも平定されるのではないかと震えた。
故に彼の記憶を消し、ただの人間として受け入れることにした。
それが皮肉にも、結果として彼は刀神として異変を解決し、今まさに彼は人であることを捨てた。運命に翻弄され続け、神となることを強いられた人の子を、哀れと言わずに何と言う。
だがもう止めることは出来ない。先の異変では一時的に神を引き出す為にスペルカードを与えたが、今回は自分の力だけで神を引きずり出した。もはや誰も彼を止めることは叶わない。
あるいは幻想郷の全てを平定され、志が夢と消えるかもしれない。
それでも見届けなければならなかった。彼を受け入れ、彼をこの地に導いたのは、他ならぬ己が愛してやまない幻想の意思なのだから。
対峙する神雷と魔炎。三つに分裂したフランは刀神の威容を前にして頬を赤らめ、震えが止まらない身体を強く抱きしめて恍惚の笑みを満々と浮かべている。
「アハハ……凄いねぇ……凄く楽しそうだよぉ! これなら壊れないよね! ずっと壊れずに、ずっと私を遊んでくれるよねぇ!」
三人のうちの一人が禁忌を振り上げて襲いかかる。
「逝ね」
静かに、そして冷たく言い捨てた彼の刃が一瞬煌めくと、振り下ろされたレーヴァテインごと細い四肢が両断され、神刀の切っ先から放たれた紫電によって跡形もなく消し飛んだ。
「すごい……」
傍から見ていた咲夜はそれだけ言うのが精一杯だった。
光をも凌駕する不可視の太刀筋。あらゆる邪神でさえ恐れ慄く蒼い眼光。主でさえ満身創痍となった相手を、ただ一太刀で平らげたことが、もはや夢幻としか思えなかった。
レミリアも額に冷や汗を浮かべ、フランを見つめたまま誰にでもなく言葉を漏らす。
「あのままだと……フランが死んでしまうわ……」
そうこうしている間にも二人目のフランが首を刎ねられ、庭の花園に落ちた骸は禍々しい魔力となって本体に取り込まれていく。
「キ……キキキキ! やっぱりお外には出てみるものだよねぇ! 霊夢以外にこんな凄い奴がいたなんて! もう遊びなんかじゃない。 全力! 全力で殺してあげる! 一片の未練も残さず、割れて砕けて裂けて散れ!」
レーヴァテインに魔力が注ぎ込まれ、さらに刃と炎が巨大に膨れ上がっていく。紅蓮であった炎は徐々に黒みが混じる暗黒へと変化し、撒き散らされる瘴気に侵された木々や花はたちどころに萎れて枯れた。まさに禁忌を冠するに相応しい魔剣といえよう。
そしてフランの右手が彼を捉えた。ありとあらゆる物を破壊する能力に絶対なる自信を抱く彼女が、再び忌まわしい口上を叫ぶ。
「ぎゅっとして、ドカーン!」
物に等しく宿る崩壊の目を掌に収め、握り潰せば相手は弾け飛ぶ。
白刃がそうであったように、彼もまた臓腑と鮮血が花弁を開くかと思われた。しかし彼は神速の抜刀によって、あろうことか己とフランの掌中にある目を断ち切った。即ち彼女がいくら彼を崩壊させようとも、彼女の掌中にある目は彼と繋がることはない。
神魔妖精の平定とは単なる討伐ではない。
元より神も魔も妖精も精霊も天然自然から生み出された概念。
あの八雲紫ですら屈さざるを得なかった所以がそこにある。
彼女が万物の境界を操るならば、彼は万物の境界を断ち切る。
概念、因果に至るまで、そこに繋がりがある限り、彼に断てぬものは無い。
上空で彼を見守る霊夢と紫は眼前の事象に唖然とした。
「二重能力の持ち主……半人半神ゆえに、二つの能力を持ちあわせていたというの? 人であるときは刀剣を支配し、神となったときは境界を断ち切る……なんて出鱈目」
「刀の神という肩書に惑わされていたようね、霊夢。彼が、いえ、あの神様が恐ろしいのは邪を滅する霊力ではない。邪を滅するために備わった、境界、因果、概念を断ち切る力よ。でなければ、数多の神々が居座っていたあの頃を平らげることなんて出来るものですか」
冷静に状況を判断する二人に対し、能力が通じないことにフランは焦りきっていた。幾度も幾度も彼の崩壊を掌に収めては握りつぶし、因果を断ち切られて無意味に終わる。一歩、また一歩、彼が近づくとフランは怯えた。魔剣を闇雲に振り下ろしてみるが、一合交わしただけで魔剣は真っ二つに断ち切られ、刃に纏っていた炎も青白い輝きによって消え失せていく。
生まれて初めて味わう死の恐怖。今まで己が壊してきた相手は、こんなにも恐ろしく冷たい気持ちを味わっていたのかと、今更ながらにフランは気がついた。持ち前の魔力も徐々に浄化されていき、飛ぶこともままならなくなって庭に足を着け、力なく座り込む。
眼前には神刀を上段に構える彼の冷たい顔があった。
フランが覚悟を決めて強く瞼を閉じ、痛みを感じないことを祈っていると、不意に聞き覚えのある声が耳に響いた。
「やめてぇ! フランを、妹を殺さないで!」
姉の声にハッと瞼を開くと、満身創痍であるはずのレミリアが彼とフランの間に立ち塞がっていた。足は震え、今にも崩れ落ちてしまいそうになりながらも、意地と執念によって見事に立っていた。
「もうフランに戦う力は無いわ……ここまでよ、紅魔館の執事。刀を下ろしなさい。さもなくば……私も斬りなさい」
「お、お姉さま……なんで? フラン、酷いことしたのに……お姉さまはフランのこと、嫌いなはずなのに……」
「ええ、そうよ。あなたはどうしようもない妹だった。私の言うことは聞かないし、何でもかんでも壊しまくるし、おまけに気が触れているのだから手がつけられないわ。でも……出来の悪い妹がいるとね、姉としては嬉しいものなのよ。だからこそ、あなたを愛していた……家族なのだから、死ぬときも一緒。もう寂しい想いなんてさせないわ」
彼の前に立ちはだかったのはレミリアだけではない。咲夜も、パチュリーも、そして美鈴や小悪魔も、紅魔館の一員が運命を共にしようとしていた。彼は暫し刀を構えたまま動かず、やがて神刀の切っ先をゆっくりと下ろして構えを解いた。
「征伐は達成されき。再び邪心を抱かば、そのときは斬り捨てむ」
途端に彼の身体から青白い霊力が消えていき、そのまま背中から地面に倒れこんだ。刀神は再び彼の魂として眠りにつき、刀哉の意識も深い闇の底へ落ち込んでいった……。