白刃之舞 参
天を焦がす炎と共に放出される巨大な力は幻想郷のあらゆる勢力に響き渡り、神社でゆるりとしていた霊夢も、スキマから様子を覗き見ていた紫も、そして人里の連中も明々と夜空を貫くような火柱に息を呑んだ。誰の頭にも異変の二文字が浮かび、ある者は震えあがり、またある者はすぐに解決するだろうと楽観した。
だが里人たちの脳裏には少なからず先の乱が記憶に新しく、人里を訪れていた河童たちがすぐに簡易な防壁を作る作業に取り掛かる。
こと土木作業に関して河童の右に出るものはいない。
人間の盟友を名乗る彼らからしても、人里を防御することに何ら不満はなかった。あれよあれよという間に人里を防壁が囲んでいく中、慧音はただ刀哉と白刃の無事を祈るよりほかに無かった。
その願いが通じたかどうかは定かではないが、とりあえず二人は無事ではあった。無事というよりは、目の前で炎上する紅魔館と、それを背景に七色の水晶を輝かせる悪魔の妹への戦慄で言葉を失い、柄を握る手も微かに震えていた。
「キャハハハ! お外だぁ! これがお外だぁ! 私は自由になったんだぁ!」
狂気と狂喜を孕んだ甲高い笑声が全員の意識を蘇らせ、キッと鋭い八重歯を剥き出しにして怒りを露わにしたレミリアが天空に舞い上がり、高々と腕を掲げて己の得物を呼び覚ます。
神槍スピア・ザ・グングニル――闇夜を象徴するかのように赤黒く長大な一振りの槍が、不釣り合いなほどに小さなレミリアの手に力強く握られ、今か今かとその力の解放を待つように空気を震わせている。人々からスカーレットデビルと畏怖される偉大なる紅魔の主は、今まで生きながらえた五百余年で唯一人恐れた唯一の肉親に、初めて明確な殺意を抱いた。
「フラン……本当にあなたは言っても分からない子……私は命じたはず……決して地下から出るなと! 私はこの紅魔館の主! 私はあなたの姉! 妹ならば姉の命令には従え! それが出来ないと言うのなら、私はあなたを粛清する。私のために、そして紅魔館のために」
するとフランは顔から笑みを消して深く俯いた。
「お姉さまはいつもそう……小さい頃から私を遠ざけてばかり。私の大切なお人形を独り占めにして、私を暗い暗い地下に閉じ込めて、いつか迎えに来てくれると信じていたのに……信じていたのに! 裏切り者! 返せ! 私から奪った495年という時間を返せぇ!」
流星のように一粒の涙がフランの目から溢れ、業火を纏う魔剣が姉の頭上に襲いかかる。闇と炎が渦巻き、神槍と魔剣の激突が夜空を見上げる刀哉たちの心を奪う。およそ常軌を逸した戦いだった。
今更ながらどちらも化物じみている。双方の刃が交わる度に心身が震えあがった。恐怖、あるいは、武者震い。
実の姉妹が骨肉の争いをする様は心が痛むが、もはや刀哉に付け入る隙間は無かった。彼自身がどちらに加担すべきか悩むに悩んでいる。フランの願いや悲しみは痛いほどに理解できるが、同時に、レミリアたちが彼女を地下に封じていた理由も理解出来た。
あの炎は幻想郷を焼き尽くすことも容易かろう。
しかし姉としての意地があるレミリアもまた、幼き見た目に反して見事な槍さばきを魅せつけ、一度大きく羽ばたいて深紅の月を背景にし、神槍に渾身の魔力を注ぎ込む。
「せめてもの情けよ……この一撃で、眠りなさい!」
星々の間を貫く彗星のように、赤黒い魔力の尾を引きながら一直線にフランの心臓を穿った必殺の一撃。細見を串刺しにされて地面に向かって落下していくフランに誰もがあっと声をあげるが、当のフランは不気味に頬を釣り上げて高らかに嗤う。
「キャハハ! ヒャハハハ! 残念でしたぁ、はずれだよぉ?」
瞬間、神槍に貫かれたフランの身体が血煙となって消え失せ、レミリアがハッと頭上を見上げた時の驚きぶりをなんと表現すればいいものか。有り体に申さばフランが三人いた。その姿も、その魔力も、その魔剣も、全てが本物に相違ない完全な分身が三つ。
一人を相手にするだけでも魔力をかなり消耗したレミリアに、三人同時に相手をする余力は少なく、再び生み出した神槍も先ほどのような威力は無く、自慢の速力を活かしても三人の内の誰かに先回りされて一方的に痛めつけられていく。
「お嬢様! パチュリー様、どうかお力を!」
必死の形相で助けに行こうとする彼女の肩をパチュリーが掴む。
「無駄よ。あなたが死ぬだけ。それに、今ここで雨を降らせたらレミィにとっても致命傷となる」
「しかしこのままでは!」
叫ぶ咲夜の傍らにレミリアの矮躯が勢い良く落下した。
肌は焦げ、高貴な顔立ちも無残なまでに汚れきっている。
「うぅ……フラン……本当に、困った妹だわ……」
「お嬢様! ご無事ですか?」
駆け寄って抱き起こそうとする咲夜をレミリアは払いのける。
「下がりなさい……パチェの言うとおりよ。あなたじゃ無理……これ以上、私は家族を失うわけにはいかないのよ……フランだけでも沢山なんだから!」
悲壮な叫びをあげ、尚も立ち上がろうとするレミリアの前に、刀哉の背中が悠然とそびえ立った。神刀を一文字に構え、振り向くこともなく彼女へ問う。
「レミリア……お前にとってフランとは、家族なのか? それとも、忌み嫌う魔物なのか?」
「忌み嫌う魔物だからこそ……私はフランを愛していたのよ。だからあなたが出る幕なんかじゃない。殺される前に去りなさい!」
しかし刀哉は決して動こうとはしなかった。三人別々の顔で嘲笑うフランは、新たな遊び相手が出てきたことが余程嬉しいらしい。
「今度はトーヤが遊んでくれるのぉ? 簡単に壊れちゃ、嫌なんだからね!」
小手調べとばかりにフランの一人が魔剣を燃え滾らせて突っ込んでくる。大地を強く踏みしめ、ありったけの霊力を刃に纏わせて抜き払った神刀の刃が業火を受け止め、辺りに炎と雷が嵐のように吹き荒れた。
「鎮まれフラン! 戯れが過ぎればどうなるか分からないのか!」
「お仕置きならうんざりするほど受けたもん!」
静と剛の剣戟は止まるところを知らず、打ちふるう刃が次々と受け流されていくことにフランは不満をむき出しにした。彼女からすれば純粋なぶつかり合いが楽しいのだろうが、刀哉からすれば冗談ではない。かすり傷だけでも腕を持っていかれそうなのだから、真っ向から受け止めては命がいくつあっても足りない。
否、元より命など彼の眼中に無い。ただフランを止めたかった。
外を歩きたいならば幾らでも付き添ってやる、人里でもなんでも案内してやる、他の子供たちと共に道場で遊んでやる。
ただそれだけを刃に載せて彼女と対峙していた。
たとえ理性無き化物であろうとも、自身と同じような末路には……幸二のような悲劇だけは防いでみせる。
一方で暇を持て余した残り二人のフランは白刃と咲夜に目をつけた。時を操り、縦横無尽に動きまわる咲夜は多少なりともフランの相手に慣れている。それは同じく紅魔館に長年暮らしていたパチュリーも同様で、いざとなれば友に耐え難い地獄の苦痛を与えることになろうとも、吸血鬼にとって数少ない弱点である雨を降らせるために声なき詠唱を紡ぎ始めていた。
だが白刃はのっけから防戦に徹するしかなかった。瞬時にメイド服から戦装束で身を固めたが、元より彼女は刀の化身に過ぎず、桜一文字を以って魔剣の応酬を捌くものの、やはり一対一の決闘は不得手。ならばとばかりに内包する刀剣たちの中から腕利きを呼び覚ました。
大きな鹿角の黒い兜、五十余の戦に臨んで無傷、天下に轟く名槍を振り回し、大権現となった男に過ぎたる者と謳われた豪傑。
そのほかにも選りすぐりの精鋭を現界させ、フランの相手をさせている間に白刃は主のもとへ駆ける。
途中、咲夜がフランに首を締め上げられて意識を失い、雨乞いの魔法陣の完成を目前にしたパチュリーも、魔剣の炎が飛び火して詠唱が中断された。そして刀哉もまた、フランの膂力によって鍔迫り合いから弾き飛ばされて外壁に叩きつけられている。
「ぐぅ! くそ……肋が……」
むしろフランを相手にして肋数本で済んでいること事態が奇跡に等しかった。対するフランも彼の剣術をいたく気に入ったようで、受け流されて苛立っていた顔が今は綻んでいる。
されど彼女の瞳は笑っていなかった。
「ずっとこの日を夢見ていた……暗い地下なんてもう嫌……オトモダチは皆壊れちゃった。皆私から離れていく。いつも一人ぼっちで、気がついたら、誰もいなくなった。だから決めたの。次のオトモダチは、壊れない子にしようって。トーヤは、壊れないよね?」
フランはおもむろに右手を刀哉に向けて開いた。
鼓動が急激に高鳴る。喧しいほどの警鐘が脳から全身に命じられた。逃げねば死ぬ。逃げても死ぬ。あれはそういうデタラメな理不尽そのものだ。足掻きようのない絶対的な恐怖と悪寒に縛られた刀哉が冷や汗を滴らせた刹那、フランの手がゆっくりと握られた。
「きゅっとして……ドッカーン」
真っ赤な鮮血が花を咲かせ、美しい刃が砕け散った……。
一体何が起きたのか理解出来ない。覚悟を決めて閉じていた瞼を開くと、辺りは一面が紅色に染まっていた。その鮮血の只中に倒れている黒髪の少女が握る桜は既に散り、呆然と自身を見つめる主を瞳に映した彼女は微かに笑む。
「殿……やっと、殿のお役に……」
「白刃ぁ!」
駆け寄り、血塗れた白刃を抱く彼は、変わり果てた彼女の姿に震えた。
「白刃……しっかりしろ……傷は浅いぞ」
「えへへ、殿は、嘘が本当に下手な御方……かはっ……願わくば、黄泉の果てまでもお仕えしとうございました」
「何を言う。お前はこれからも俺のそばに侍るのではないのか? この俺を一人置いて、先に逝くというのか! この不忠者め!」
堪え切れず、熱い涙を溢れさせる彼の頬を白刃の小さな手が撫でる。
「拙者は、いつもお側におります。殿が殿である限り、我ら刀の神である限り、拙者は常に侍っております……たとえ、この身が消え失せようとも」
すると彼女の身体が白く光り始め、足先から光の粒となって消え始めていく。痛いほどに強く抱擁する彼の脳裏に、白刃と歩んだ短くも遠い道のりが走馬灯のように駆け抜けては消えていく。
「俺はお前に何もしてやれなかった……なにも報いてやれなかった……」
「既に、十分報いて頂きました……殿の喜びこそが、拙者への褒章で御座います故……」
既に脚は無く、抱きかかえる彼の腕に彼女の重たさはまるで感じられない。もはや抗えぬのならば、せめて彼女を悲しませまいと毅然とした顔で問う。
「言い遺すことは?」
「どうか……いつまでも、我らの主君でありますように――」
そして彼女は光となった。砕け散った桜は吹き抜ける風によって彼方へ失せ、白刃の消滅と共にフランの相手をしていた武者たちも姿を霧散させる。咲夜もパチュリーも既に動ける状態ではなく、レミリアも満身創痍。
神刀を地に突き刺して立ち上がる彼にフランたちは手を叩いて喜んだ。
「まだまだ遊んでくれるのね! さっきは邪魔が入ったけど、次は逃さないよ? きゅっとして…………え?」
気が触れているフランでさえ、上空に駆けつけた霊夢でさえ、そして今まさにスキマから出ようとした紫でさえ、彼の行動に思考が停止した。彼は神刀の刃で自らの喉を切り裂いたのだ。誰の頭にも『自害』という言葉しか出てこなかった。白刃を失って血迷ったのかと紫が扇で手を強く叩いたが、すぐに別の考えが脳裏を過る。その推測はすぐに形となって証された。
「忠義に生き、忠烈に逝った我が愛する臣の為に……そしてお前を狂気と暗黒の呪縛から救うために……ならば俺は今再び、この身が神となることを選ぼう!」
切り裂かれた首筋から溢れ出たのは鮮血ではなく、煌々と輝く青白い膨大な霊力だった。それはやがて彼の四肢からも放たれ、暴風と雷光を轟かせ、人の身に宿った天上の刀神が其の姿を浮かび上がらせる。
「我は経津主なり……我はこの世総ての剣を統べる者なり……我、高天原が刀神なり。いざ活目せよ。我が神魔平定の剣戟を!」