白刃之舞 弐
時は遡り、珍しく図書館を訪れて適当に本を流し読んでいたレミリアが、人里の剣客に招待状を贈ろうと言い出した。先の異変から度々気になっていたのは知っていたが、こうも思いつきのように言われては友人として一言申さねばならないとパチュリーが溜息を吐く。
しかしレミリアは一度決めたことを他者の忠告で易易と曲げるようなことはなく、それを一番理解しているのもまた、パチュリー自身であった。結果として喉から出かけた言葉を飲み下して成り行きを見守ることにしたわけであるが、ふと彼女はレミリアに疑問を投げかける。
「何か彼に運命でも? それとも、ただの遊興?」
「両方よ。彼の運命、私の運命、そして紅魔館の……いえ、あの子の運命が動き始めた。私は、定められた運命には従う主義なの」
「冗談が上手くなったのね」
「あら、パチェよりは上手なつもりよ?」
「むきゅぅ……まあ、私は邪魔さえしなければ何でもいいわ。でも本当にいいの? レミィが垣間見た運命には、フランもいたのでしょう? もしもあの子が外に出ることになれば……」
皆まで言わないパチュリーの言葉を背中に受けたレミリアは、震える腕を組んで虚勢を張ってみせた。そこには恐れと不安、同時に期待と愉悦が入り混じっており、ただ笑ってパチュリーの問いかけに声なく応えた。言われずともわかっている。もしもフランが館の外にでるものなら、それだけで異変となり得よう。
異変となれば博霊の巫女やスキマ妖怪が出張ってくる。
そうなれば、妹も、紅魔館も、そして幻想郷もただでは済まなくなる。かつて幻想郷を紅い霧で覆い尽くそうとしたときもそうだった。幸いにもフランは館の外には出ず、異変が収まった直後に再び部屋に幽閉した。むしろあの異変によって妹の力を再認識したレミリアは、明確な恐怖すら覚えた。
それが今、再びフランの運命が動き始めている。それも外の世界から流れ着いた得体のしれない剣客によって。所詮は身内の問題。家の外の者に介入などして欲しくないが、かといって自分自身で妹に対峙する覚悟はレミリアには無かった。口惜しさのあまり咲夜に理不尽な怒りをぶつける日もあった。
何よりも妹が不憫でならなかった。あのような能力さえなければ、あのような欠陥さえなければ、今頃は姉妹並んで月夜を散歩していたはずなのに。
だが、時と運命は無情に流れ行く。悔恨しようと苦悶しようと決して答えを待ってはくれない。何故なら他ならぬ運命が答えを運んでくるのだから。たとえどういう結果であろうとも。
今まさに運命は答えを運ぼうとしている。
地下室から聞こえた轟音が館を震わせ、忘れたくとも忘れられない狂おしい妖気が溢れだしていた。
「命令よ。すぐに地下に行って彼とフランの動向を監視なさい。もしも彼がフランを外へ連れ出すような真似をすれば……」
気づけば運命に抗おうとしていた。彼女が覗き見た妹の運命を阻止せんと、今までのように妹を暗い闇の奥底に突き落とすために、運命を受けれいたつもりが無意識に拒んでいた。
命令を受けた咲夜が直ちに部屋から消え去り、椅子に腰を下ろしたレミリアは砕けた鏡の破片で血塗られた我が手を見下す。
「本当に狂っているのは……私の方かもしれない」
レミリアが呟いている間にも、地下室では破壊された扉が刀哉によって両断され、煙の中から現れたフランドール・スカーレットがにこやかに二人の来客に近づいた。
「コンニチハ……ねえ、トーヤ。私とお話してくれない? ずっと一人だったから喋りたいことが沢山あるの。お外に出る前に、一緒に遊ぶオトモダチを作っておかないとね」
無邪気に歩み寄ってくるフランに刀哉の体が小刻みに震えた。
今までにも数々の妖怪や神と出会ってきたが、彼女が纏う気はそのどれにも属さない異質だった。
「ま、待て! それ以上殿に近づくでない!」
両手を広げて両者の間に割って入った白刃だったが、フランが右腕を軽く振っただけで白刃の体が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。
「かはっ! い、今のは……?」
崩れ落ちる白刃に刀哉が駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
「拙者よりも……殿、お逃げください。アヤツは尋常では御座いませぬ……」
息苦しそうに咽る白刃の体は悲惨だった。成る程尋常な相手ではない。腕を軽く振っただけでこの威力ならば、拳をまともに喰らえば人間の肉体など簡単に砕け散るだろう。
「ダメだよぉ、邪魔しちゃぁ。私はお兄さんとお喋りしたいんだから……ね、トーヤ。お部屋に行こうよ」
差し伸ばされた彼女の小さな手。握り返せば、もう逃れることは出来ない。されどすがりつく白刃の願いを聞き入れてフランに背を見せた瞬間、己は跡形もなく消滅していると刀哉は踏んでいた。
故に彼はフランの誘いに乗ることにした。
「白刃、すぐに上に行って事の次第を報告してこい。俺が時間を稼ぐ」
「で、ですが……」
「家来ならば下知に従え」
死を覚悟したかのような迫力に気圧された白刃は凍りついたように動くことが出来ず、フランに手を引かれた刀哉はそのまま彼女の部屋に引きずり込まれていく。そこは部屋というよりも牢獄に等しかった。
紅い絨毯が敷かれた床にはカーテン付きのベッドと小さな机が置かれているだけで、数々の愛らしいぬいぐるみたちはズタズタに引き裂かれて部屋の隅に積み上げられ、壁の至る所に亀裂が刻まれていた。フランは刀哉を椅子に座らせて、自身はベッドに腰掛ける。しかし彼女は刀哉の顔をジッと眺めるばかりで話題を切り出すことは無かった。訝しく思った刀哉が先に口を開く。
「どうした? 話したいことが沢山あるのだろう?」
「うん、一杯あるよ。でも何を喋ればいいのか分かんなくなっちゃったの。トーヤのことを教えてちょうだい」
彼女の機嫌を損ねてはならない。かといって変に取り繕えばかえって危うく思え、そもそも取り繕うほど器用な喋り方が出来ない彼は今までの道のりを有り体に申し述べていく。ベッドに座って聞いていたフランはいつしか熱心に彼の言葉に耳を傾け、急に近づいてくると、彼の膝の上に座った。
「お、おい……はしたないぞ。女の子だろう?」
「こっちの方がいいの! はやく続きを聞かせてよ。天狗を懲らしめるために山に登ったところからだからね?」
彼女からすれば刀哉の口から語られる話はお伽話に等しかったろう。今まで館の外から出たことがないのならば、良くて窓の外に広がる景色くらい。フランのように地下に幽閉されていたのなら空の色も知らないのではないか。哀れんだ視線を向けつつも話を続ける刀哉が先の異変を解決したところで一段落すると、彼女は手を叩いてはしゃいだ。
「キャハハ! おっもしろーい! じゃあ、次はフランの番ね!」
嬉々として知っている話しを不器用に語る彼女の文脈はメチャクチャで、正直聞いていて全く理解出来ない話ばかりだったが、深紅の目を輝かせる彼女の嬉しそうな顔を見ていると無碍に聞き流すことは出来なかった。膂力は他の妖怪の比ではなく、また性格にも少々難があるものの、実質はただの女子なのではないか。
そんなふうに思い始めた頃、フランは頭上に広がる天井を見上げた。否、そのさらに上……無限に広がる大空への憧れ、自由への渇望。他者から忌み嫌われ、遠ざけられ、それでも自身の自由を求める姿が、幸二の姿と重なって見えた。僅かな幸福のために修羅となったかつて己……もしも外の世界を見ることがフランにとっての幸福となり得るのならば、一体何の罪があるというのか。
レミリアも、紅魔館の連中も、彼女のことを誤解しているだけなのではないか。
「ねえ、トーヤ! ちゃんと聞いてるの? 聞いてくれないと壊しちゃうよ?」
「すまない。少し、自分のことを考えていた。フラン……外の世界を、見てみたいか?」
「お外……うん、見てみたい! お空とか、山とか、見れるもの全部見てみたい! それと、一杯お友達を作って、一杯遊んでみたい!」
「それがフランにとって幸福となるのなら、俺と一緒に――」
殺気と共に飛来した銀の短剣が抜き払われた神刀の峰によって弾き飛ばされ、指の間にナイフを挟んで構えを取る咲夜が小さな舌打ちを鳴らした。
「主命により、あなたを排除させていただくわ。出過ぎた真似をしてくれたわね。妹様を外に出すわけにはいかないの」
「そうきたか。前々から思っていたが、ここの連中は余程性根が腐っているらしい。実の妹をこんな牢獄に閉じ込め、その悲しみも願いも踏みにじる所業……断じて許せん!」
布都御魂剣に紫電が迸る。飛び散る霊力の火花が彼の怒りを表し、明確な殺気が両者の間でぶつかり合う。が、対峙に然程時間を要さず、気づけば青白い一閃が咲夜の喉元に迫っていた。
確実に首を刎ねる自信があった。並の相手ならば彼の確信に報いていただろう。だが咲夜は紅魔館のメイド長。彼の切っ先三寸は虚しく空を斬り、頭上から投擲された無数のナイフを最低限の動きで叩き落としていく。
「トーヤと咲夜が……遊んでる……?」
フランから見ればそれは単なる遊びに見えたろうが、当の本人たちからすれば一瞬の油断で命を絶たれる死闘にほかならない。
ハッと気づいた時には咲夜のナイフが喉元に迫り、縦横無尽というよりは神出鬼没の得体のしれない動きが刀哉を完全に翻弄しきっていた。目視出来ぬほどに素早いのか、それとも一切の気配を遮断しているのか……未だその種が理解出来ない刀哉が防戦一方となるのは自明の理だった。今まで戦ってきたどの相手とも違う。
何よりも彼を苛立たせるのが、得体のしれない小細工ばかりを弄す咲夜の態度だった。主命ならば己の命を引き換えにしてでも果たさねばならないだろうが、姿を隠し、ただ無数の短剣を投擲するばかり。正々堂々の果たし合いを好む彼の機嫌を損ねるのもまた、自明の理。ゆえに彼は手段を選ぶことを止めた。
神刀を鞘に戻して仁王立ちする彼を咲夜が訝しむ。
「諦めた……とは思えないわね。何を企んでいるのかなんて知らないけど、これで終わりよ!」
咲夜が取り出した銀時計の針が止まり、総てが停止した世界の中で咲夜が放った数十のナイフが刀哉を完全に包囲する。
「そして時は動き出す……破滅への秒針を刻め」
指を鳴らすと同時に周囲の時が再動し、血飛沫と共に刀哉の身体がボロ雑巾のようにズタズタになった――はずだった。
「なっ!?」
その様を目の当たりにした咲夜の驚きは如何許であったか。
幾度も銀時計の針を睨むが、確かに時を刻んでいた。
だというのに、銀のナイフたちは刀哉の皮膚を目前にして完全に停止していた。
それも、彼の四肢から放たれる青白い輝きによって。
「この身は刀剣を統べる魂を宿す。咲夜の刃に命ずる。疾く、我が前より失せよ!」
たちまち咲夜のナイフは粉々に砕け散った。
この世総ての刀剣を司る彼に幻想郷の能力を宛がうとすれば、即ち『刀剣を支配する程度の能力』。如何なる世界の如何なる刃であれ、それが武具として生み出されたものならば彼に服従せぬ物は無い。白刃の存在が如実に表していよう。時を操り、博霊の巫女と同じく数々の異変をねじ伏せた彼女であろうと、唯一の武器であるナイフを封じられたからには抗いようが無かった。
彼にとって幸いであったのは、まさしく咲夜がナイフ使いであったことに尽きる。四散する銀を前に立ち尽くす咲夜の首を神刀の峰がぬるりと撫でた。
「十六夜咲夜、討ち取ったり」
これで決着がつけばどれだけ良かったことか。誰にも干渉されない一騎打ちであればどれほど穏やかに収まったことか。されど観客はまだまだ物足りなかった。
「キャハハッ! ふたりともスゴーイ! フランも遊ぶ!」
悪魔の妹の手に地獄の劫火が燃え盛り、紅蓮が徐々に巨大な剣と化していく。膨大な魔力と熱気が刀哉と咲夜に襲いかかり、フランは禁忌の名を謳うレーヴァテインを振りかぶった。
「こんな狭い部屋じゃ思い切り遊べないよ……やっぱりお外で遊ばなくっちゃねえ!」
破滅的な威力が解放される寸前、唐突に咲夜の手が彼の手首を掴むと、周囲の風景が一枚の絵画のように固まった。フランも魔剣を振りかぶったまま微動だにしない。
「こ、これは……」
「驚いている暇は無いの! 今は逃げるわ!」
二人の足音が響いては消えていく無音の世界。何の気配も無く、万物から忘れられたかのような気分が非常に気持ち悪かった。
咲夜は彼の驚きを一切合切無視してレミリアとパチュリーを館の中庭に運び、空はすっかり夜の帳が下り、血のように紅い月が煌々と輝いている。
「来るわ……覚悟はいいわね? こうなった以上、妹様はもう止まらない。遊びという名の破壊を繰り返すわ。飽々するほどにね」
時の河の流れに乗って、紅魔館が轟音と共に巨大な炎に包まれた。