紅魔館 伍
東洋、西洋を問わず、城や館に暮らす大名や貴族には使用人がつきものである。果たして紅魔館の主であるレミリアが貴族かどうかは定かではないものの、兎にも角にも一時的とはいえ彼女の使用人になったからには勤めを果たさねばなるまい。
咲夜に案内された衣裳部屋にて制服合わせを受ける刀哉は、着慣れた着物を脱いで白いカッターシャツに紺色のベストとジャケット、ネクタイを締め、革のベルトで折り目の入ったズボンを着こなしていく。
「あら、意外と似合うじゃない。うん。見た目は立派な執事だわ」
「……洋服は着慣れない。袴では不都合なのか?」
「まあ、動きやすさではこちらの方が良いと思うわ。紅茶の淹れ方は知っている?」
「知っていると思うか?」
「失礼。後で教えてあげるわ」
両手を広げて咲夜の手ほどきを受ける彼は、鏡に映った自分の姿を前にして苦い顔を浮かべていた。別に西洋嫌いというわけではない。ただ、すべてが慣れなかった。そして彼が唯一手放さなかったものが……。
「やっぱりそれは欠かせないの?」
「俺の魂だからな。文字通りに」
愛刀だけは断じて咲夜に預けようとせず、かといってベルトに差し込むわけにもいかないので暫し考えた咲夜は適当な金具を用意し、彼に断った後に神刀の鞘に金具を取り付けてベルトから吊るした。
ただし峰を上に向けた状態で吊るしているため、刀の柄が背中側に向いている。得意の居合には不向きで多少不満が残るものの、帯刀させて貰えるだけで良しとした。
「ああ、それと、銀時計。執事は時間に正確であるべきこと」
「心得た。ところで……白刃はどうなった?」
「別室で着替えてもらっているわ。随分と暴れられたけれど」
「だろうな。まったく、困った家来だ。もう少し淑やかになれないものか。その点、咲夜は良き従者らしい」
「お上手ね」
「世辞は言わんよ」
最後に白手袋をはめて支度が整い、一旦廊下に出てみれば、そこにはゴシックな白黒のメイド服に身を包んだ白刃が顔を真っ赤に染めて小刻みに震えていた。白刃は執事姿の刀哉を見て一瞬驚いたものの、すぐに目尻に涙を浮かべた。
「うぅ……殿ぉ……おいたわしやぁ」
「今はお前のほうがいたわしいぞ。しかし人のことは言えぬが、けったいな姿だな。西洋の着物というのは」
「着慣れませぬ。せめて割烹着ならまだしも、こんなフリフリしたものを着て良く動けるな? お主たち」
同じ姿をした妖精メイドたちに唇を尖らせる白刃を彼女たちはからかうように笑い、咲夜も困ったように息を吹いた。
「幻想郷も文明開化しているの。さあ、仕事は山ほどあるのだからボヤボヤしないで。まずは館内のお掃除よ」
箒、雑巾、モップにバケツと各々が使用人の戦支度を整え、広大な敷地と館をせっせと掃いて磨いて拭き取っていく。
掃除というものはやり始めるまでが誠に億劫だが、いざやり始めると妙に拘ってしまいがちであり、はじめはあれこれと文句を言っていた白刃も気づけば掃除に熱が入って隅々まで手を伸ばしていた。
今回は鎧武者たちの援軍はない。なぜなら刀哉が禁じたから。
反省のために働いているのだから他人の手を借りるのは言語道断。
白刃たちが拭き掃除を、刀哉と咲夜が掃き掃除をし、清掃が終わった後は執事としての振る舞いを咲夜から習うこととなった。
一つは紅茶の淹れ方である。
「紅茶を飲んだことはあるわよね?」
「うむ。先ほど初めて飲んだ。美味かったぞ」
「それはどうも」
掃除や給仕の仕事は慣れないものの、一度教われば卒なくこなせば良い。元来手先が器用な刀哉は紅茶の淹れ方などはすぐに覚え、咲夜に付き添われてレミリアに茶を振舞ったが、特に叱りを受けることもなく飲み干された。
とはいえ彼にも敵わないものがある。朝昼晩の食事だ。特に洋食が口に合わず、牛肉や豚肉の料理が皿に載って供されたときは目を丸め、彼の驚きぶりを前にした咲夜もまた目を丸めた。
ナイフとフォークを断固として拒否した彼は箸を持ったまま皿を睨み、今か今か口に運ぼうとしては躊躇っている。
「別に毒があるわけではないでしょうに。幻想郷では皆食べているわ」
「別段、肉を食うことに躊躇いはない。俺は山にこもって妖怪を食っていたからな。だが、いかんせん味が慣れない。不味いというわけではないぞ? 慣れないだけだ。俺には飯と梅干だけで事たる」
「困ったものね。いくら執事となったといっても、あなたはお嬢様のお客人に変わりはないもの」
「レミリアが言ったのか?」
「余興程度にしか思われていないわ。あなたや家来の白刃だって、お嬢様に忠節を誓っているわけではないのでしょう?」
刀哉は紅茶を啜って返答を濁した。奇妙な経緯からこのようなことになり、いつ終わるとも知れない日々が続くのは正直我慢ならなかったが、身から出た錆びとはいえ、難儀をしている家族を見捨てて一人帰るほど世渡りが上手ではない。ただ目前の仕事を淡々とこなして要らぬ考えをしないように努めているだけで、白刃とてそれは同じであろう。むしろ彼女のほうが良く顔に出る。
特にレミリアの靴を磨いたときなどはすさまじい剣幕だったという。しかし己のために執事となってしまった主君を想うと怒りをぶつけるわけにもいかず、そんな白刃の顔をレミリアは終止あざ笑って楽しんでいた。
「良い顔をしているじゃないの。でも私に逆らったらどうなるか、わかっているはず……」
「くっ……言われずとも……お嬢様」
「ふふっ……ぞくぞくしちゃうわ。次は、足でも舐めて貰おうかしら」
「なっ! お戯れが過ぎまする! あまり侮辱されては、拙者、腹を切ってお暇をいただきます」
「あはは! 何を本気にしているの? ただの戯言よ」
というやりとりがあり、傍らで見ていた咲夜は内心で複雑であったらしい。
半面は我侭なレミリアへの困惑、半面は……。
「くっ! 私を差し置いてお嬢様の足を……羨ましい」
「何をぶつぶつ言っているのだ?」
「いえ、別になんでもないわ。それにしても、いつも刀を放さないのね? 執事服にはミスマッチだわ」
あきれる咲夜を刀哉が鼻で笑った。
「咲夜とて短剣を常に仕込んでいるではないか。第一、俺にとってこれは魂だ。手放すときは、あの世へ逝く時だ」
「あの世にまで持って逝ったそうじゃない。既に噂になっているわ。地獄で一悶着あったって」
途端に脳裏にあの烏天狗の顔が浮かんだ。以前のように歪んだ記事は書いていないらしいが、全てを包み隠さず報じられるのも考え物だ。ともあれ知られたからには隠すこともなく、また、レミリアも彼の帯刀を咎めることはなかった。
食事を終わらせて門前に出た彼は美鈴と共に門番の役目を言いつけられ、小鳥たちの囀りを聞きながら平和な午後を過ごす。
初夏の日差しは眩しいが、吹き抜ける風は涼しく、なるほど昼寝日和というのも頷けた。
が、刀哉にその理屈は通用せず、ついうとうとと首が下がる美鈴の頭を刀哉の石突が軽く叩いた。
「居眠りをしていては門番にならん。不心得だぞ」
昼食を終えて眠気に苛まれる美鈴は唇を尖らせた。
「う~……どうせ誰も近づきはしませんよぉ。たまに白黒魔法使いが飛んでくるくらいで、刀哉さんが久々に乗り込んできたのですからぁ」
「乗り込んだのではない。招待されて来たのだ。しかし美鈴の拳は見事だった。咄嗟に霊力で防いだが、骨が軋むほどだったぞ」
「刀哉さんの技も美しいものでした。流石、天狗に頭を下げさせただけのことはあります」
「よせよせ。あの時は怒りに任せていただけのこと。語り継ぐようなことでもない。これからも鍛錬に励まねば」
「はい! 私も頑張っちゃいますよぉ!」
妖夢といい、美鈴といい、武芸を磨く者と相性が良いのか、門の前に立つ二人の間から会話が途絶えることはなく、鍛錬のことや日頃の愚痴……は美鈴が一方的に聞かせてきたが、その他にも様々な体験談等で盛り上がった。
こと魔理沙に関しては相当手を焼いているようで、館の地下にあるという大図書館から幾つもの冊子を強奪しているのだという。思い返してみれば、確かに彼女の家には無数の本が山と積まれていた。あれらが全て盗品だと知って思わず苦い顔を浮かべてしまう。命の恩人である手前、あまり彼女と事を荒立てたくはない。
「それにしても地下に書庫があるとは、此処は見た目以上に大きな場所のようだな」
「ええ。むしろ地下のほうが広いかもしれません。でも、あまり近づかない方が良いですよ? 図書館はまだしも、妹様のお部屋に入っちゃった日には……って、危ない危ない。すみません、今のは忘れてください」
口を押さえて首を激しく振る美鈴の態度は誠に怪しいものだったが、これほどの館ならば秘密の一つや二つはあるだろう。こと妖怪の館ともなれば尚更。普通に考えれば化け物屋敷と大差は無いのだから、別段驚くことも無い。
気にならないといえば嘘になるが。
特に妹様という言葉だ。察するにレミリアには妹がいるらしいが、ここのところそのような少女は見たことが無いし、美鈴の態度もまるで妹の存在そのものを隠しているようではないか。
キナ臭さを感じつつも仕事と雑談に勤しんだ午後はあっという間に過ぎ、いざ就寝という時になってレミリアから呼び出しを食らった。他の妖怪の例に漏れず、吸血鬼の本領は夜にこそある。
昼間も活動しているが基本的に館の中に篭っているが、今宵は月が見事ということもあって部屋のテラスに出て紅茶を味わっており、ドアをノックして入室した彼をレミリアは手招きした。
「お疲れ様。少し付き合ってくれる? 咲夜は別件で手が離せないの。一人でお茶というのもつまらないでしょう? 給仕をして頂戴、執事さん」
「お嬢の御意のままに」
一礼して彼女のカップにお代わりを注ぎ、自身も席に着く。
「私のことをお嬢なんて呼んだのはあなたが初めてだわ」
「姫様、とでも呼んで欲しかったか?」
「どこぞの月人みたいだから嫌よ」
「白刃はどうした?」
「今日は一日私に付き合って貰ったから疲れて寝ちゃったわ。中々面白い子を家来にしたのね。羨ましいわ。退屈しなさそうだもの」
「退屈はしないが、家来なら咲夜くらいが丁度いい」
「咲夜は咲夜で面白いのよ? この前なんて、私の着替えを手伝っていたら鼻血を噴き出して倒れちゃったの」
人間誰しも意外な一面を隠しているものだ。
「ところで……」
紅茶を一口啜って舌を潤した刀哉は不意に尋ねた。
「お嬢には、他に家族はいないのか? たとえば妹とか」
するとレミリアは不機嫌そうに眉を動かし、その後すぐに表情を元に戻して冷たく笑った。
「不要な好奇心は身を滅ぼすわよ? 今のあなたは執事なのだから、少しは弁えて頂戴」
「……失敬。明日、地下の図書館に行ってみようと思う」
「いいわ。私の友人と司書がいるから、挨拶してらっしゃい。ただし地下をみだりにウロウロしないこと。これは、命令よ」
「相分かった」
他家の事情に口出しするつもりは無いし、余計な詮索も趣味ではなかったが、実の妹に対してここまで冷たく隠そうとする紅魔館の空気が刀哉には妙に重々しく感じられ、結局彼がベッドへ入ったのはそれから暫く経った深夜のことだった。