人里 弐
そういう訳で神社の手伝いをすることとなった刀哉。
霊夢から竹箒を受け取り、神社の表に散らばった桜の花びらを一心不乱に払っていく。
奥歯をグッと噛み締め、無理矢理にでも、嗚咽を堪えていた。涙など流してたまるものか。何も覚えていないのなら、何を嘆くことがある。親の顔も友の顔も、故郷の風景すら覚えていない。
まるであの世のことを想っているようではないか。馬鹿馬鹿しい。
と、刀哉は自分に言い聞かせて掃除を続けた。境内の床を雑巾がけし、土間の台所で夕飯の支度を済ませていく。霊夢は黙って彼の様子を伺いながら茶を啜っていた。
「無理しちゃって……バカなんだから」
「え? 何か言ったか?」
卓袱台に並べられた夕餉を摘む刀哉が質すと、霊夢は首を横に振って味噌汁を飲む。
「何でもない。それにしても、あんた料理が上手なのね。男子厨房に入らずとでも言うのかと思ったわ」
「どうも身体が覚えているらしい。刀術にしても、言葉にしても」
「ふぅん。ああ、そういえば森に辻斬り妖怪が出てきたって当の妖怪たちが騒いでいたけど、もしかしてあんたのこと?」
「襲われたのを返り討ちにしたといえば、正しい。まあ、妖怪の巣に乗り込んだのは辻斬りと言えるかもしれんがな」
「どのくらい殺ったの?」
「ざっと五十ってところかな」
「その刀一本で? 呆れた……」
「俺もそう思う。ま、あの時は一宿一飯の恩義を返すことしか頭に無かったし、今生きているからどうってことはない。確か霊夢は、妖怪退治を生業にしているんだっけか?」
「そうよ。どちらかと言えば、異変解決が主だけど。博麗の巫女は幻想郷の秩序を保つのが仕事だから……はぁ、面倒くさい!」
霊夢は勢い良く茶碗の飯をかきこむ。横着なようだが、同時に責任を感じている節も見受けられる。妖怪に対する余裕にも感じられた。頼もしい限りだと刀哉は口元を緩め、香ばしく焼かれた山鳥の肉を頬張る。
食後の風呂も刀哉が沸かした。
魔理沙のように魔法で湯を沸かせられれば便利なのだが、生憎と霊夢の家は火を焚いて水を温めなければならない。井戸から水を汲んでヒノキの浴槽に溜め、外で薪を燃やして温める。
一番風呂は無論、霊夢だった。
しなやかな肩まで湯に浸かり、大きく手足を伸ばしていた霊夢の眼前に、突然、空が裂けて紫色の口が開き、その中から扇で口元を隠した女性の妖怪が顔をのぞかせた。
「はぁい、霊夢~」
「うわぁあ! ちょ、ちょっと紫! ビックリさせないでよ!」
「あら、ごめんなさいね。けれど彼が離れている時といえば今しかないから」
「彼? 刀哉のこと?」
「そうよ。ふふふ、面白い子でしょう? 今時、ああいう真っ直ぐな人間も珍しいと思わない? 結構私好みだわぁ」
「だったら煮るなり焼くなりすればいいじゃない。どうせ、あんたの仕業なんでしょ? あいつが流れてきたのも」
「あら心外。私は別に何もしていないわ。全ては幻想郷の意思によるもの。私はただ、その意思によって流れてきた彼に興味があるだけ」
「ということは、あいつは外の世界の人間で間違いないのね?」
「ええ。ただし、彼を外の世界に帰しては駄目」
「なぜ?」
「それが幻想郷の意思だから。それに、今の外界に帰したところで、彼にとって不幸なだけよ。もう彼はこちら側の人間なのだから。そうね……しばらくは人里に居てもらいましょう。そのほうが彼にとっても居心地が良いだろうし」
「随分肩を持つのね」
「好奇心よ。ただのね。貴女も仲良くしてあげたら? 何なら一緒に寝て――」
「帰れ!」
桶で湯をかけられる直前に、八雲紫はスキマごと姿を消した。
すっかり長風呂になって逆上せてしまった霊夢が、頭に冷たい濡れタオルを乗せて居間に戻ると、刀哉は月明かりの下、縁側の外で愛刀を素振りしていた。
その薄い蒼が混じった白刃が振り下ろされる際に月光を反射する煌めきは、まるで曇天を駆ける雷光のようだ。霊力のようなものすら放っている。暫し夜風に当たりながら様子を眺めていた霊夢は、ふと思い出したように箪笥の引き出しを開け、中から桐箱に収められた打ち粉を取り出した。
以前に金物屋で包丁を購入した際におまけで貰ったものだが、使う機会が無く、箪笥の肥やしとなっていた。持て余していたので調度良いとばかりに縁側に置き、風呂から上がったことを彼に告げ、奥の間に引っ込んだ。
刀哉は早速縁側に腰を下ろし、口に懐紙を咥えて刃に打ち粉をくれてやる。
思えば、この刀を持つ由来も忘れてしまった。物には魂が宿るという。一体お前はどういう経緯で俺と出会い、共に過ごしてきたのか。もしも語ることが出来るのならば、俺に教えてくれと言わんばかりに、透き通るような白刃に視線を送る刀哉。
無論、答えなど返ってくるわけもなく、咥えていた懐紙で刃を拭き取り、鞘に納めて風呂場へ向かった。少しヌルくなった湯に全身を沈めて身を清める。
頭は既に、この幻想郷で生きる術を思案していた。
戻れないというのならば是非もなし。この地に根を張り、己を取り戻すまで生き抜いてみせると腹を括っていた。そのためには雨風を凌ぐための寝床と、日々の糧を得るために職を得なければならない。
とはいえ、己の特技といえば今のところ刀術くらいしか見当たらない。
もしもこの里に道場があるのならば、そこで刀術の指南でもしてみようか。
あるいは里で用心棒を募集している家を探してみようか、などなど考えこむうちに、刀哉もまたすっかり茹で上がっていた。風呂から出て霊夢の姿を探すと、彼女はいつの間にか縁側にて晩酌を楽しんでいる。
月夜に照らされた夜桜を肴に飲むとは凝った趣向だ。
それにしても魔理沙といい、霊夢といい、この世界の少女たちの間では飲酒が流行りなのだろうか。
刀哉は苦笑いを浮かべつつ彼女の隣に腰を下ろす。
「ああ、上がったの? どう、駆けつけ一杯」
「頂こう。それにしても、綺麗な夜桜だ。これだけ見事な桜なら、参拝客が来てもいいだろうに」
「うちは妖怪も結構来るのよ。だから里の人間が寄り付かないようになって、賽銭が全然入ってこないの」
「ほう。妖怪退治屋の神社に来るとは物好きな連中だ」
「別に悪さをする連中じゃないからねぇ。でも、人間からすれば妖怪は妖怪よ」
ぐいっと一息に猪口を干した霊夢に、刀哉が徳利を差し出す。
「あら、気が利くじゃない。じゃあお返しに」
「おっとっと、かたじけない。ところで、人里は中立地帯と聞いたけれど、人間たちはどうやって我が身を守っているんだ? 人を喰う妖怪もいるのだろう?」
「さてね。掟を破るような妖怪は私が退治するし、妖怪たちも敢えて掟を破るような真似はしないわ。だから、用心棒なんて需要無いわよ?」
「バレていたか」
「あんたが考えそうなことじゃない。それと、一つ忠告しておくとね、この世界の住人は結構暇を持て余しているの。中には好戦的な連中がいるから、あまり目立っていると喧嘩を吹っかけられるわよ? 特に、あれに見える妖怪の山には立ち入らないこと」
「ほう。何故に?」
「あそこは天狗の縄張り。連中は結構排他的でね。余所者が嫌いなの。腕も立つから、要らない好奇心は寄せないことね」
「承知した」
と、言いつつも刀哉の心中には好奇心の芽が植え付けられた。
天狗といえばお伽話では有名な連中。しかも腕まで立つというのならば、剣を志す者として闘争心が燃え上がってしまう。とはいえ刀哉は冷静に心を鎮め、己の欲求を振り払った。
せっかくの忠告なのだ。己の我儘で破るのは義に反する。
「あんまり自分を縛り付けるのは止めちゃいなさい」
「うん?」
「あんたの生き方って窮屈よ。もっと楽に生きたら? 面倒なことは投げ出しても、誰も文句を言ったりしない。此処は常識が通用しない世界なのだから、自分の人生を自由に生きてみるのも悪くないんじゃない?」
「はは、一理ある。その方が気楽なのだろうな。だが俺は、そういう生き方はやり通せないと思う。否、そんな生き方なんて御免被る」
「へぇ、どうして?」
「あの桜のようなものさ。咲く時は咲き、散るときは散る。いつまでも花を開き続けている桜なんてない。俺は無駄に長く生きるくらいなら、いっそのこと、一事を成し遂げてサッパリと死ぬ方を選ぶ。惰性という川に溺れるのは、嫌だな」
「それがあんたの武士道?」
「正直な心情だ。といっても、自分の記憶を取り戻すまで死ぬつもりは毛頭無いが」
「一生記憶が戻らないかもしれないわよ?」
「それでも、探し続けることに意義がある」
「頑固者ね」
「よく言われる」
二人して笑いが口から零れた。ほろ酔いだった所為かもしれない。酒は嫌なことを忘れさせてくれる。心を蝕む毒を清めてくれているようだ。
無論酒に呑まれるほど暴飲などせず、程よく気持ちよくなったところで寝床へ行くことにした。
霊夢は客間に布団を用意しており、真っ白な布団に身を包んだ刀哉は、木目の入った天井を睨んで霊夢の言葉を反芻する。
一生記憶が戻らないかもしれない。
そんなことは覚悟の上だ。元の世界に戻れなかったのだ。記憶が戻らないこともあるだろう。しかし、探すのを止めてしまえば、それこそ蜃気楼と成り果ててしまう。
ただの動く肉袋だ。存在する意味すらない。
刀哉は天井に向けて手を伸ばした。まるで何かを求めるように、否、自分がここに存在する意味を求めて手を伸ばした。やがて酒が強烈な眠気を誘い、いつしか刀哉は深い夢見の淵へ落ち込んでいった。
部屋の片隅に小さなスキマが開いていることも知らずに……。