紅魔館 弐
招待状なる題名から始まり、要約すると、彼の活躍を兼ねてより聞き及んだ紅魔館の主が是非茶会を催したいという旨が、羽ペンで横書きに記されていた。吸血鬼から茶会の誘いとは面妖至極。
「茶と言いながら血を飲ませるつもりではあるまいな?」
「如何なさいますか?」
「色々と解せぬが、せっかくの誘いだ。無碍にするわけにもいくまい。ただし、白刃。お前は留守番をしていてくれ」
「ははっ、命に換えても殿をお守り……って、留守番!?」
驚きのあまり、彼女は掴みかからんばかりの勢いで身を寄せてきた。
「何故で御座いますか! もし殿の御身に何かあったら!」
「だからだよ。二人共々罠にかかることも無い。もし、俺の身に何かあれば、そのときは助けに来てくれ。ああ、適当な刀を一振り貸してくれ。連絡係りだ。刀の声を聞けるお前ならば、察知出来よう?」
「……承知いたしました。どうかご無事で」
「うむ。行ってくる。土産は期待するなよ?」
白刃が取り出した脇差しを帯に差し込み、帰宅早々に出かけることになった刀哉は里の菓子屋に向かった。茶会ともなれば手土産の一つも無くては無粋というものだろう。夏蜜柑の羊羹を購入した彼は改めて里を出ると、霧の湖を目指して森の中をゆっくりと歩く。
途中で数匹の知性無き妖怪が喰いかかってきたが、一瞬の閃きの後に道中に幾つかの肉塊が出来上がっただけで特に何事も無く歩を進めた。
やがて森の中に真っ白な霧が立ち込めてきた。気温も徐々に下がって肌寒くなり、森を抜けた先には、霧に覆われた広い湖が鏡の如き水面を保っていた。幻想郷には数多くの名所があるが、この湖も他の例に漏れず幻想的で美しい。休憩がてらに草むらに腰を下ろして湖面を眺めていると、不意に小さな波紋が岸に伝わってきた。
視線を上げて湖の中央を凝視してみれば、小さな人影が水の上に立っているではないか。影から察するに少女のようだが、その全容は分からない。
しかし辺りを包む冷気の源が、あの少女であることは直感的に理解した。あれは人間ではない。かといって妖怪のような邪気も妖気も感じず、暫し黙ってその少女を見つめていると、彼女も彼の視線に気づいたのか、ふわりと宙に浮いて飛来した。
「あんた、誰よ!」
えらく跳ね返った物言いをするその少女は、髪も服も真っ青で背中に水晶のような羽を生やし、腰を下ろしている彼の眉間に指先を向けてきた。見た目も中身の子供のようなので、彼はふっと笑いながら答える。
「人里に住んでいる者だ。名前は刀哉。君の名は?」
「なぁんだ、里の人間か。あたいはチルノ! この幻想郷でさいきょーのあたいに出会うなんて、あんたもつくづく運が無いのね!」
「へぇ、最強なのか。道理でさっきから震えが止まらないわけだ」
子供相手だからだろうか。柄にもなく洒落を言ってしまった。
「フフン! あたいの凄さが分かったみたいね!」
「ああ。ところでチルノ、紅魔館という場所を知っているか?」
「紅魔館ならあっちよ。ところであんた、強いの?」
「さぁな。剣を少々やっているだけだ。言っておくが、勝負はしないからな?」
「えー! なんでぇ?」
「女子供に刀は抜かん。特に、丸腰の相手には。だからどうしても勝負をしたいというなら、お前の勝ちだ」
「あたいの……勝ち? やった……は、初めて勝った! あたい、勝った!」
今まで勝った試しがなかったのだろうか。チルノは文字通り舞い上がるように歓喜し、今のうちに紅魔館へ行こうと立ち上がった刀哉の袖をチルノが強く掴む。
「待ってよ! もう行っちゃうの?」
「悪いが、紅魔館に用事があってだな」
「もう少し遊んで行きなよぉ! 敗者は勝者の言うことを聞くんでしょ?」
それを言われた刀哉は言葉に詰まった。確かにその通りなのだがここまで真に受けられると困る。しかし、チルノの上目遣いは彼の足を止めさせるのに十分過ぎる威力があった。
このまま振り払って立ち去っては後味が悪すぎる。用事が終わってから遊んでやる手もあるが、結局少しだけ付き合うことになった。
念のために脇差を通して白刃に心配無用と伝え、チルノの話に耳を傾けてみれば、彼女はしょっちゅう霊夢や魔理沙に喧嘩を吹っかけては返り討ちにあっていたという。何故そこまで勝負を挑むのかと聞いてみれば、そのくらいしか楽しいことが無いのだとチルノは事も無げに答えた。
妖精は皆自我が強いために誰かとつるむことは少なく、チルノと付き合っている妖精も数えるしかいない。そのうちの一人が森の奥から飛んできた。
透明の羽に淡い翠色の髪の大妖精が、チルノと刀哉の傍に降り立った。
「チルノちゃん! と、えっと、人間さんですか?」
「ああ。そういう君も妖精のようだが」
「大妖精といいます。あの、チルノちゃんに酷いことされませんでしたか?」
「いや。遊んでいたところだ。俺は刀哉という。紅魔館に行く途中でチルノと出会った」
話してみれば物腰柔らかで常識的な物言いをする大妖精がある意味で助け舟にも見え、紅魔館へ行く事情を掻い摘んで話すと、大妖精は彼の袖を掴んで大きく首を横に振った。
「あの、やめておいた方がいいと思います。人間さんがあそこに行って帰ってきたのは、霊夢さんや魔理沙さんくらいですから」
「とはいっても、行かないわけにはいかない。気遣いありがとう。だが、離してくれ。俺は行く」
大妖精の手首を優しく掴んで袖から引き離し、彼女たちに背を向けた彼をチルノの声が呼び止める。
「トーヤ! また、遊んでくれるよね!」
「ああ、そのうちに、な」
振り向くことなく手を振って応えた刀哉は小さく溜息を吐く。
「また約束が一つ増えた……何をして遊ぶかなぁ」
低く唸り、頭の中で歌留多やら双六やら遊戯を考えている間にも、霧の彼方に巨大な洋館の影が現れた。真紅のレンガが積まれた外壁に囲まれ、正門の鉄格子には蔦が絡んでいた。
「これが西洋の館か……外堀が無いとは無用心だな」
門に近づくと門番と思しき人物が外壁に背を預けて俯いている。
背まで伸びた真紅の髪、動きやすそうな草色の衣。何よりも目を引くのが頭に被った帽子に輝く龍の一文字。一見すると隙だらけに見えるが、その四肢から放たれる気は只ならぬものがあった。
試しに愛刀の鯉口を切ってみると、彼女はカッと瞼を開いて拳を構えた。やはり眠っていても気配だけは察知しているらしい。
「何者ですか! 名を名乗りなさい!」
「人に名を尋ねるときは、己の名を名乗れ」
「紅魔館が門番、性は紅! 名は美鈴!」
「無銘一刀流師範、名を刀哉。紅魔館の主に呼ばれて参上つかまつった。いざ開門されたし」
「レミリア様が? そのような話は聞いていません! ただちに立ち去りなさい。さもなくば、侵入者として排除します」
丸腰の女子供は相手にしない。その信条も、美鈴の前では通用しないらしい。彼女にとって拳こそが唯一にして全ての武器。
否、拳だけでなく、そのしなやかな脚も、身体全てを駆使して紅魔館の鉄壁となるのであろう。出来れば無用な争いは避けたいところであるが、こちらもおいそれと退くわけにもいかない。
何よりも、呼びつけておいて門前払いとは無礼千万。
こうなっては意地でも紅魔館に乗り込んでレミリアとやらに一言申さねば彼の気がすまなかった。
「その四肢との別れを済ませておけ……不器用だからな、叩き斬るぞ?」
「そちらこそ、己の臓腑とのお別れは済みましたか? 下手ですからね、破裂させますよ?」
鋭く冷たい殺気、熱く燃え滾る闘気……相対する二人の武人にとって、既に言葉は無意味であった。語るはそれぞれが鍛え上げた自慢の得物と技術。
龍虎の激突を前にして、紅魔館の私室から高みの見物と興じるレミリアは愉悦に満ちた不気味な笑みを浮かべるのであった……。