紅魔館 壱
湖に辺りに佇む真紅の洋館。
数多の魑魅魍魎が跋扈する幻想郷の均衡を保つ勢力を誇る、かつて幻想郷を紅い霧で覆い尽くさんと画策した幼き吸血鬼は、月明かりの陰で甘い紅茶を飲みながら烏天狗の新聞を読み流していた。
桃色のドレスから飛び出した一対の翼を時折動かし、書き綴られた文面を黙読する瞳が人里の剣客に関する一文に留まり、不敵な笑みを浮かべる。
「ふふ。人間どもの里では、ずいぶんと面白いことが起きているようではないの。ねえ、咲夜?」
「そのようですね、レミリアお嬢様」
いつの間にかレミリア・スカーレットの背後に控えていた、紅魔館のメイド長たる十六夜咲夜が応えた。主への絶対なる忠節と従者として卒のない瀟洒な彼女は、酷く冷めた視線を記事に記された剣客の名前に向けていた。
一年前の異変は彼女たちにとっても記憶にあたらしい。無数の鎧武者が紅魔館にも押し寄せてきたとき、紅魔館はその尽くを討滅した。主人であるレミリアが出る幕も無いままに、である。
「この人間は今も人里?」
「現在は永遠亭に。明日には戻るかと」
「そう。なら、是非とも我が紅魔館にご招待したいものね。お客人として」
主の言葉に咲夜は目を丸めた。
「珍しいですわね、お嬢様。相手は人間ですよ?」
「あら、あなただって一応は人間じゃない。私は力のある者に興味があるだけよ。あの八雲が目をかけるほどの人間なら、この紅魔館に招待するだけのものがあるでしょう。ただし、私の前に辿り着ければ、の話だけどね」
「もしも、彼が断った場合は?」
「断らないわよ。彼の運命は、すでに見えているのだから」
高笑いするレミリアの側に控えていた咲夜は、一礼と共にその姿を霞の如く消失させた。
場所は戻って永遠亭。
一夜明け、一宿一飯の恩義を返すために屋敷の手伝いをこなす刀哉は裏庭で薪を割り、白刃は屋敷の掃除に勤しんでいた。その他の草刈りや風呂焚きなどは彼女の分身である鎧武者が無機質に動き回っている。
鈴仙は異変の際に襲われたトラウマもあってか物陰に隠れたまま様子を伺い、その背後から彼女のスカートを捲った因幡を怒りに任せて追いかけ、挙句に落とし穴へ真っ逆さま。
「もう、優曇華ったら。騒がしいわね」
庭先を箒で払う永琳が眉間にしわを寄せる傍ら、縁側で茶を啜る輝夜は袖で隠した口元を緩ませる。
「妾は少々騒々しいくらいの方が好きよ? それにしても、勇ましいことね。彼の家来衆は。戦に敗れ、成仏して尚も付き従うなんて見上げた忠節じゃない。それを受け入れる彼の器も侮れないわ」
「でも姫様、掃除はまだしも、買い物のために人里へ騎馬武者を差し向けるのはどうかと。騒ぎになりますよ?」
「あら、そうだったの? 是非野次馬に行きたいわね」
その実、騒ぎとなっていた。突然人里へ駆け込んできた騎馬武者は通りを駆け抜けて味噌屋に乗り込み、白刃から預かった覚書を店主に突きつける。白刃の正体を未だに知らない里人は腰を抜かし、あるいはまた異変が起きたと逃げ出し、味噌屋の主人は顔を真っ青にしてありったけの味噌桶を土下座も交えて差し出した。
「お侍さまぁ! ど、どうか! 命だけは! 命だけはぁ!」
「……カタジケナイ」
武者は店主の手元に黄金の小判を落とし、言いつけられただけの味噌を馬に載せて颯爽と里から出て行った。呆然と見送る里人たちに混じって事の次第を見物していた慧音は最早隠してはおけないと溜息を吐き、皆の衆を集めて事の次第を説明する羽目となった。
そんなことが起きているとは露知らず、ひと通りの仕事を終えた刀哉は兎たちが作った小豆餅を食べながら一息入れていた。
白刃もその隣に腰を下ろして舌鼓を打っている。
「おお! 殿の申された通り、この餅は絶品で御座いますな!」
「そうだろう? 喉に詰まらせるなよ?」
「殿こそ、お気をつけ下され。ふふ、いずれは殿への献上品とするのも悪くないなぁ」
「何か言ったか?」
「いえ。ところで、いつまでご滞在ですか?」
「そろそろ頃合いだろう。気分転換には十分な休暇だった。夏が終わり、秋が始まれば道場も再開する。ぼちぼち計画を練らねばならないし、山で待たせている男もいる」
「男とは?」
「……俺の、二人目の師匠だ。二度負けた……三度目は、勝つ」
決意と剣気の炎が燃え盛る彼の瞳に白刃は胸を弾ませた。
これだ、この顔だ。あの花園で火花を散らした時と同じ、どこまでも真っ直ぐで清々しい闘志だ。頬が熱くなるのを感じた白刃は彼から視線を反らし、暇乞いを済ませて永遠亭を後にする彼の傍らを足取り軽く追いかける。
「なんだよ、随分と機嫌が良さそうじゃないか」
「えへへ、何でもありません。殿こそ、どこか吹っ切れたように見受けられますが」
「そうか? 気のせいだろう。俺は何も変わっちゃいない。ただ、世の道理と筋道に従って生きていくだけだ。この刃と共に」
だが、その世の中は常に変わり続けている。
人里へ戻った刀哉と白刃を待ち受けていたのは、里人たちの何か言いたげな顔と視線だった。ひそひそと内緒話をする者も少なからず見受けられる。どうにも様子がおかしく、一先ず寺子屋へ戻ってみれば、慧音が二人を教室へ招き入れて事の顛末を語った。
彼が半人半神であることも、白刃が先の異変そのものであることも、最早どうやっても隠し通すことは出来なかったと慧音は苦虫を噛み潰したような顔で彼に詫びた。
「すまん……お前が人でありたいという意思を、守ることは出来なかった」
彼は腕を組んだままジッと黙り込んだまま動かず、気まずい空気が流れる中、諦めたような彼の溜息が沈黙を破る。
「致し方ないさ。事実は事実。いつまでも隠し通せるわけもないし、里の者たちに秘密があったのもまた事実。慧音に負い目は無い」
「だが、お前の立場はどうなる? 先の異変で、家族を失った者もいる」
「後日、改めて俺の口から言わせて貰う。いずれは、こういう日がくるとは思っていた。俺が逃げていただけだ」
「申し訳御座いません……拙者が迂闊でありました」
拳を固めて俯く白刃の頭を刀哉の手が撫で回す。
「お前が迂闊なのはいつものこと。気にするでない」
「しかし、殿の顔に泥を塗ってしまった以上は、どうか罰を!」
「罰の前に筋を通せ。あの乱で犠牲になった者の前で頭を下げてから、そういうことは考えるものだ。しかし此処は幻想郷。はじめは俺も中々受けれいて貰えなかったが、お前も、すぐに理解して貰えるはずだ。そうだろう? 慧音」
「ああ、勿論だ。私も尽力させて貰うぞ。大切な仲間なのだから」
一度決まればあとは行動あるのみ。先の異変で家族を失った者の家々を一軒ずつ訪ね、白刃の事情とそれを隠していた旨を謝罪して墓参りに走り、その話もまたすぐに里の中へ広まった。
当の里人たちも刀哉は言わずもがな、白刃に対しても里を訪れる妖怪と同じように見ていたようで、妖怪が人を喰う世の中においては差して恨みを抱くことも無かった。
種や仕掛けが明らかになると人は興味を無くすもので、一体あの武者が何処から現れたのか合点がいった途端に人々の顔から疑念が晴れ、むしろ白刃が刀哉の下にいることに皆が安堵したらしい。
「先生と一緒なら、もう悪さはしないだろう」
とのこと。
むしろもう一つの事実の方が大いに里を盛り上げた。
「道場の先生が実は神様だった!」
と、元々刀哉の剣術を信奉する者たちがあらぬ尾鰭をつけて言いふらしたものだから手に負えず、若者には取り囲まれ、老人たちからは拝まれる始末。それこそ彼が最も懸念していたことだった。
白刃について、たとえ殴られようと唾を吐かれようと構わない。
ただ、人里という安寧の地で囃し立てられることだけは我慢ならなかったが、こうして取り囲まれてしまってはその願いも砕けた。
神とは信仰を得て初めて存在し得るもの。
今、里人たちが彼に対して抱く想いは、人への尊敬ではなく神への尊崇といえた。冗談ではないと人々の包囲から逃げ出した彼は白刃と共に家へ閉じこもる。
「はぁ、分かってはいたが、とんでもないことになってしまった」
「殿、ここは考え様です。少なくとも嫌われてはいないのですから重畳というもので御座いましょう」
「好き嫌いの話ではない。騒がれるのが嫌なだけだ。第一、俺の魂は神であるが、俺自身は人間だ。信仰されるような覚えはない」
「時に人といえども神となることもありましょう。かの東照大権現然り、豊国大明神然り」
「そりゃ死んだ後の話だろうが」
囲炉裏を囲んであれこれと言い合う二人の家に韋駄天が手紙を投げ込んだのは、そのすぐ後のことだった。
またぞろ里の者の仕業かと思っておもむろに封を切ってみれば、その差出人は……紅魔館であった。