晴天 肆
翌朝。鶏の泣き声と共に目覚めた白刃が傍らを伺うと、彼は既に床を片付けて姿を消していた。目尻を擦りながら居間に移ると、まばゆい日の出を前にして、縁側で座禅を組む主の背があった。
白刃はその凛とした姿に暫し心を奪われ、やがて覚醒すると同時に空腹を覚えたので台所へ向かった。飯を炊き、味噌汁を仕立て、漬物を切り分ける。刀の化身が包丁を持つというのも奇妙なものだった。
世に数多の刃物はあれど、それが武具でなければ白刃にも心を通わせることは出来ない。ともあれ、質素な食事を作り上げて膳に載せ、居間に運んで彼に声をかける。
「殿、おはようございます」
「おはよう。味噌汁の匂いがする。わざわざ、すまない」
「味に自信はありませぬが、どうぞ召し上がれ」
その実、味は刀哉が作るものに比べて少々劣っていた。
飯は柔らかく、味噌汁は薄く、漬物も大きくて食べにくい。
が、彼はよくよく噛み締めて白刃の料理を味わい、美味いと一言呟いてから先、黙々と箸を進めて平らげた。
食後、刀哉は硯に墨を溶いて一筆認める。
宛先は霊夢、魔理沙、守矢神社、そして永遠亭。
暫く便りを出していなかったので書いてみたのだが、筆は書く者の心情を如実に表す。ただ他愛のない挨拶程度のつもりが、気づけば地獄での一件から始まり、己が知った過去の顛末をも記していた。
少なくとも魔理沙は、あれだけの苦労をかけただけに知る権利がある。霊夢は一読するだけで握り潰すであろうし、守矢神社の面々がどのように受け止めるのかは分からない。
ただ、誰かにも知って欲しいという気持ちは確かにあった。
別に同情を求めているわけでもない。この先、再び彼女たちと面と向かって話す際に、隠し通す自信が無いだけのこと。
永遠亭に関してはこれから行く旨も書き添えた。
彼は飛脚の韋駄天を家に呼んで手紙を託した。
着替えを済ませて外に出ると、暑い日差しが照りつけてくる。
空には雲ひとつ無い群青の晴天。
「刀哉、白刃、今日は何処へ行くのだ?」
庭先を箒で払っていた慧音が声をかけてきた。
「永遠亭に行く」
「病でも患ったか?」
「いや、遊びに行く。妹紅に言伝があれば承るが」
「ふむ……では、少し待っていてくれ」
まもなく慧音は風呂敷に包まれた弁当を持ってきた。
「たまにはまともな飯を食べるように伝えておいてくれ」
「心得た」
「それにしても、お前、最近少し変わったな?」
微笑む慧音の言葉が解せずに首をかしげる。
「そうかな?」
「ああ。お前が何処かへ遊びに行くと考えるようになったのは、大きな進歩だ」
返す言葉が無く、弁当を預かった彼はそのまま寺子屋の門を出た。
人里を離れ、迷いの竹林に差し掛かる。やはり以前訪れた時と竹林の形が変わっており、永遠亭にたどり着くまでに時間がかかりそうだ。妹紅の居場所も探さねばならない。兎妖怪でもいれば手っ取り早いのだが、気配を探ってみても近くにはいないようだ。
日陰の多い竹林は些か涼しく、笹の香りが心を鎮めてくれる。
それにしても北へ向かっているのか東へ向かっているのか分からない。因幡てゐが仕掛けている罠にも気をつけねば。
「殿、斥候を出しましょうか?」
「そうさな。このまま歩いていてもたどり着けそうもない」
「承知。では」
白刃が瞼を閉じて念じると、黒い具足に身を包んだ五体の武者が何処からとも無く出現し、そのまま竹林の方方へ駆けていった。
「思えば、お前たちと初めて刃を交えたのもこの竹林であったな」
「はい。あの時も、同じように斥候を放ちました。故に多少の土地勘は御座います。まもなく戻ってくるでしょう」
「助かる。妹紅の居場所も分かれば良いのだが……」
彼の懸念は轟々と地を揺らす爆音によって打ち消された。
竹林の彼方から火柱が噴き上がり、斥候の一人が身体を黒焦げにして戻ってきた。白刃への報告を終えた物言わぬ武者が霞みのように消え去り、彼女は言い難そうに唸りながら彼に告げる。
「藤原妹紅を発見しました。が、その……取り込み中というか」
「もしや、輝夜か?」
「ご賢察で御座います」
「案内してくれ」
「殿、危うい状況なので近づかない方が」
「確か二人は不死であったはず。終わりのない闘争をいつまでも待っていられるか」
と、白刃に背を向けて火柱が上がった方へどんどん歩くものだから、彼女も慌てて追いかけるより他に無かった。
藪の陰から輝夜と妹紅の様子を伺ってみれば、竹林の一部が焼きつくされてぽっかりと更地になっており、その中央で二人は激しく取っ組み合っているではないか。どちらも着物がボロボロになって白い肌も汚れ、互いに相手の急所を傷つけるものの、すぐに傷が塞がってしまって埒が明かない。
周囲のことなどまるで眼中にないようだ。
「妹紅ォ!」
「輝夜ァ!」
互いの拳が交差し、相手の頬に深く打ち込まれ、どちらも力尽きたのか背中から地面に倒れた。いくら不死身とはいえ体力が尽きれば身体も動かなくなるようだ。尚も立ち上がろうとする二人のコメカミに刀哉が投げた石礫が命中し、途端に天を衝くような殺気も霧散する。
「はい、そこまで。煩くておちおち散策も出来やしない」
「て、誰かと思えば人里の剣客さんかぁ。いきなり石礫を投げてくれるなんてご挨拶じゃないか」
「これはこれは、刀哉殿。お久しゅう御座いますなぁ。このような場所を物見遊山とは、物好きなことで」
妹紅は地べたに胡座をかき、輝夜は急に余裕ぶった笑みを浮かべて袖をひらひらと振っている。呆れたものだとため息を吐く彼は一先ず慧音から預かった弁当を妹紅に手渡し、輝夜には永遠亭を訪ねる旨を告げた。
「ああ、珍しく韋駄天が何を届けに来たのかと思ってみれば、そちらのお手紙だったの? まあ、運動も終わったことだし、いらっしゃいな。歓迎するわ。どう? 妹紅も。お茶くらいなら出すわよ?」
「冗談じゃないね。私はこれから慧音のお手製弁当を食べるんだ」
輝夜のことを睨んではいるが、口元は嬉しさのあまり緩んだ妹紅が大きく跳躍して竹林の奥底へ去り、輝夜の先導に従って永遠亭へ続く石畳の道を歩く。其の途上で白刃の紹介も済ませた。
「へぇ、あなたにも家来が出来たの。夢が一国一城の主にすることなんて、見上げた志ね。でもね、君主というのは存外に暇よぉ?」
「ふふん、いずれは一国一城の主に留まらず、幻想郷を平定する日も実現してみせようぞ!」
「と、戯言をほざいている毎日だ。大志は大いに結構だが、あまりにムキになって貰っても困る」
談笑に花を咲かせている間にも竹林の中に佇む永遠亭が三人の前に現れ、玄関にて草鞋を脱いだ彼の元に鈴仙とてゐが駆けてきた。
遅れて永琳も顔を見せ、一年前に訪れてから今までのことを彼自身の口から語らっていく。輝夜と永琳は憂いを秘めた刀哉の瞳に何かを感じとったのか、話が一段落したところで彼を輝夜の私室へと連れ出した。
追随しようとする白刃は永琳に制されている。
「あなたは遠慮して頂戴」
「従者として主君のお側に侍るは義務」
「別に取って食うつもりなんてないから、安心して。ただ話を聞くだけよ」
不満のあまり永琳を睨む白刃だったが、無情にも障子がぴしゃりと閉められた。部屋の中で相対する刀哉と二人の不死者。
先に唇を開いたのは輝夜だった。
「生真面目なあなたのことだから、何の理由も無く遊びに来るわけがないと思っていたけれど、案の定だったみたいね。で、妾たちにどんな愚痴を聞かせてくれるつもりかしら?」
「愚痴を言って片付くならば、こんな苦悩などとうに忘れている」
「追い求めていた過去を知って、今度はその過去に囚われているのね?」
頷く刀哉を輝夜が嘲笑う。
「ふふふ、これは永琳でも治せない不治の病ね? それに悩んでいるのは過去だけではないはず。己が人なのか、神なのか、それすら分からなくなってきたのではなくて?」
「流石に、見ぬかれているか。俺は元々人間であるし、これからも人間として生きていきたい。だが地獄での一件といい、先の異変といい、幻想郷が俺に求めてくるのは刀神としての力だけ……俺が人間でいられる時間は、せいぜい童たちに剣を教える時くらいか」
「ずいぶんと遠慮のある物言いね? あなたが一番重荷に感じているのは、姫鶴白刃のことではないの?」
部屋の外で聞き耳を立てていた白刃は、驚愕のあまり瞬きも忘れた。問を突きつけられた刀哉も低く唸るだけで返す言葉がなく、しかし首を横に振って輝夜に否と応える。
「あいつは……あいつだ。確かに白刃は俺に神を求めているが、あくまでも俺自身に仕えている。色々と困ることも多いが、まあ、それなりに楽しませて貰っているさ」
「あらあら、お優しいこと。良い君臣となるでしょうね」
「で、俺はこの先、どうするべきだろうか? 知ってしまった以上、生前の業も背負わねばならぬし、いざとなれば神とならねばならぬかもしれない。第一、幻想郷での使命を終えた俺は、この先どうすればいいのだろうか?」
すると輝夜はさも可笑しげに肩を震わせた。
「相変わらず堅い人ね。そんなもの、考えるまでも無いわ。過去のことなんて忘れなさい。先のことなんて考える必要も無い。慌てなくても世は移ろいゆくもの。ただ川の流れに身を任せ、花鳥風月を愛でながら時を過ごし、来るべき時が来れば雄飛する。それが人生というものでしょうよ。短気は損気、急がば回れ」
「成る程。真理だ。しかし、身体が鈍りはしないか? そうやって日がな一日惰性に流されていて」
「ふふふ、妾は姫じゃ。それに、幾千年も過ごしていると、森羅万象全てが娯楽に感じてしまうもの」
「でしたら、姫様も少しは労働というものを経験してみては?」
「お断り。労働とは生きるための糧を得るもの。不死者にとっては無縁のものでしょ」
「そりゃ屁理屈だ。働かざるもの食うべからず」
「半分神様に言われたか無いわ」
これは一本取られたと刀哉は頭を撫で、相談に応じてくれたことを感謝して部屋を出ると、待っているはずの白刃の姿が無い。
庭先で餅つきの準備をしていた兎たちに尋ねてみたが、誰も白刃の姿を見ていないという。一体どこをほっつき歩いているのだろうか。粗相の無い程度に屋敷内を探しまわったが見つからず、付近の竹やぶまで足を伸ばしてみたが、やはり居なかった。
無断で先に帰宅するような性格ではないはず。
一先ず充てがわれた客間にて待機していると、不意に白刃の気配が彼の脳裏に伝わった。瞼を閉じて探ってみると、不思議なことに足元から伝わってくる。
首を傾げ、部屋から出て縁の下を伺ってみれば、両足を抱えた白刃が俯いたまま微動だにしていない。
「おい、そんなところで何をしているんだ?」
「……ただの野暮用です。放っておいてくだされ」
声が震えている。嗚咽を噛み殺した声だった。
「何も縁の下で泣くことはないだろう? 出てこいよ」
「主君に涙など見せたくありませぬ……殿、拙者は、殿にとって重荷なのでしょうか? 確かに拙者は殿を刀神様として見ておりました。何故ならば、拙者たちは刀ゆえに。ですが、それが殿にとって重荷であったなら、いっそ、拙者などいなくなってしまった方が――」
「阿呆! 下らんこと言ってないで出てこい!」
刀哉は縁の下に身体を突っ込むと、無理やり手を伸ばして白刃を掴み、そのまま陽の光の下に引きずりだした。
「お放しくだされ! 拙者は……拙者は!」
「うるさい! 黙れ!」
掴む手を振りほどこうとする白刃を、刀哉は両腕で力強く抱きしめた。
「と、殿……」
「一回しか言わないから、よく聞け。俺がこの地に流れてきたのは、お前たちの叛乱を鎮めるためだった。病に斃れ、一人さみしく死ぬはずだった幸二に、再び生きる機会を与えてくれた。お前は俺がここに居る理由の一つだ。ゆえに、俺はお前に感謝している。俺にとってお前は必要だ。お前がいなくなれば、俺はそれこそ道標を失ってしまう」
彼は白刃の黒髪をぐしゃぐしゃと撫で回し、踵を返して客間の障子を開けて、背中越しに呟いた。
「勝手に出奔など、許さないからな……家族なんだから」
そのままの足で部屋へ入っていった刀哉の背後では、溢れ出る涙を拭うこともなく地に額をつけて平伏する白刃の姿があった。
一部始終を廊下の陰から見ていた輝夜は口元を緩ませ、茶の支度が出来たことを告げに来た鈴仙が首をかしげる。
「姫様? 何か良いことでも?」
「ふふふ、何でもなーい。今日は良い天気ね。まさしく、晴天だわ」
「は、はぁ……」
話が見えない鈴仙を他所に、輝夜もまた部屋へと戻った。