追憶、修羅の剣 質
日を追うごとに咳は酷くなり、夜毎血を吐きながらも、彼は道を歩み続けた。
体中が気だるくなって食欲も以前に比べて落ちてきたが、己の運命に抗うかのように、その眼光だけは燦然と輝いていたという。
天下から戦が無くなれば、それまで刀を振るっていた者たちもまた彼と同じように流浪の旅に出る。
己の腕を磨き上げ、いつか一国一城の主になることを夢に見て、行く先々で名うての剣客との勝負に挑み、勝てば名を上げ、負ければ忘れられる。
それが刀を持つ者の姿であった。
幸二もその例外ではない。一つだけ違う点があるとすれば、彼には天下を狙う野心も、己の名をあげたいという功名心も無い。
ただ負けたく無かった。ゆえに強くなりたかった。
なぜならば自身の結末が既に見え始めているのだから。
迫り来る死の恐怖が汗となって枕を濡らし、心休まる夜などなく、朝になって目が覚めたことを何度嬉しく思ったことか。
出来れば黄泉で待つ父母に自慢出来るような死に場所が良い。
それまでに身体が保ってくれることを祈りつつ、立ち寄っていた宿を後にして海が広がる海道を歩いた。波の音が耳に心地よい。
海鳥たちの鳴き声も楽しげで、多くの旅人たちが同じ道を歩んでいた。故郷から遠く離れたこの地ではあまり幸二の悪名は伝わっていないのか、宿場町を訪れても役人が飛んでくることも少なかった。
おかげで余計な体力を使わなくとも済む。
が、浪人に関しては別儀である。
彼らは相手が刀を腰に差しているという理由だけで挑んでくることが多い。
特に幸二は今までのこともあってそこいらの三流剣客とは空気が違い、やたらと腕に自信のある連中の気を引いた。このような連中に命をくれてやるつもりなど毛頭なく、かといって勝てば噂が広まって更なる挑戦者が現れる。まるで無間地獄だ。戦いの連鎖が永久に続き、山であろうと海であろうと逃してはくれない。
人の為に剣を振るう機会など一向に訪れなかった。
それどころか、日に日に挑戦者が増えてくる。しかも一騎打ちなどではなく、三人、四人と徒党を組んでくるのだから質が悪い。
斬り結び、鍔迫り合い、その果てに生き残る度に真っ赤な血が喉の奥からこみ上げてくる。顔色は青白く、誰が見ても、余命幾許も無かった。宿の女将に医者を呼ぶと言われたが、その度に断り続ける。どの道この病が癒えることなどない。
これは天が下した己への罰なのだから、医者を呼んだところであとどれほど生きられるのか分かれば良い。否、そんなものは知りたくもない。知れば終わりが見えてしまう。そんなのは嫌だ。明日、明後日の命であっても、まだ先は知りたくない。たとえ一寸先が闇であろうと、己の力だけで黄泉へたどり着いてみせる。
と、無理やり粥を胃袋に流し込んだ幸二は暫し眠った後に出立した。
気づけば、山の中にいた。故郷の山とよく似ている。
鬱蒼と生い茂る木々の間を歩き、次なる町を目指す。
もう道など歩きたくなかった。今まであてもなく彷徨い続けた諸国巡行の間に数えるのも億劫になるほどの浪人や剣客を相手にし、些か名前が知れ渡り過ぎた。暫く息を潜めていた役人たちも活発に動き始め、安息の地は既に無い。見つけ次第斬り捨て御免という御触が出ているのだと前の宿場で小耳に挟んだものだから、こうして人気のない山道を歩いている。
出来れば温かな布団で眠りたい。野宿の肌寒さは幸二の病を一層重くし、三日目の夜、焚き火の側で粗末な夕食を味わっていた彼の周囲を殺気が囲んだ。
数にして二十ほど。おそらくは、賊の類であろう。
相手がまだ若いと分かった連中が何かあれこれと好き勝手なことを喋っているが、既に、幸二の耳にそれを聞き取る力は無かった。
茂みの中から姿を現しても微動だにしない幸二を前に、賊たちは眠っているとでも思ったのだろうか。あまりにも無防備に近づいた一人の荒くれが幸二の顔を覗き込もうとした刹那、閃光の煌きと共に首が宙を舞った。
「さっきからゴチャゴチャと煩い……こっちは肩を叩いてくる死と戦ってるんだ。お前たちに付き合う暇なんて無いんだよ!」
それは燃え尽きようとする命の咆哮だった。この戦いの連鎖、生死の縁を彷徨い続ける地獄の日々、何よりも、必死で生きようとしていた己を迎えようとする死への怒りが爆発し、賊たちは一人残らず屠られる。
積み上げられた骸の山の中、返り血に身を濡らした彼は震えるほどに弱々しい腕を満天の星空へ伸ばす。
一体、何処で間違ってしまったのだろうか。
ただ生きたかっただけなのに、ただ幸せになりたかっただけなのに、何故こんなにも苦しまねばならないのだろう。
幸二は足取り重たくその場を去る。刀を杖のようにして身体を支え、月明かりの下に彼の前に照らしだされたのは、山の中で孤独に佇む古い社だった。朽ち果てた戸を開けてみると、そこにあるべき神仏の姿は無く、酷く殺風景で汚れ果てた床と壁があるだけだった。
旅の疲れ、病の苦しみから、彼は埃まみれの床に膝を落とす。
ふと祭壇の陰に視線を向けてみれば、金色の瞳を輝かせる黒い猫がこちらを睨んでいた。幸二はおもむろに刀を抜いて猫に近づき、刃を振り下ろす。が、猫は巧みに彼の足元をすり抜けて社から逃げ出した。幸二は糸が切れた人形のように崩れ落ち、祭壇に背を預けて己を嘲笑う。
「はは……は……駄目だ……もう、斬れないよ……」
笑いはやがて嗚咽に変わり、拭っても拭っても溢れ出る涙が彼の頬を濡らしていく。身体が寒い。視界も霞み、意識が遠のいていく。
夜よりも深い暗闇が迫ってくる……これが、死か。
こんなところで死ぬのか。こんな寂しい場所で、誰に看取られるわけでもなく、一人ぼっちで消えてしまうのか。
「そんなの、嫌だ……お父……お母……寂しいよぉ……」
小さく呟いた彼は瞼を静かに閉じた。
もう、眠ってしまおう。何もかも忘れて、このまま消えてしまおう……と、彼が意識を手放しかけたとき、突如として天空から雷鳴が轟き、一筋の稲妻が社の屋根を突き破って彼の前に降り立った。
永遠の眠りに落ちようとしていた彼の意識が蘇り、眼前に浮かぶ其れの輝きに目を眩ませた。それは一振りの刀であった。
青白い輝きを放ち、形容しがたいほどに神々しいその刀から、まるで研ぎ澄まされた刃のように透き通った声が聞こえてくる。
「我が名は経津主神。天上の高天原に座す、この世全ての刀剣たちを統ぶる者なり。黄泉路へ旅立たむとする人の子よ。暫し我の願いを聞きたまへ。古より我ら刀剣は戦のため、主君のために生まれ、幾多の生と死の狭間を居かたとしたりき。なるがこの先の未来、刀剣たちは武具にはなくなり、その怨念がさるかたに於きて蜂起せむ。故に汝を見込みて願ひたてまつる。どうかその肉体を我に捧げたまへ。我自身もまた刀剣ならば、それにつきづきしき使い手が必要なり。どうかこの願いを聞きやりたまへ」
幸二は己の耳を、目を疑った。今際の際の幻覚かもしれないし、仮に本物の神が目の前にいるのだとすれば、これほど可笑しいことはない。
しかし幸二にそれを判断する力は既に無く、ただ、布都御魂剣から放たれる輝きが、まるで自身から離れていく魂の其れであるかのように見え、弱々しい腕を必死に伸ばすうちに、気づけば彼の手が神刀の柄を力強く握りしめていた。
途端に刀から流れてくる不可思議な力が朦朧としていた意識をはっきりとさせ、頭の中に先ほどの言葉が何度も響き渡る。
幸二は虫の息のような声で問うた。
「お前の願いは……人の為に、なるのか?」
「無論。汝の死、決して無駄に非ず」
「嗚呼……それなら、良いなぁ……」
彼は己の首筋に神刀の刃をあてがうと、今までに出会った人々の顔が脳裏に浮かんだ。父と母、宿場の薬屋、師匠の藤堂、薺と平太……そこには恨みも悲しさも無く、ただ、笑顔で見送ってくれる彼らの顔があった。
「さようなら……そして、ありがとう――」
彼は自らの喉を一思いに切り裂いた。
鮮血が噴き出し、全身から力が抜けて祭壇に斃れた彼の顔は、どこか満足そうな笑みを浮かべていたという。
それは自らを縛っていた呪いからの解放か、あるいは己を蝕んでいた病魔への嘲りか、はたまた、生まれて初めて誰かのために刃を握ったことへの喜びであったのかもしれない。
幸二は旅路を逝く。
いつ終わるとも知らない幸せを求め、その肉体を幻想に託して。
無数の流れ星が夜空を滑る、秋の夜のことだった……。