追憶、修羅の剣 陸
何事も、初体験というものは新鮮なものである。
生まれてこの方、殺しだけを生業としてきた幸二は、人生で初めて真っ当な商いというものを実践している。それまで唯一の家族のように腰に差していた刀も薺に取り上げられた。飯屋が唯一持っていい刃物は包丁だけと言い、ついでに料理も仕込まれていく。
「男子厨房に入らずなんて言ったら飯抜きだからね!」
と、背後で腕を組む薺に睨まれながら竈に火を灯す幸二は、あろうことか割烹着を無理やり着せられていた。無論、並々ならぬ不満を胸に募らせているが、寝床や飯を与えられている上に、何度逃げ出そうと試みても必ず取り押さえられた。まるで忍だ。
斬ろうと思えば斬れたであろう。しかし、何故か幸二は刃を抜くことが出来ない。己でも何故だか分からなかった。妙に懐いてくる平太も誠に鬱陶しいが、離れても離れても向こうから近寄ってくるのだから始末におえない。そんな日々が続いていた。
飯が炊きあがり、漬物を切り分け、味噌汁を仕上げて客に出す。
無論、刺客の目もあるので客席まで運ぶのは決まって薺であり、幸二は厨房の奥で黙々と薪を焚いていた。表から薺と客の笑い声が聞こえてくる。血にまみれた裏世界とは無縁の朗らかな談笑、明るい陽の光の下で生きる母と子の姿が、幸二には眩しかった。
故郷を滅ぼして一体どれほどの時が流れたのだろう。
もしも、村が落ち武者狩りなどを生業としていなければ、あるいは父と母と共に同じような暮らしが出来たのではないか。
「つっ……」
物思いに耽ったまま手を動かすうちに指を切ってしまった。
頭に描いた幸せな日々が指から流れ出る血と共に流れ落ち、頭を振って雑念を払う。今更、詮なきこと。所詮は絵に描いた餅だ。
既に帰るべき場所も無ければ、帰りを待つ家族もいない。
「おーい、定食三つは出来たのかい?」
「……ああ。そこに置いてある」
「へぇ、結構手際がいいじゃないのさ。覚えも良いし、あんた、結構いい子だね。よぉしよしよし!」
抱き寄せられ、ぐしゃぐしゃと頭を撫で回される。幸二は嫌がって無理やり離れたものの、顔一杯に残る人の温もりに困惑した。
この締め付けられるような胸の痛みは何だ。どこかで同じような温もりを感じたが、それが一体いつのことだったか……。
店は夕刻を過ぎれば暖簾を下ろす。火の始末をし、戸締まりをした後は夕焼けに向かって飛ぶカラスの鳴き声を聞きながら田圃道を歩いて家に向かった。薺は幸二の身の上を一切問わない。
刺客から狙われ、目の前で幾人もの命を奪ったというのに、薺はまるで気にしていない様子だった。家に帰れば平太が駆け寄ってくる。囲炉裏を囲んで粗末な食事にありつき、店を訪れた客の話題や平太が山の中で戯れた狐の話などが食卓を彩る。
「ねえ、幸二郎兄ちゃんは今までどんなところを旅したの? おいらにも剣を教えておくれよぉ」
「平太、あんたは剣の前に包丁を扱えるようになって貰わなきゃ困るよ。そのうち店を手伝ってもらうことになるんだからね?」
「え~! おいら飯屋よりも侍になりたいなぁ」
和気藹々とした親子の会話に、幸二は何故だか苛立ちを覚えた。
それは己とはあまりにも違う和やかな境遇への嫉妬であったのかもしれないし、軽々しく刀を持ちたいと言う平太への怒りであったのかもしれない。
今まで黙っていた幸二が茶碗に箸を置き、小さく唇を開いた。
「やめておいた方がいい。刀を持っていると、碌な事にならない」
「飯屋よりもずっと格好良いと思うけどなぁ」
「そんなものは格好だけだ。俺はこの手で、何人も殺ってきた」
それ以上幸二は喋らなかった。
次の日も、そのまた次の日も、幸二は店に脚を運んでは渋々ながらも働き、夜になれば家に帰って眠る日々が続く。気づけば、この居心地のいい生活が当たり前のようになっていた。
ここのところ刀も握っていない。時折あの重たさが恋しくなるときもあったが、斬る相手が漬物や野菜では包丁で十分過ぎた。
とある日の夜のこと。
仕事を終え、夕餉も済ませた薺は遊び疲れた平太を寝かしつけて幸二と茶を啜っていた。
「それにしても、いつになったら逃げ出すのかと思っていたけどさ、意外と今の生活に染まってきたじゃないのさ」
「俺を逃さないのはそっちだろう。今すぐ旅立ちたいくらいだ」
「また旅に出て、一体、どこへ行こうっていうんだい?」
「どこまでも……俺が死ぬまで、俺は生きる。生きなければいけない。誰にも邪魔はさせない。遠い昔、俺はそう約束した」
「人を殺してでも、かい? あたいみたいな飯屋は、銭こそ貰っているものの、少なくとも人の腹を満たして明日へ生きる手助けをしているつもりだよ。だって、そっちの方が人生の甲斐があるってものだろう? 自分の為に生きるってのも大切だけど、たまにゃ、人の為に生きるのも悪くないんじゃないかね」
「人の為……」
「そう。例えば、こんな風にね」
薺は幸二の腕を引くと、彼の頭を自身の膝に載せた。
「お、おい……」
「いいから、ジッとしていな。平太にもよくしてやるんだよ。あの子は見ての通りの甘えん坊だからねぇ。父親は手柄欲しさで戦に出たのはいいんだけど、結局帰ってこなかった。あたいだって、自分の親の顔をよく覚えちゃいない。流行病ですぐに死んじゃったからね。だから、あんたの気持ちは少しは分かるよ。親がいない寂しさってのは、辛いもんだよねぇ……」
優しく、慈愛を込めて幸二の頭を撫でる薺の香りに、自然と目頭が熱くなった。母親の顔がまざまざと思い浮かんでくる。
身体が弱いくせにいつも笑顔で父と己を愛してくれた。
それと同じ温もりに触れて、幸二は微かに身体を丸め、小刻みに肩を震わせながら嗚咽を漏らした。
「お母ぁ……」
「はいはい、お母はここにいますよぉ? 幸二郎……あんた、随分と苦労をしてきたんだねぇ。どうだい? いっそのこと、ここで落ち着いてみるってのは。あたいはあんたの素性は分からないけど、少なくとも悪いやつじゃないってことは分かる。明るいお天道さまの下で生きな。其のほうが、絶対に良いからさ」
今更になって堅気に生きられるのか自信は無かったが、幸二はこの温もりを手放したくなかった。再び家族を得た彼は渋々やっていた仕事も積極的にこなすようになり、刺客の気配を感じれば極力身を隠して争いを避けた。今までから考えれば異常とも言えるほどの変わり様に、自身でさえ可笑しくて笑うほどだった。
されど古来より、人の口に戸は立てられぬもの。
人相書が出回っている以上、幸二の顔に見覚えのある旅人も多かった。特に夕刻に歩いている姿は旅人だけでなく付近の農民も目にしており、件の人斬りがいるという噂は役人たちの耳にも入った。
時は春の頃。ウグイスの鳴き声が青藍の空に響く朝、台所で仕込みをしていた幸二の耳に、表から薺の声が聞こえた。
「なんだい、なんだい! 朝っぱらからお役人が大勢押しかけてくるなんてさぁ! こっちはまだ準備中だよ。邪魔だから出て行ってくんな!」
「すまぬが、こちらも御役目があるのでな。なに、すぐに出ていくともさ。出来れば飯の一杯でも振る舞って貰いたいものだが、血なまぐさい人斬りの手で作られた飯だけは食うわけにはいかん」
「随分な物言いをしてくれるじゃないか。うちには人斬りなんて物騒な人間はいないよ。あたいと、息子がいるだけさ」
「隠し立てをすると為にならんぞ。既に調べはついているのだからな。おい、聞こえておろう! 己の村を皆殺しにした挙句、その他多数の人間を殺めたる罪人よ。神妙に縄につけ」
台所の窓から外を伺うと、大勢の役人たちが店を取り囲んでいた。
薺は必死に役人に訴えかけている。ここには罪人などいないと、大切な息子がいるだけだと。しかし、真実は役人側にある。
この手で幾多の命を奪ってきたのだ。
遅かれ早かれ、この日は来るのだと覚悟していた。
全ては泡沫の夢。修羅と呼ばれ、鬼の子と忌み嫌われた、この身に取り憑いた呪いは決して離れることはない。幸二は薺の訴えを聞きながら、大人しく店から役人たちの前に歩み出た。
相手の役人は思いの外若く、幸二よりも若干年上に見受けられる。
「ほう、噂の人斬りとは如何なる者かと思っていたが、随分と若いのだな」
「そちらも、人のことは言えない。俺を捕らえにきたのだろう?」
「話が早いのならば助かる。見たところ刀も持ちあわせていないようだな。まさか、本気で飯屋になるつもりだったのか?」
「そのまさか……だったのだがな、お前たちが来てくれたおかげで全部台無しだ。やはり、夢は夢であったのかもしれない」
諦めたように言う幸二の脚に、薺の両腕がしがみつく。
「何馬鹿なことを言ってるんだい! あんたはうちの家族じゃないか……あんたの名前は幸二郎、お尋ね者なんかじゃない!」
薺は幸二と役人の間に立つが、その凛々しい肩に手をかけて道を開けさせたのは、他ならぬ幸二であった。
「ありがとう。願わくば、このまま平穏な日々を送りたかった。幸二郎として生きることが出来れば、それで良かった。だが……俺は幸二。多くの人間を斬り殺した修羅の子。そしてこれからも、俺は生き続けなければならない」
「それは叶わない。どう考えても、お主は死罪。打ち首獄門は必定」
「だろうな。しかし……俺を捕らえられなければ、執行出来まい?」
「こちらとて武士。意地に賭けて、縄について貰う!」
号令の下に抜刀した役人たちが一斉に動き出し、薺を店の中へ突き飛ばした幸二は、一人目の男が振り下ろした刃を両手で挟み、脛を蹴りあげて悶え苦しむその男の手から刀を奪うと、身体を返り血で真っ赤に染めながら次々と切り伏せていく。
筆舌に尽くし難い凄絶な惨殺に薺も言葉を失う。
一人、また一人、役人を殺めていくたびに幸二の背負う罪が重みを増していく。
「退け! 退け!」
己の命が危ういと悟ったのか、若き武士は意地を捨てて部下たちを撤退させ、自身も馬の脇腹を蹴って逃げ出した。辺りには十人ばかりの骸が転がっている。彼は握っていた刀を投げ捨てると、どこか寂しそうな目で薺に振り向いた。
「さようなら……出来れば、平太に剣を教えてやりたかった」
そのまま立ち去ろうとする幸二の背を薺の声が引き止める。
「ま、待って! お願いだから、ちょっとだけ待っておくれ!」
薺は慌てて家の方へ駆け出し、紺色の風呂敷に包まれた何かを抱えて戻ってきた。激しく息を切らす彼女が風呂敷を彼に差し出す。
「今日の仕事が終わったら、渡そうと思っていたんだけどね。もう行くって言うんなら、いま渡しておかないと作った甲斐がないよ」
受け取った幸二が風呂敷を広げると、そこには真新しい白い着物と紺色の袴が畳まれていた。
「こんな良い着物……俺には勿体無い」
「何言ってんだい。家族なんだから、親が子に着物を縫うのは当たり前さね……あんたがこれから何人の人を殺すのか、あたいには見当もつかない。でも、出会った時のあんたと今のあんたは、随分と人が違って見えるよ。その刀、人の為に使ってみたらどうだい?」
「ああ。できる限り、やってみる。だが、これからどうするつもりだ? ここにいては、いずれ店も平太も……」
「なぁに、あたいには飯を作る腕があればどこでもやっていけるよ。それに、別にあたいが人殺しをしたってわけじゃぁないし、何とかなるさね……しっかり、生きるんだよ?」
力強く肩を握る薺に、幸二は初めて笑ってみせた。
「行ってきます。お母」
「行ってらっしゃい。幸二」
新たな着物に袖を通し、幸二は再び歩み始める。
何処へ行くのでも、何をするのでもなく、ただ、生きるための終わりなき旅路。薺が拵えた着物は実によく馴染んだ。
ふと笠の縁を摘んで道端に佇む枯れ木の枝を伺うと、小さな鳥がしきりに鳴いている。
「時鳥か……っ!?」
呟いた幸二の喉から猛烈な咳がこみあげ、落ち着いた頃に我が手を見ると……そこには、今まで見たこともない程に鮮やかな紅が揺れていた。
幸二は天に煌く日輪を睨む。
「これが……こんな結末が……俺への報いだというのか?」
天は応えず、ただ、啼いて血を吐く時鳥の声だけが響いていた。