人里 壱
良夢とも悪夢とも言えない世界から目覚めた刀哉がベッドを見ると、既に二人の魔法使いは寝床を離れていた。
まさか寝過ごしてしまったかと外を見たが、太陽はまだ昇ったばかりで早朝と言っても良い時間帯だ。
一階に下りてみると、魔理沙とアリスが並んで朝食の準備を整えていた。手際の良い連携と談笑が二人の仲の良さを示している。
「おはよう。すまない、寝過ごした」
「おう、おはよ! 別に寝坊なんてしていないぜ? 刀哉はお客だから、ゆっくりしていていんだぜ?」
「顔でも洗ってきたら? もう出来上がるから急いでね」
足早に外へ出て井戸端へ向かい、冷たい水を汲み上げて顔を洗う。
空には綿のような雲が幾つか浮かんでいるが、天候が崩れることはなさそうだ。
今日はいよいよ人里へ向かう。何事も無く博麗の巫女に会えるように、刀哉は深々と日輪に祈りを捧げて家の中へ戻った。温かな朝食に箸を伸ばし、茶を飲むうちに、段々と一度の別れが胸に染みてくる。しかしいつまでも彼女たちの世話になるわけにはいかない。
旅立つ刀哉を、魔理沙とアリスは玄関先まで見送ってくれた。
「お世話になりました。落ち着いたら、便りを送る」
「楽しみに待っているぜ。ああ、そうそう。これ私が書いた紹介状だ。霊夢に見せれば少しはマシになると思う。私からの餞別だぜ」
「何からなにまで、ありがとう。上海も無事に直って良かった」
「もう貴方を襲うようなことはしないわ。この子も、貴方に斬られるのはこりごりだろうし」
「ははは、違いない。じゃあ、そろそろ行くよ。ふたりとも達者で」
別れを惜しみつつも森の出口へ向かう刀哉の背を、二人の魔法使いはいつまでも見送っていた。
森の外に出た刀哉は思わず息を飲む。群青の空の下、どこまでも続く広大な平野一面が全て開墾され、見るも美しい田となっていた。所々に植えられた桜は蕾がようやく開花し始めた頃で、仕事の合間に休憩を挟む農民たちが和気藹々と桜の根本で談笑している。秋になればここいら全てが黄金の稲穂で覆われることだろう。
人間用に舗装された砂利道を進む刀哉を、里人たちは物珍しそうに遠くから眺めていた。
見慣れぬ人間が腰に刀を差し、しかも妖怪たちが住む森から堂々と出てくれば、訝しがられるのも無理はない。刀哉も致し方ないと差し向けられる視線を受け流して歩を進めていると、腰の曲がった老婆がすれ違いざまに話しかけてきた。深い皺の刻まれた顔に光る澄んだ目が刀哉の瞳を射抜く。
「ふむ、ふむ、見慣れぬ御仁じゃの。人間かい?」
「はい。此処では、外来人と呼ばれる身です」
「ほほう。これはまた珍しい。里へ行かれるのかえ?」
「いかにも。博麗神社へ行くつもりです」
「成る程ね。あそこの巫女さんはえらく可愛いけれど、少しばかり気難しいから、気をつけなされ。まあ皆も今は警戒しているが、すぐに慣れると思うからの。心配なさるな」
老婆はそのまま仕事仲間たちの集いに参加し、茶会を始めた。
話題の種は今のやり取りであろう。少しばかり気恥ずかしい思いを抱いた刀哉は、指先で頬を掻きながらひた歩き、太陽が中天に差し掛かった頃、里の入り口と思しき門を見つけた。門といっても竹と木材を組んだ簡素なもので、別に見張りのものがいるわけでもなく、何事も無く門を通り抜けた先には大通りを行き交う人々の喧騒が待ち構えていた。
白壁の長屋が整然と立ち並び、暖簾と旗竿が翻る店先に立つ看板娘と思しき少女が客寄せの声をあげ、人も妖も別け隔てなく出歩き、共に生きているではないか。
刀哉は驚きを禁じ得なかった。中立地帯と聞いていたので、てっきりピリピリとした緊張感に包まれているものかと勝手に予想していたが、その幻想が音を立てて崩れ落ちていく。暫し町中を歩きまわってみると、立ち並ぶ屋台から美味そうな匂いが漂い、農具や包丁を取り扱う鍛冶屋の中から甲高い鍛錬の音が響く。
出来れば茶店にて団子でも味わいたいところであったが、今は兎も角も博麗神社を目指すことを第一に考え、場所を尋ねることとした。
「もし、道をお聞きしても宜しいですか?」
「うん? 私で良ければ構わないぞ」
たまたま声をかけたのは、滑らかな銀色の髪を伸ばした長身の女性だった。
丈の長い蒼い衣をまとい、その目には知的な雰囲気が漂って、非常に落ち着いている。
頭に被った奇妙な帽子が少しばかり気になるところであったが、ぐっと堪えて博麗神社への道筋を尋ねると、彼女はフッと笑って、東の彼方にそびえる小高い山の上を指さした。
「あの頂上に神社がある。見たところ里の人間ではないようだが、もしや、外来人か?」
「なんの因果で此処へ流れ着いたのかはまだ分からないところですが」
「そうか。しかし、博麗の巫女に聞けば何かしら掴めるだろう。では私は失礼する」
行儀よくお辞儀を交わし、銀髪の女性はそのまま雑踏の中へ消えていった。
一方の刀哉もまた教えられた通りに小山を目指し、桜吹雪を浴びながら長い石段を登って真紅の鳥居をくぐると、砂利に囲まれた白い石畳の先に境内と思しき建物が佇んでいた。
その前に設置された賽銭箱の側で竹箒を持つ黒髪の巫女がいた。
歳は魔理沙と然程変わらないらしい。
頭に赤い大きなリボンを結い、紅白の巫女服を着ているが、それは刀哉の知識にある巫女装束とは少し違い、上着に短く黄色いネクタイを締め、下半身も袴ではなくスカートのようだ。
だが容姿など今はどうでもよい。彼女が博麗の巫女ならば、あるいは己の正体を知っているかもしれないという期待感が先立って仕方が無かった。
焦る気持ちを抑えて彼女に近づく刀哉の足音を聞き取った博麗霊夢は、箒を動かす手を止めて彼に顔を向けた。少し顔色に気だるさが垣間見えるが、参拝客が来たと勘違いしたのだろう。霊夢はにこりと笑顔を作って刀哉を歓迎する。
「あら、いらっしゃい。博麗神社に参拝とは殊勝な心がけね。お賽銭を入れてくれれば御利益倍増……って、あれ? あんた見ない顔ねぇ」
霊夢は途端に取り繕っていた笑顔を崩し、眉間に皺を作って刀哉の顔を覗きこんだ。
「博麗霊夢殿というのは、君のことか?」
「そうだけど……」
「俺は刀哉。故あって助けて貰いたい。霧雨魔理沙の紹介状を持参した」
懐から魔理沙の書状を取り出して彼女に差し出すと、面倒くさそうに受け取って適当に読み流していく。成る程気難しい性格というのは本当らしい。先の取り繕った笑顔は一体どこへ消え失せてしまったのか、彼女はあっという間に不機嫌な空気を醸しだして紹介状を握り潰し、刀哉の胸に押し付けた。
「大体の事情は分かった。とりあえず上がって頂戴。込み入った話があるから」
嫌な予感が脳裏を過ぎった。ぐしゃぐしゃになった紹介状を懐に仕舞いこみ、彼女に続いて境内の裏手にある入口から屋内に入った。洋風な作りの魔理沙の家と違い、さすがに全室が畳部屋で、い草独特の良い香りが鼻をくすぐった。
居間にて相対した刀哉と霊夢……。
長い沈黙が続き、今か今かと霊夢の言葉を待ちわびる刀哉は、少なからず苛立ちを募らせていた。刀こそ帯から外して右手側に置いているものの、下唇を密かに噛む刀哉の気迫を受けてか、霊夢は閉じていた口を開いてため息を吐いた。
「……あんたの期待に応えることは出来ないわ」
「なんと?」
「確かに私は、此処と外の世界を繋げられる。でも今は無理ね。結界を開けば、それだけ外の世界に干渉してしまう。幻想郷そのものに影響するのよ」
「つまり、俺は元の世界に帰ることが出来ない……と?」
「端的に言えばね。そもそも外の世界の人間が幻想郷に来ること自体が異常なのよ。しかも妖怪に食われなかった人間なんて、片手で数えられるわ。そいつらも諦めて此処に永住している。大体、あんた元の世界に帰ってどうするつもり? そもそも、あんたが居た世界というのは何処?」
霊夢の問いかけに刀哉は答えられなかった。
熱い期待感は一気に冷め、段々と、元の世界そのものに対して疑念を抱いてしまう。
一体自分は何処の世界から来たのだろうか、と。
「私は気休めなんて言わない。だからハッキリと告げてあげる。外の世界は、おそらくあんたが知っている世界ではない。もう剣客なんていない。刀も廃れたわ」
「その話が本当なら……俺は一体何者なんだ? なぜ何も思い出せない!」
「声を荒げても記憶は戻らない。いっそ、過去なんか全てなかったことにすれば? 考えるだけ面倒ってものでしょう。此処にはそういう連中も結構いることだし」
「どういうことだ?」
「もう聞いているでしょう? 幻想郷は外の世界から忘れ去られた者たちの楽園。つまりはそういうこと。もうあんたも外の世界では、忘れられた存在なのよ」
その一言で刀哉の脳裏で何かが音を立てて弾け飛んだ。握り固めていた拳が震えて力が抜けていき、がくりと頭を垂れて口を噤んでしまう。嫌な予感が的中した。
落胆する刀哉に霊夢は何の言葉も投げかけない。
それが刀哉にはある種の優しさに思えてならなかった。下手な慰めなど言われては、それこそ柄に手を掛けそうだった。長い沈黙が流れた後、顔を上げた刀哉は諦めたように深く息を吐いて、首の骨をぽきぽきと鳴らす。
「参ったな、どうも。しかし俺の記憶まで無くなったのは、どういう訳だろう?」
「知らないわ。探すのはあんたの勝手だけれどね。見つかる保障なんて勿論無いけれど」
「やれるだけのことはやってみるさ」
「意外と諦めが良いのね。もっとふさぎ込むものかと思ったけど」
「落胆していないわけじゃない。随分と堪えているさ。期待していたのも、正直なところだな。だが、まあ、霊夢の言うとおりなのかもしれないってな。自分の記憶も無いのに、元の世界に帰るなんてことは出来んし、霊夢が俺のことを知らないなら拘るわけにもいかない。記憶は自分で探してみるさ」
「もう一度だけ言っておくけれど、見つかる保障なんて無いからね?」
「見つからずとも、ジッと殻に閉じこもるよりはマシだ。その前に食い扶持を探さないといけないけどな。いつまでも誰かの厄介になるわけにはいかない」
「律儀ねぇ。まあ精々頑張りなさい。今日のところは特別に泊めてあげるわ」
「良いのか?」
「ただし、しっかりと働いて貰うけれどね」
「勿論だ。俺に出来ることなら、何でも言ってくれ。今は何も考えたくない」