追憶、修羅の剣 弐
死ぬも地獄、生きるも地獄。
それが乱世の常だった。
生まれ故郷を焼いた幸二は山の中を彷徨い続けた。持ち物は腰に差した唯一の戦利品である太刀だけで、銭も食べ物も無く、思考も真っ白に染まっていた。血の匂いを嗅ぎつけた獣たちも多く寄ってきたが、いざ牙が迫ると虚ろな目つきが急に鋭くなり、幾つかの骸がそこに転がっていた。
火を起こす気にもなれず、そのまま食って飢えを凌ぐ日々が幾日か続き、ハッと我に返ったとき、彼はいつも戦利品を銭に換えていた宿場町にたどり着いていた。通りに宿や飯屋、酒屋などの店が暖簾と提灯を連ね、長屋に囲まれた通りを旅人が行き交っている。
表向きは村の鍛冶師が作った鎧兜を卸に来ているという建前で、幸二もよく父親と共に此処を訪れていたので、名前を知る者も少なくない。
それがどうしたことか、全身を真っ赤な血に染めて現れたものだから、宿場町は騒然となった。気味悪がって逃げていく者もいれば、初老の薬屋やお節介な町娘などが近寄ってきた。
「みんな、死んだ。村は燃えた」
ただそれだけ告げた。このご時世なので、恐らく賊か何かに襲われたのだろうと判断した町の者たちは、一旦幸二を薬屋の家に預けることとした。
この薬屋というのが宿場町でも評判の慈善家で、流行病で妻と子に先立たれた寂しさもあってか、幸二を快く預かった。
血塗れた着物から真新しい紺色の衣に着替え、熱い湯の中で様々な汚れを洗い流していく。何故此処にいるのかまだ理解出来なかった。自分はとっくに死んだものと思っていたが、湯をすくって顔を洗うと、ようやく生きていることに気がついた。
風呂から出ると、薬屋は食事の支度を整えていた。
作ったのは隣の家の女房だった。湯気の立つ味噌汁に、混じりっけなしの白米と鰯の干物という、生まれてこのかた見たこともないご馳走に心が踊った。
「さあ、腹が減ったろう? 一杯食べなさい」
箸を取り、無心で飯を貪る幸二を前に、薬屋は肩を震わせた。
「よかったなぁ、オイ……生きてて、本当に、よかったなぁ」
嗚咽する薬屋の言葉は彼に届かなかった。今はただ空腹を満たしたい。他のことは全て意味のない雑音だ。彼にとって何の関係もない他人を救うなどという概念は無いのだから。
ゆえに薬屋の善意もただのお節介くらいにしか考えていなかった。
どうせ見せかけだけの善意だ。村の人間と同じように、いつこちらに敵意を向けてくるか分からない。それが世の中なのだ、と。
「刀は――」
「うん?」
「オレの刀は……」
粗方食べ終えた頃、幸二は譫言のようにつぶやきながら周囲を見渡した。子供が持つには危ないと思って薬屋が管理しており、そのことを告げると、幸二は返して欲しいと何度も言い寄ってきた。
その鬼気迫る目に只ならぬものを覚えた薬屋は、鍔と鞘を固く紐で縛って抜けないようにし、幸二に返した。
幸二は暗い天井を見上げながら考えた。
薬屋は妻の部屋を幸二に与えた。
腹の上に太刀を置き、両手で抱くように握りしめている。
もはや刀だけが彼の信ずべき友だった。他の人間は全て敵か他人かの二択だけ。幸二は布団の中から手を伸ばし、障子を開けて夜空の月を眺めた。
これから何をするのか、何処へ行くのか、それすら彼は考えなかった。ただ、生きられればいい。
いつしか深い眠りの淵に落ち込んでいた。
夢に描かれたのは温かな家族の団欒だったのかもしれない。
翌日、幸二は薬屋に連れられて町外れの道場に通された。
刀が好きならば本格的に剣術を習わせた方が良いと考えた薬屋は、新命流と銘打たれた門を通り、門人の若者に話を通して道場主に幸二を面会させた。しかし幸二は黙るままで口を開こうとせず、ただ真っ直ぐに道場主の藤堂佐吉の目を見つめていた。
白髪の目立つ老剣士で、ただでさえ細い体が猫背の所為でさらに小さく見えるが、そこに僅かな隙も存在しなかった。
挨拶も無いことに閉口した藤堂に、薬屋は事の経緯を説明して道場に加えて貰えないかと頼み込んだ。藤堂は一先ずわかったと言って薬屋を退室させ、目の前に座る幸二の澱んだ瞳を覗き込み、問うた。
「お前、人を斬ったことが、あるな?」
幸二は躊躇いもなく頷いた。別に悪いこととは思っていなかったし、嘘を吐く理由も無かったからだ。むしろ、剣士のくせにお前は人を斬ったことが無いのかと、幸二は老剣士に疑問を抱いた。
一方の藤堂も内心で舌を巻いた。前々からあの村の連中はやたらと刀や鎧を商いに来ていたが、その出処がようやく理解出来た。
乱世ゆえに致し方無い。落ち武者狩りなど、どこの村でもやっていることだ。しかしこのような子供にさえ凶刃を振るわせ、それをさも当然のように受け止めている幸二が末恐ろしく、同時に、この子供を磨き上げれば、あるいは天下に名を連ねる剣客の一人と成るのではないかという淡い期待も浮かび上がった。
家も家族も故郷も失い、何の指標も無いまま刃を振るうようになるくらいならば、剣の道を志させた方が幾分かマシかもしれない。
いずれは己の道場を抱えることにもなるだろう。
とにかくこの子を野放しには出来ないと、藤堂は幸二を道場に入れることで決めた。
「お前に、刀の扱い方を教えてやろう」
この一言が幸二の目の色を変えさせた。
稽古は次の日から早速始められた。
白い道着に紺色の袴を与えられ、てっきり刀で斬り合うものかと考えていた幸二は、竹刀や木刀に持ち替えねばならないことを少々不便に思いつつも、門下生たちの激しい打ち込みを傍から見て、これは竹刀の方が死ななくてよかったと考えを改めた。
が、竹刀で良かったと思ったのは幸二だけでなく、彼の相手をする羽目になった門人たちも同じだった。山野で足腰を鍛えた幸二は体を低く構えた状態から縦横無尽に踏み込み、あっという間に懐へ飛び込んできて確実に相手の急所を狙ってくる。
特に喉元や鳩尾など、たとえ竹刀で突かれても危険なところばかりを的確に打ち込んでくるので、何とか流派に従った型に改めさせようと先輩たちは言葉と竹刀に尽くした。
「相手を殺せば……勝ちなんでしょう?」
そんな当然のことを、しかし嗜みとして剣を習っている門人たちは、幸二が放った一言に凍りついた。彼らからすればこれはあくまでも稽古であって、たとえ試合であっても相手を殺すようなことは絶対にしない。
殺すことがあるとすれば、誰かに怨みを買われた際の最終手段に過ぎない。だが幸二は違った。剣は相手を殺すためのもので、それ以外の余地など無い。ゆえに腕前はまだ他の門人たちに及ばない部分もあるが、剣を握る際の気迫と殺気は他の比ではなかった。
藤堂からすればどちらも正しかった。
門人たちは甘ったるく、幸二は現実的過ぎる。
両極端ゆえにどちらも噛み合わず、いつまで経っても師範の手を焼かせているが、結局のところは覚悟の違いで腕前の差は歴然とするもの。特に幸二は剣を振るうことに迷いがない。
相手を殺めることに一片の躊躇も良心の痛みも無い。何よりも、彼は強さだけを求めていた。刀の重たさに逆らわない脇構えを基礎に水の如く構えを切り替え、新命流の基礎は覚えないくせに技のコツだけはあっという間に飲み込んでしまう。
もはや我流だった。構えは臨機応変、技は新命流。
完全な実戦型だった。掟に縛られた試合には全く向かない。
彼にとって剣術は相手を殺し、生き延びることが最終的な奥義なのだから。当然幸二のことは宿場の噂話を沸き立たせた。
女性たちの間では可愛い顔をしていながら剣術が達者という幸二に胸をときめかせ、男たちの間では訝しがられる。
特に興味を示したのが、宿場を取り仕切っている裏の世界の男たちだった。元々幸二の村から刀や鎧を仕入れていた闇商人はヤクザ者であり、当然宿場を取り仕切っている神代組の管轄なので、村ぐるみで落ち武者を剥いでいることも知っている。
村が滅びた真実も、おおよそ見当がついていた。
「そのガキは使えそうじゃ。儂ら裏世界でこそ輝く黒真珠よ」
と、神代組の棟梁はニヤリと笑って煙管の灰を捨てた。