追憶、修羅の剣 壱
彼が生まれた村は、何処よりも、誰よりも、貧しかった。
度重なる戦と重税、日照りと干ばつによる飢饉が続き、村の者たちは皆飢えに苦しんで生き地獄を味わっていた。生まれてくる子供は売り飛ばされるか口減らしのために親に始末され、畑も田も乾ききったために、大人たちは戦から逃れてきた落ち武者を追う日々が続いた。
彼はそんな生き地獄の中で産まれた。
周囲の大人たちは赤子など銭に換えてしまえと言ったが、彼の親は密かに待ち望んだ我が子を慈しみ、明日食べる稗や粟に事欠きながらも育てた。しかし、そんな両親もいざとなれば落ち武者刈りのために山へ出かけた。
実際に何人もの足軽を手にかけた。
剥ぎ取った鎧や刀は町の闇商人に売り払い、その帰路で僅かな食べ物を得る。彼らにとって、山を歩く落ち武者は兎や猪と同じ獲物に過ぎなかった。自然と彼もそれが当たり前になった。
細い二本の足で歩き、言葉を喋られるようになった頃、家族で食事をしていたときのこと。
「はやくお父と一緒に狩りに行きたい」
と、無邪気な笑顔で言った。父も母も顔を見合わせて驚いたが、ある意味で、このような時勢の生き方を理解した我が子に安心した。
生き残った者が勝ち……それが乱世の掟なのだから。
噂では関東の方で大きな戦が起こるらしい。
ならば落ち武者も大勢通ることだろう。
村に招き入れて寝込みを襲うも良し、罠を仕掛けて一人ずつ料理するのも良し。既に村長を始めとした男衆は計画を練っていた。
彼の父親も、そのうちの一人だった。
彼はよく家の手伝いをした。母の炊事洗濯は元より、実りのない畑を耕し、風が吹き抜ける家の土壁の穴を塞ぎ、獣を求めて山野を駆け回った。
おかげで他の子供たちよりも活気に満ち溢れ、やせ細った体もどこか逞しくなり、初めは赤子を育てていた両親を馬鹿にしていた大人たちも、これならば近々落ち武者狩りで成果を上げるだろうと歪んだ期待を寄せていた。
村の大人たちから弓の撃ち方や小刀の扱いを教わると、それを駆使して野山の獣を狩った。が、心の内では早く落ち武者を相手にしてみたいという願いが強まっており、食事の席でも毎度毎度、まだ戦は起きないのかと父親を急かした。
そんなとき、美濃のあたりで巨大な戦が始まったという噂が村に伝わった。天下が東西に分裂した大戦だ。俄かに村の中が活気づいた。大人たちは早速森の中に多種多様な罠を仕掛け、各々の家では武者を仕留めるための凶器を磨く。
彼もいよいよ父親と共に狩りへ行くことになった。
大人と違って、子供ならば相手も油断する。特に彼は大人たちから狩りの術を叩き込まれているのだから、その目は自信と期待に満ち溢れていた。戦は西軍の大敗という急報が物見の村人からもたらされ、女と老人を除いた村人たちは一斉に山の陰に身を隠す。
彼は父親と共に小さな洞穴の中に身を潜めた。
まずは父が手本を見せると言い、無言で頷く。
やがて山が騒がしくなった。既に別の部署では狩りが始まったのだろう。彼らが隠れる辺りにも足を引きずった足軽が何人か通り過ぎた。落ち武者狩りのコツは、特に弱った者から狙う。
狼と同じ手段だ。父は竹槍を構え、歩き疲れて息を切らしている若い足軽に向かって飛び出し、あっという間に喉元を貫いた。
真っ赤な血が辺りに飛び散るが、喉を貫いたので断末魔は響かない。ゆえに先行していった者たちも背後の事態に気づかなかった。
あとは音もなく追いかけて、一人ずつ刈り取って行く。
次は彼の番だった。
短刀を陰に隠し、落ち武者の前に無邪気に躍り出る。
「お侍さん、うちで休んでいかないかい? 少しだけど、薬もあるよ。このまま山を歩いたら死んじゃうよ?」
彼らからすれば、目の前の子供が仏の使いに見えたろう。
助かった……本気で信じた彼らは両手を地に付けて涙を流した。
それが次の瞬間には、血の涙へと変わった。
彼が抜き払った短刀が足軽の急所を捉え、短刀を握った手が返り血で真っ赤に染まった。先の愛想笑いは消え失せ、氷のように冷たい無機質な顔がそこにあった。だが心は喜びに打ち震えていた。
ついにやったのだ。父の役に立てた、村の役に立てた、母に喜んで貰えるのだ……彼は父が待てと言うのも聞かずに次の獲物を求めて獣道を駆けた。一人や二人では足りない。もっと殺さなければ母を楽にしてやることが出来ない。
彼はいつも兎を捕らえる場所へ身を隠した。彼方から人の足音が聞こえる。茂みの陰から近づいてくる武者を見たとき、彼は目を丸くした。
兜首だ。足軽などとは比べ物にならないほどの具足を身に付け、金色の飾りが光る兜が彼の心を掻き立てる。あれさえあれば当分の間は楽な生活ができる。舌なめずりをして武者の前に出た。
先ほどと同じように愛想笑いを浮かべ、村に来て休まないかと誘いをかけた。すると武者は腰の太刀を抜いて上段に構えた。
「その手は食わぬぞ……小童ぁ!」
振り下ろされた切っ先三寸を咄嗟に短刀で受けたが、膂力の差で弾き飛ばされた。短刀を失い、地に倒れた彼は初めて死の恐怖に貫かれた。武者は震える足取りで近づいてくる。すぐに石を拾って投げつけたが、具足の前では何の効果も無かった。
「儂はまだ死なぬ……死んでなるものか……さらばだ、小童!」
振り下ろされる太刀の刃……覚悟して固く瞼を閉じた彼の顔に熱い血が降り注ぎ、再び瞼を開けたとき、眼前には、肩から腹を裂かれた父親の背中が真っ赤に染まっていた。
父の手から落ちていく竹槍を掴み、武者の腹を貫いた。
「無念――」
武者が倒れ、父もまた血の池に沈む。
涙を流して駆け寄る息子の頬を血塗れた手で撫でた父は、微かに笑って言葉にならない声で唇を動かした。
幸二、生きろ――と。
父と母、二人の幸せと名付けられた幸二は、事切れた父の死を理解出来なかった。父は獲物ではない。殺されるはずがない。
脳裏に母の顔が浮かんだ。父が死んだと聞けば、どれだけ悲しむことだろう。幸二はいつまでも父の肩を摩った。父の名を呼び続けるうちに溢れ出ていた涙も枯れ果てた。
「哀れよのぅ、小童ぁ」
竹槍で腹を貫かれた武者は、口から血を吐きながら嘲笑った。
「いや、哀れなのは儂のことよ。かような小童に最期を看取られるとは武士の恥。自害したいが腕も動かん。もはや何も見えぬ。小童よ、お主の父に免じてこの首をくれてやろうぞ。早う、楽にしてくれ」
幸二は父を殺めた太刀を握った。今まで短刀しか持ったことが無かったので刀の重さに驚きながらも、峰を肩に担いで狙いを定める。
「さあ、斬れ。修羅の子よ!」
重力と共に武者の首を捉えた刃は半分ほど抉ったところで骨にぶつかり、幸二は思い切り跳んで峰を踏みつけ、武者の首を刎ねた。
刀を滴る鮮血を着物の袖で拭い取り、改めてその刃を見た彼は、その透き通るような美しさに心を奪われた。
あたりは血の海だった。体を真っ赤に染め、大人たちが駆けつけたとき、幸二は武者と父の首を携えていた。
悪鬼のような姿に村人たちは言い知れぬ恐怖に震え、武者の鎧を横取りしようとした男に、幸二は切っ先を突きつける。
その殺気に大の大人たちは怯みきっていた。
幸二は討ち取った武者の鎧と兜を銭に代え、父の悲報を聞いて体調を崩した母のために費やした。が、村の中は幸二に対する嫉妬と憎悪が渦巻いていた。手柄を独り占めするために父を殺した、という噂すら流れた。いつしか村人たちはあれほど期待を寄せていた彼を、鬼の子と呼んで忌み嫌った。
人々の憎悪は幸二だけでなく、その母にも及んだ。
特に村の女たちからの嫌がらせは筆舌に尽くし難く、山で狩りを終えた幸二が家に戻ったとき、母は自らの喉を短刀で貫いていた。
母の亡骸を抱擁して涙を流す幸二の姿を格子の陰から見ていた村の女たちの嘲笑が彼の耳に入り、その夜、闇を引き裂くような絶叫が村の中に響いた。寝静まった家々に押し入った幸二は刀を打ち振るい、男も女も血の海に沈めていく。
何もかもが嫌だった。この村も、自分自身も、全て消し去ってしまいたいと願った。騒ぎに気づいた大人たちが武器を手に幸二が押し入った家を取り囲むが、月が雲に隠れて視界が悪く、松明の灯りに頼る大人たちの背後から幸二の刃が心臓を貫いていく。
遠くにいる者には短刀を投げつけて眉間を穿った。
結局、皆死んだ。残るは村長の家だけ。
正面から乗り込んだ幸二は台所に隠れていた村長の妻と娘の首を刎ね、病で床に伏せていた村長の喉に切っ先を向ける。
「みんな殺したよ……みんなが落ち武者を殺したように」
「幸二……この、悪鬼め……」
「さようなら。お父とお母に、よろしく」
両手で柄を握り、深々と長の喉笛を貫いた。
夜の闇に紅蓮の炎が燃え上がる。右手に松明を握る彼は、焼け落ちていく村を離れた場所に腰を下ろして眺めていた。産まれた家も、幼なじみと遊んだ小屋も、村長の屋敷も、全てが灰となって消えていく。死体は全て屋敷の広間に積み上げた。
火はいつまでも消えなかった。
枯れ果てたはずの涙が、また頬を伝っていた。
この日、一つの村が一人の子によって滅びたのだ……。