地獄の都 質
喉を潤し、湯呑を置いた直後に刀哉の眉が動いた。
数珠丸の鯉口を切り、障子に向かって飲み干した湯呑を投げつけるのと同時に雷光のように駆け抜け、数珠丸を抜き払って障子ごと外に漂っていた灰色の霊を斬り伏せた。
以前は煙のように消え失せられたが、流石に佛の加護を受けた数珠丸だけあって、今度はバッサリとその灰色の体が裂けている。
見れば、悪霊たちは中庭に数十程ゆらゆらと浮かんで、怨嗟の篭った紅い目を刀哉に向けていた。
やはり、標的は己だった。歯ぎしりを鳴らし、数珠丸を脇に構える刀哉の陰から、妖夢と白刃が飛び出して得物を構える。
萃香と勇儀は座敷に腰を下ろしたまま動かない。
「おっと、招かざる客が来たようだねぇ。しかも、この鬼の屋敷に無断で上がり込むたぁ、いい度胸してるじゃないか」
「勇儀、どうもこやつらは俺が狙いらしい。ちと庭を荒らすが、勘弁してくれ」
「ああ、存分にやっとくれ。萃香、いい見ものになりそうだ」
「子鬼さぁん! お酒ぇ!」
騒ぎを聞きつけた博打連中や子鬼たちが庭を取り囲み、刀を構えた三人の剣客と、地から湧き出てくる悪霊たちを交互に伺う。
「白刃……此度は軍勢を呼ぶに及ばず」
「なんと仰せられます。多勢に無勢で御座るぞ」
「俺はあいつらの想いを受け止めてみたい。何ゆえにこの俺にあの目を向けるのか……何ゆえに、そこまでの怨みを残したのか!」
「お兄様!」
妖夢の声を一切無視し、地を蹴った刀哉の刃が月輪を描く。
一つ、また一つ、刀哉に手をのばす悪霊たちが切払われ、その度に鍔に巻かれた数珠が哀しく鳴った。野次馬は彼の太刀筋を捉えることが出来ない。一瞬光が煌めいたかと思った時には、既に三人目の標的へ踏み込んでいた。斬るほどに彼の勢いが増している。
鬼気迫る、とはあのことか。白刃も妖夢も、無心で刀を振るう彼の姿に魅入った。魅入るうちに身震いすら覚えた。
人の形すら忘れてしまった怨霊たちの姿と声、それを声にならない叫びと共に次々と祓っていく。
既に三十は斬ったろうか。
中庭に生えていた松や灯篭は数珠丸の刃によって両断され、地面も深々と抉られているが、勇儀も萃香も酒を酌み交わしながら刀哉の剣舞を楽しんでいた。
周囲に屯している群衆たちも生唾を飲んで見守っていたのが、いつしか歓声を上げて彼の奮戦を応援した。
が、彼の耳には何も入っていない。
頭の中に怨霊たちの叫びが聞こえてくる……オマエガ殺シタ……オマエガ殺シタ……背骨に氷柱を差し込まれたかのように寒気が走り、耳を塞ぎたい衝動をうち振るう刀に載せて、狂いそうになる理性を保った。
ようやくわかった。
何故この者たちが己を怨むのか、なぜ宿の酔漢と同じ目をしていたのか。
「俺がお前たちを殺したのか!」
涙混じりの叫びと共に最後の一人を祓った。
静まり返った中庭に立ち尽くす彼は、酷く疲れて地べたに座り込んだ。すぐに連れの二人が肩を支えようと手を差し伸べるが、その二人の腕を手で振り払い、俯いたまま肩を震わせる。
情けない嗚咽こそ噛み殺したものの、目頭が熱くて仕方がなかった。只ならぬ因縁があると察した勇儀は野次馬たちを撤収させ、三人のための部屋を用意させた。
刀哉は部屋に閉じこもったまま出てこない。白刃と妖夢が何度呼びかけても返事がなく、食事の時分になっても顔を見せなかった。
「あいつ、どうしちゃったんだぁ? 勇儀ぃ」
「私が知ったこっちゃないさね。でも、連れを心配させたまま音沙汰なしってのはいただけないね」
盃を傾ける勇儀の前に座る白刃も妖夢も、据えられた膳に箸を伸ばすことが出来ない。せっかくの料理を冷ましてしまうのは非礼だと分かっているが、食欲が沸くはずもなかった。
沈痛な空気が流れる中、襖の外から子鬼の声が聞こえた。
「姉御、失礼いたしやす。旦那がお出ましになりやした」
「通しな」
襖が開かれ、目を真っ赤に染めた刀哉がまるで幽鬼のような足取りで部屋に入り、腰を下ろして深々と頭を下げた。
「せっかくの料理を冷ましてしまって、すまなかった。二人にも心配をかけた」
「殿……いえ、拙者は何も」
「大丈夫ですか? 目が赤くなっていますけど」
「大丈夫……大丈夫さ。腹が減ったから、有り難く頂きます」
茶碗を手にとって黙々と食べ始めた刀哉。昼間とはがらりと変わった雰囲気に、誰もが首を傾げた。酒も普段より多い。
「何かわかったのかい?」
「何となく、としか言い様がない。どうやらあいつらのことを知るには、まず自分のことを知らないとダメらしい」
「閻魔に会いに行くのか?」
萃香の問いに重々しく頷いた。
「そちらの方が近道と思えてならない。まあ、何にしても、今はただ酔いたい。忘れたい気分なんだ。あの耳に残る怨みの声を」
「よぉし、私が付き合ってやるよ。呑むぞぉ」
「では拙者がお酌を」
「いえ、妖夢が致します!」
俄かに部屋に笑いが響くが、最後まで刀哉の目が笑うことはなかった。
風呂桶に溜まった熱い湯に体を沈め、湯気がたちこめる白い檜の天井を見つめる彼の脳裏に、まだ彼らの声が響き続けている。
夢に出てきそうだ。
今ここで出てこられては対処の仕様がない。いくら剣客とはいえ、肝心の刀が無ければ意味がないのだから。文字通り、剣の字を取っただけの客だ。しかし出ようとも思わなかった。もう暫く、この温もりのなかに浸っていたかった。
瞼を閉じて深く息を吐いていると、何やら脱衣所の方から音が聞こえた。衣を脱ぐ音だ。気配から察するに白刃だろう。
「まだ入っているぞ」
「存じております」
「ならば遠慮してくれ。背は自分で流せる」
「失礼致しまする」
白刃は構わずに戸を開けて風呂場へ入った。反射的に白刃を見た刀哉は、タオルすら纏っていない白刃の柔らかくも引き締まった裸体に絶句し、すぐに顔を背けた。
「お前というやつは! そういうのは迷惑だ。お前が入るなら俺は出るぞ」
風呂桶から出ようとする彼の背に、白刃の両腕がしがみついた。
「殿……ご無礼はどうかお許し下さい。拙者はただ、少しでも、殿のお役にたちたいだけなのです」
「だからといって、別に風呂場で役に立つこともないだろう」
「殿は今、何も見えていません。誰も見ようとしていません。自分が業を背負っていると思い込んでいるだけです。冷たい氷の牢獄に自分から入っているだけです。だから……家臣である拙者が、殿をお救い致します。いえ、お救いしたいのです! 冷たい牢獄から、暖かな日の下へ」
白刃の湿った肌は刀哉の心臓を否応なしに高鳴らせた。
生きている以上、本能として情欲が燃え盛るものだが、かつて守矢神社にて早苗に背を流して貰って以来女の肌に接したことがなく、この胸の鼓動が何なのか理解するまでに時間がかかった。
「お恥ずかしいのですか? 心配ご無用、拙者は刀で御座います故」
「風呂に入る刀があるか!」
結局同じ風呂桶に身を浸すことになり、刀哉は終始瞼を閉じたまま不機嫌に腕を組んでいた。
「大体、妖夢はどうした? こんなことが知れたら、あいつのことだ。面倒だぞ」
「既に話はつけております。どちらが行くかで、かなり揉めましたが」
白刃は勝ち誇った笑みを浮かべて鼻を鳴らした。
「全く、呆れ果てた家来だ」
「お褒めに預かり恐悦で御座います」
「くっくっく……参ったよ。お前には本当に――」
閉じていた瞼を開け、白刃の黒い髪をくしゃくしゃと撫で回すと、彼女は猫のように喉を鳴らして喜んだ。その間に空いた左手で音もなく桶を掴むと、急に上体を翻して脱衣所へ続く戸に向けて投げつけて一喝する。
「風呂を覗くような鬼は童子切の錆にするぞ!」
「ひぇえ!」
戸に耳を付けていた子鬼たちは一目散に逃げ去り、風呂場に刀哉と白刃の愉快な笑い声がいつまでも響いた……。
翌日、刀哉たちは勇儀と萃香に一宿一飯の礼を申し述べた。
「閻魔のところに行くんだね?」
「ああ。自分が何を背負っているのか、知りたいから。恩返しはいずれ必ず」
「いいさ、気にしなくて。こっちも久々に楽しめたからね。また遊びにおいで。いつでも歓迎だよ」
「組手のこと、忘れるなよぉ?」
「ああ。じゃあ、どうもありがとう」
多くの鬼や妖怪たちに見送られ、三人は都から離れて閻魔の裁判所へ向かった。調査の依頼主に教わるというのも妙な話だが、背に腹はかえられぬ。
今朝の妖夢は実に不機嫌だった。昨夜のことが響いているらしい。ムスっと頬を膨らませ、刀哉と白刃の顔を見ようともしなかった。彼女の半霊が間を行ったり来たりしているのが健気で、刀哉も苦い顔をして彼女の機嫌を取りなす。
「話し合って決めたことだったのだろう? 大体昨日は何も無かったよ」
「どうですかねぇ。ええ、お兄様も立派な男性ですし、私もよぉく分かっていますからね。お兄様が気にすることなんてありません」
「むむ、へそを曲げおってからに」
これは当分機嫌を直しそうにない。白刃は白刃で何やら胸を張っているので、板挟みにされる刀哉はいっそのこと難儀から逃げ出したかった。そうこうしているうちに裁判所に到着し、子鬼の案内で再び映姫の前に進み出る。
「調査は順調ですか? 都の方で騒ぎがあったと聞いていますが」
「そのことだが……一つ、閻魔殿に頼みがある」
刀哉は今までの経緯を説明し、改めて閻魔に頭を垂れた。
「俺は……自分自身を知りたい。今まで何をしてきたのか、何故神が俺を選び、幻想郷に流れたのか……何故、あの亡霊たちがこの俺を怨むのか……閻魔殿、俺は白か? それとも――」
「黒です」
即答だった。一片の迷いもなく、一瞬の間も開けずに、四季映姫は即座に断じた。
映姫は手に持つ尺を彼の眉間に向け、半ば怒りに震えながら唇を開く。
「あなたは……人を、殺しすぎました――」