地獄の都 伍
地上と違って地獄には夜も朝もない。
いつも薄暗く、都の提灯が唯一の明かりに過ぎない。
結局寝込みを襲われることは無かった。三時間ほど眠った刀哉が目を覚ますと連れの二人はすっかり眠りこけており、二人を布団へ寝かせてからは刀哉がずっと起きたまま刀を抱えていた。
あの酔漢の言葉が忘れられない。
己は一体どれほどの人を殺してきたのだろうか。
今更になって、閻魔に己の過去を聞かされることが億劫になってきた。知らぬが仏という言葉もある。が、後に引くつもりも無かった。
どれだけの罪業を背負っていようとも……それを受け止めるだけの覚悟は既に決めてある。あの無縁塚に流れ着いた瞬間から――。
「経津主神よ……どうして俺を選んだ……」
答えなど期待せずに半神へ問いかけた。
異変以来、彼と言葉を交わしたことはない。幾度か語りかけたことはあったが応答してくれなかった。いつも頭の中でしゃべられては敵わないが、たまには話し相手になって貰わなくては寂しい。
特に今のように物思いに耽っているときは……。
やはり彼は応えてはくれなかった。自然と目が無防備に眠っている白刃へ移る。口では彼女の行き過ぎた忠義っぷりを嫌に言いつつも、心の内では少なからず想うところもある。なにせ彼女こそがこの幻想郷に流れることになった原因なのだから。
別に恨んでいるわけではない。
彼女たちが蜂起したのは歴史の流れの必然……そう割り切るしかない。今となっては信じられないことに己に付き従うこととなったが、これも因果というものなのだろうか。
指を伸ばし、妖夢の頬を軽く撫でる。
妖夢は妖夢で苦労が絶えないことだ。
なまじ生真面目なだけに難儀を背負い、兄と慕うがためにこんな地獄くんだりまで付き添ってきたのだから。
刀哉は荷物から打ち粉を取り出して、数珠丸の刃にくれてやった。
考えるよりも手を動かしていたほうが落ち着く。
布都御霊が抜けぬ以上、この先は天下五剣に頼ることになるだろう。特にこの数珠丸は諸天の加護を受けている。布都御霊には及ばないが、そこらの悪霊を祓うには十分だ。
不思議なことに、刀の柄を握ると驚くほどに心が安らぐ。
反射的に神経が研ぎ澄まされるのだろう。瞼を閉じれば、宿の中にいる者たちの気配が手に取るように分かる。
懐紙で打粉を拭い、さらに刀油を軽く塗り、手入れを終えて鞘に戻した時に鳴った小さな音で、先に妖夢が目を覚ました。もぞもぞと布団の中で蠢き、上体を起こして大きな欠伸を漏らしている。
「ふわぁ……あれ? いつの間に寝たんだろう」
目を擦る妖夢の肩に数珠丸の鞘が乗る。
「魂魄妖夢、討ち取ったり」
「みょん!?」
驚いた妖夢は部屋の端へ跳躍し、楼観剣を構えた。
刀哉は微かに笑って数珠丸を腰に差し込む。
「はぁ……脅かさないで頂きたい」
「いや、すまん。しかし目は覚めただろう」
「いつから起きていたのですか?」
「だいぶ前だ。色々と考え事をしているうちに二度寝出来なかった」
「……あの酔漢の言葉ですか?」
「それもある。それも含めて、色々だ。妖夢はどう受け止めた? あの男の言葉を。御託の違いだけで、人を殺すことは変わらない俺たち剣客の業を」
彼女は構えを解いて布団の上に正座した。
「全ての物事は斬って知ります。私の師匠であり、祖父の言葉です」
「斬って知る、か。その真意をお前は何とする?」
「私もその答えを求め続けています。お兄様と同じように、どれだけ高い壁であっても乗り越えてみせる。貴方は、私が越えるべき壁です。いつか貴方やお師匠様に追いついてみせる……それが私の願いです」
「果たして俺は、お前の壁となり得ているのだろうか」
「何を言うのですか」
「剣術は、人を殺す技だ。あの繁華街にいるような悪党を斬るぶんには是非もないが、昨日の男のように、賊となって罪も無い民を斬るのも同じ剣だ。その違いとは……何なのだろうな」
ため息混じりに言葉を紡ぐ彼に妖夢は身を寄せる。
「お兄様は……迷っているのですか? 自分自身に」
「迷わなかった時などない。俺は自分自身を失ったまま此処へ流れてきたのだから。ただ、物事の道理に従って生きてきただけだ。結局のところ、俺は空っぽなんだよ。実体のない蜃気楼なんだよ。自分の過去を、記憶を取り戻すまでは。だが、今はそれすら迷いはじめている。俺はとんでもない悪人かもしれない。あの酔漢のように罪の無い者を殺めたかもしれない。それを知ったとき、俺は俺でいられるのかどうか…………俺は、弱い。弱いから、剣に頼った。中身が無いから、外にある剣を求めた。ただそれだけなんだよ」
「やめて……そんな言葉なんて聞きたくない。貴方は強い。だれもよりも強い。だから、人里の人たちも、私も、白刃さんも、貴方についてきた。そんなこと言われたら……情けないじゃないですか……これじゃ……胸を張って妹分だって言えませんよ……」
俯き、肩を震わせる妖夢を前にして、刀哉は下唇を噛み締めた。
己は何と愚かなのだろうか。手を伸ばし、妖夢の華奢な体を抱き寄せて強く抱擁する。
「すまなかった。格好悪い兄貴分だけど……俺は、妖夢が妹分でいてほしい。これからもずっと」
「うぐっ……ぐすっ……私も、貴方のことを……」
二人のやり取りを、布団の中で聞いていた白刃は頬を膨らませた。
妖夢に妬いているわけではない。
ただ、主人の苦悩を受け止めることが出来ない自分自身が許せなかった。
彼の腰に差された数珠丸が白刃を慰めている。
所詮我らは物に過ぎず、ただ主君のために敵を斬ることが使命なのだと。そして剣客と刀はどうやっても切り離すことが出来ない運命共同体。特に刀哉は刀剣を統べる宿命にある。
主人が朽ちた時、その刀である我々もまた朽ち果てる。
これほど刀にとって名誉なことがあるだろうか。
これほどの忠義があるだろうか。
永らく戦の業を背負い続け、美術品と成り果てた我々が幾度夢見たことだろうか。故に、いかなる時であれ、いかなる地であれ、主人の傍に在り続けねばならない。
これ以上の幸せはない。
そう語る数珠丸の音なき言葉に白刃はただ涙を流し続けた。
数珠丸自身も、本体がある外の世界では既に役目を終えてしまった。それだけに白刃の心に深く響いた。たった一粒の砂鉄からこの世に生まれた時点で、彼女たちの運命は決しているのだから。
「ふぅ、よく眠りました。殿、妖夢、おはようございまする!」
白刃はいつもと変わらぬ口調で二人に挨拶を送った。
そうだ。刀は涙など流さない。特に主人の前では涙など見せてはならない。だから、笑った。妖夢が泣くなら自分は笑ってやろうと決めた。
「ああ、おはよう。今日もしっかり頼むぞ」
「お任せ下され! しっかりと務めさせて頂きます」
何を、とは二人とも言わなかった。言わずとも分かっていた。
むしろ安易な言葉では形容出来るはずもなかった。
神となった人の身と、人の身となった刀……この主従の姿は、妖夢にどう映ったのだろうか。幽々子と自身を重ねたかもしれないし、あるいは長らく行方を眩ませた祖父と自身を重ねたかもしれない。
いずれにしてもその心中を知るものはなく、三人は支度を整えて宿を後にする。
あの酔漢は一階の食堂で飯を食っていたが、刀哉と視線が重なったとき、微かに笑ってみせた。そこには恨みも妬みもなく、まるで、少年のように無邪気な微笑みだった。
刀哉も同じく笑みで返すと、彼は小っ恥ずかしくなったのか無心で飯を貪り始めた。
さあ、目指すは鬼の屋敷。
期待と不安を胸に秘め、三人の剣客は繁華街の雑踏へ足を進めた。