忘却の剣士 肆
「何せ記憶が無いんだ。自分がどの程度の腕前なのか、知っておきたかった。もしも殺されたなら、結局、それだけの腕だったということだけ。ささ、一旦戻ろう」
まるで散歩から帰るような気さくさで二人を促した刀哉は、大きく両腕を伸ばして筋肉を解しながら、元来た道を歩き始める。呆気に取られてその背中を見ていた魔理沙とアリスもそれに続き、夕刻前には魔理沙の家に戻っていた。温かな茶を啜る三人は刀哉の今後を話し合う。
いつまでも魔理沙の厄介になるわけにもいかないとの刀哉の申し出に、アリスも魔理沙と同様に人里へ行くことを薦めた。人里は森から出て長い田園の道を進んだ先にあり、そこに博麗の巫女がいる。仮に元の世界へ戻れなかったとしても、人里ならば安全な上に、雨風を凌ぐ手段もあるだろう。
「すまない。こんな俺のために」
「お気になさらず。乗りかかった船だもの」
「そうそう。刀哉は悪い人間じゃないみたいだからな。落ち着いたら知らせてくれよな? 遊びに行ってやるぜ」
「ああ、楽しみにしている。さて、それでは早速行ってみるかな」
「待った。出発は明日の朝にしておけよ。今からだと夜に着いてしまうぜ? 霊夢は夜中に尋ねると五月蝿いからな。もう一泊していけ。アリスもどうだ?」
「そうね。予定も無いし、お言葉に甘えようかしら。お裁縫道具を貸してもらえる? 彼に斬られた上海を直してあげたいから」
「あの時は悪かった。峰打ちにしておけば良かったか」
「いいのよ。綺麗に切ってあるから、縫うのもそれほど苦労は無さそう」
「じゃあ刀哉は先に風呂に入ってくれ。それから夕飯だ。お昼を食べそこねたからペコペコだぜ」
各々が自由な時間を過ごした。刀哉は熱い湯に入って汗を流し、居間で上海を縫うアリスと、夕飯の支度を始める魔理沙。和やかで、温かく、荒んだ心を鎮めてくれる。
風呂から上がり、三人で食事を楽しんだ。
話題は様々。昼間の刀哉の活躍に始まり、魔理沙とアリスの世間話や他愛の無い冗談が食卓に花を咲かせていく。居心地の良さに溺れてしまいそうだ。だんだんと、元の世界など、どうでも良く思えてしまう。それが怖かった。惰性に流されて行く自分が弱く思えてならなかった。寝床である寝袋に身体を預け、天窓から見える白い月を見上げる刀哉は幾度となく記憶の糸を探す。しかし見つからないのだ。どれだけ深く記憶の海に潜っても、覚えているのは幻想郷に来てからの記憶だけ……。
初めからこの世界で生きていたような気すらしてくる。
あるいは、本当に無から生み出されたのだろうか。
「ぐがー」
魔理沙の小さないびきに思わず頬が緩んだ。
男勝りなところが何とも可愛らしくもあり、頼もしくもある。
「あら、まだ眠っていなかったの?」
上海人形を縫い終えたアリスが、桃色の寝間着を着込んで寝床へやってきた。
月明かりに華奢な四肢が映え、何故か正面から見据えることができなくなった刀哉が頬を掻きつつ視線を反らすと、彼女はさも可笑しそうに笑って隣へ腰を下ろした。
「貴方は不思議な人間ね」
「ここに来て初めて会った妖怪にも、同じ事を言われた」
「ふぅん。知ってる? 今日貴男が採ったキノコの使い道を」
「いや、知らないな」
「あれは自白薬の素材よ。一口飲めば、忘れていた記憶や本音を簡単に吐かせることが出来る。多分、貴男のために作っているのでしょうね。まあ、出来上がるまでには数日かかることだし、当分おあずけだけれど」
「そうだったのか。魔理沙も中々お人好しみたいだな」
「好奇心が強いのよ。人間なのに魔法使いを目指して、直向に努力に努力を重ねていく。魔理沙はそういう性質なの。私もはじめは興味半分で付き合っていたけれど、いつの間にか一番の友人になっていた。人望ね。貴男はどうかしら?」
「俺?」
「妖怪を相手にして、対等に付き合うだけのものがあるかしら?」
「分からんよ。実際に喋ってみないと」
「もし襲われた時は?」
「寄らば斬る。こっちも死にたくはない。が、相手が俺よりは強ければ、まあ、そのときは首をくれてやるさ。食って腹が満たされるのならそれも良し」
「潔いのね」
「でなければやってられないさ。俺は今、幻だ。実体の無い蜃気楼みたいなものだ。この世界そのものが、自分が見ている夢なんじゃないかと思っていた。目が覚めれば、自分の部屋で布団に包まれているのではと信じていた。それも虚しい願いだったが」
やや自嘲めいて言い終わるや否や、不意にアリスが両手を伸ばして刀哉の頬を撫でた。
そのきめ細かい柔肌に心臓が高鳴り、不覚にも顔を赤らめてしまった刀哉をアリスは笑うこともなく、真っ直ぐな目で刀哉を見据える。
「貴方は幻では無いわ。ここに、しっかりと、存在している。此処は幻想郷。どんな存在でも世界は受け入れてくれるわ。もっとシャキッとしなさいよ。いい?」
「……承知しました」
「よろしい。じゃあ、私は眠らせて貰うわ。さすがに疲れたもの」
欠伸混じりに立ち上がったアリスが、魔理沙のベッドに潜り込む。泊まるときはいつもベッドを共有しているのだと言う。もちろん刀哉に異存は無かった。瞼を閉じて深く息を吐き出すと、すぐに深い眠りへと落ちていった……。
夢を見た。
周囲は暗黒に染まり、瞼を開いた眼前に、青白く光る何かが浮いている。
ちょうど刀の刃が太陽の光を反射したときの色によく似ていた。
その光は何をするでも、訴えるでもなく、ただ刀哉の周囲をぐるぐると回っているだけで、刀哉が恐る恐る光に向かって手を延ばすと、光は一層強く輝いて刀哉の胸の中に飛び込んだ――。