揮刀如神 壱
退院を迎えた早朝。
永琳によって包帯が取り払われると、そこには以前と変わりない手があった。傷の跡も殆ど消えている。妖夢と共に永遠亭の玄関先にて輝夜らに礼を申し述べ、ウサギ妖怪たちの計らいによって人里まで一直線に続く竹林の藪道を歩いた。
妖夢は昨日の一件を聞こうとはしなかった。
鈴仙から敵の姿などは知らされていたものの、刀哉が妖怪を倒した後に何故泣いていたのか……幾度も問いただしたいという欲求に駆られ、その度にグッと堪えた。
しかし妖夢は純粋過ぎた。すぐに考えが表情に現れてしまう。
刀哉もそれに気づき、さも可笑しげに笑った。
「大したことは無かった……ただ、敵の気持ちが理解出来たような気がした」
「敵の気持ち、ですか?」
「ああ。あれはとても哀しい奴だったなぁ。何故かは知らないが、布都御魂も泣いていた」
「刀も、泣くのですね……」
「魂が宿っているというからなぁ。妖夢も自分の刀は大切にしてやれよ?」
「無論です! これは私のお師匠様であり、お祖父様が授けてくれたものですから。今は白玉楼を私に任せて旅に出てしまいましたが、とても厳しくて強い御方でした。私なんて、お祖父様に比べればまだまだ……です」
妖夢は淋しげに白楼剣を握りしめた。修行と仕事に追われ、ろくに遊ぶことも甘えることも無かったのだろう。刀哉はおもむろに腕を伸ばし、妖夢の銀色の髪を不器用に撫で回した。
「みょん!? な、何を……」
「いいから黙っていろ。嫌なら振り払え」
妖夢は顔を真赤に染めたまま俯き、ただ刀哉に撫でられる感触に胸の鼓動を昂らせることしか出来なかったが、その口元は幸せそうな笑みを浮かべていた。
「お兄さま……」
「うん? 今何と言った?」
「えぇ!? いや、あの、えっとぉ、あれですよ! こ、これから白玉楼で刀術を教えて貰うわけですし、いつまでも刀哉殿というのも余所余所しいですから、尊敬の意味も込めてですね! つい……お兄様……なぁんて」
「ぷっ! あっはっはっはっは!」
刀哉は大いに笑った。
膝を叩き、腹を抱き、目に涙まで浮かべる程の大笑いに、妖夢も恥ずかしさのあまり刀哉からそっぽを向く。
「ふんっ! いいですよ、どうせ笑われると思っていましたから!」
「いやぁ、はっはっは! すまない、すまない。妖夢がそう呼びたければ呼べばいいさ。じゃあ、今日から俺と妖夢は兄妹分だ。盃は無いから握手で良いな?」
「は、はい……よろしくお願いします。お、お兄様」
「うむ。よろしく頼むぞ。妖夢」
かくして固い握手の下に兄妹分となった刀哉と妖夢。
寄り添い合い、尽きぬ歓談に笑うその背はまさに兄妹のそれであった。
人里に戻って最初に訪れたのは勿論寺子屋。
すぐに慧音と彼女に座学を受けていた子供たちが刀哉の元へ駆け寄る。
五日間も家を空けてしまったことを慧音に詫びると、彼女はそんな詫びの言葉など払いのけて刀哉に言った。
「おかえり、刀哉」
刀哉は暫し呆気に取られ、すぐにはにかみながら応える。
「……ただいま。慧音」
この時、初めて刀哉は戻ってきたのではなく、帰ってきたのだと思えた。
授業を中断して快気祝いでもしようと提案する慧音に刀哉は勉学が第一だと言って丁重に断り、それよりも今は自分の家で休みたいと言って、離の小屋に入った。
囲炉裏に火を起こし、温かな茶を淹れる。
その様子を入口の陰から伺う妖夢は刀哉の家に入ろうとしなかった。
「何をしている? 上がって来いよ」
「え? ああ、はい! お邪魔します!」
座布団に座って茶を飲む妖夢はシュンと顔を落として呟く。
「実は、男性の家に入るのが初めてでして……」
「緊張なんてすることはない。寛いでくれ。といっても、俺もこの家を手に入れてからまだ日が浅いから、何とも妙な感じなのだが」
「その、不躾なことをお聞きするのですが、お兄様にとって慧音さんはどういう人ですか?」
「うん? ああ、難しい質問だな。恩人でもあるし、友人でもあり、強いて言えば、家族に似た何かだと思う」
「さっきのやり取りを見ていて、本当の家族のように私は思えました」
「心の問題だよ。たとえ俺も此方側の人間なのだとしても、結局は外の世界から流れてきた外来人にすぎない。勿論慧音のことは信頼している。だが、家族と気さくに呼べるほどの関係はまだ積み上がっていない。想い人、というわけでもない。おかげでまだ女の抱き方も分からない。情けないことに、な」
「あの……私も一応女なのですが?」
「妖夢とはさっき兄妹になったばかりだろう? 妹分が想い人ってわけにもいかない」
「そう、ですか」
「それに……想い人が欲しいとも思わない」
「え?」
「恋だとか、想い人だとか、そういうものがあると、迷いが増えるだけだ。俺も一端の剣士。いつ命を失うことになるか分からない。その時、悲しむ人間が増えるのは我慢ならない。想い人のことが気になって刃が鈍るのも我慢ならない」
あまりにもサッパリとした刀哉の迷いなき言葉に、湯のみを持つ妖夢の手が微かに震えていた。それに気付いてか、あるいは気付かなかったのか、刀哉は話題を白玉楼に変える。
「それで、どうやって冥界に行けばいい? あの世とこの世の狭間ということだが」
「……」
「妖夢? 妖夢!」
ぼーっと俯いていた妖夢を大声で呼ぶと、彼女はビクッと肩を震わせて我に返った。
「す、すみません! 考え事をしていました!」
「それで、白玉楼へはどうやって行けばいい?」
「はい。白玉楼がある幽界は、この幻想郷の遥か上空にある結界を抜けなければなりません」
「上空か……そういえば幻想郷の住民はほとんどが空を飛ぶことが出来るのだったな」
「もしかして……刀哉さんは、飛べないのですか?」
「当たり前だ。そもそも空を飛ぶ連中を人間と一括りにするでない。さて、どうやって空の彼方へ行けばいいのやら……妖夢に背負って貰うわけにもいかないか」
「ちょっと……無理ですねぇ」
二人して頬杖をつき、茶も飲み干してうんうんと唸っていると、不意に家の戸がノックされた。
「お~い! お邪魔するぜ~」
魔理沙の声だ。一旦考えるのを止めて戸を開けてやると、肩に箒を担いだ霧雨魔理沙が太陽のような笑顔でそこに立っていた。
「よぉ! 久しぶり!」
「宴の夜以来だったな。元気だったか?」
「ああ、勿論だぜ。刀哉も元気そう……あれ? 妖夢じゃないか。ああ、すまん。もしかしてお邪魔だったか?」
「いや、ぜんっぜんお邪魔では無いぞ? 上がってくれ。一緒に茶を飲もう」
「へっへっへ、お茶なんかよりも、もっといいものを飲ませてやるぜぇ?」
魔理沙が懐から取り出した透明な瓶……そこに注がれていたのは、明らかに怪しげな深緑色の液体であった。蓋を開けると灰色の煙が立ち上っている。妖夢はその異様な匂いに耐えかね、すぐに家の外へ飛び出した。
魔理沙も額に冷や汗を浮かべて耐えているようだ。
「悪いな……時間がかかっちまって……お前が採ってくれたキノコから生成した、記憶を語ってくれる薬だ。大丈夫、私が先に飲んだ。おかげでアリスにちょっと怒られちゃったけどな……」
見た目は明らかに毒薬。しかし、魔理沙の空元気を前にして飲まぬわけにはいかなかった。刀哉は無言でそれを受け取ると、一瞬躊躇した後に、一息に瓶の中の自白薬を飲み干す。途端に胃が焼けるように熱くなった。
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が脳を襲い、立っていることも出来ずに床へ座り込む。
刀哉はそのまま意識をドロドロとした混濁の沼に沈め、廃人のように俯いたまま動かなくなった。
薬の効き目が現れたことを確認した魔理沙が、彼に問いかける。
「お前の本当の名前は何だ?」
「……」
彼は応えない。魔理沙は首を傾げて刀哉の顔を覗き込む。目は虚ろで魔理沙の指にも反応していないが、意識は確かにあった。本来ならば失われた記憶でさえ口にするほどの薬だというのに、と、魔理沙はさらなる質問に移る。
「お前は何処から来た? 故郷の名は?」
「……」
これにも彼は応えなかった。
あるいは、応えることが出来ないのではないかと魔理沙は眉間に皺を寄せて腕を組む。
もしも、彼が外の世界から来た人間でないのならば、本当に地から湧き出るように生み出された存在ならば、そもそも目覚めるまでの記憶が無いのも頷ける。だが、果たしてそんなことがあるだろうか? どれほど長命な妖怪とて元々は親の腹や卵から生まれたもの。過去の記憶を積み上げてこそ現在がある。
お手上げとばかりにため息を吐く魔理沙が、ふと刀哉の顔色を伺った時、混濁とした刀哉の目がハッキリと魔理沙を睨みつけた。
「っ!?」
魔理沙は全身に氷よりも冷たい恐怖を駆け巡らせて後退する。
「お前……刀哉、か?」
刀哉は、否、その奥底に眠る魂が首を横に振る。
「誰だよ、お前……刀哉の身体をどうするつもりだ! まさか、刀哉に乗り移った妖怪じゃないだろうな!」
八卦炉を構えて威嚇する魔理沙であったが、青白い光が一閃されると、魔理沙の首筋に研ぎ澄まされた切っ先が触れる。少しでも動けば、その白い肌に赤い血が流れていただろう。
魔理沙は腰を抜かして尻餅をついた。刀哉の身体が青白く輝いている……まるであの刀のように、四肢から淡青の粒子を溢れさせ、神々しいまでの風が魔理沙の頬を撫で上げた。
「汝……我ニ問ウ無カレ」
直感で魔理沙は悟る。彼は決して人間などではない。
ましてや妖怪などであるはずがない。
ひょっとすると自分はトンデモナイ奴に出会ってしまったのではないかと、魔理沙は全身に鳥肌を立てて、刀哉が放つ輝きが徐々に消え失せていく様を見守るよりほかに無かった。やがて刀哉の瞳に自我が戻り、激しい頭痛に唸りながら頭を押さえる彼は、怯える魔理沙に向かって唇を開く。
薬の効き目が切れるには、あまりにも短かった。
「いたたた……どうだ、魔理沙? 何か分かったか?」
魔理沙は無言で首を激しく横に振るばかりで、まるで言葉を忘れてしまったかのように口を閉ざしたままだった。刀哉は頭痛に加えて堪え難い吐き気を催し、一目散に厠へ飛び込む。胃の中のものを全て吐き出し、居間に戻った刀哉は残念と言わんばかりに溜息を吐いて座り込んだ。
「はぁ……そう、上手くいかんものだなぁ。だが記憶が戻る方法が他にもある」
「え?」
「八雲紫に教えられた。白玉楼に行けば、自分を取り戻せるかもしれないと。魔理沙、一つ頼みがある。俺を、白玉楼まで送ってはくれないか? その箒で」
「白玉楼って……幽界の?」
「ああ。どういう結末になるのかは、俺にも分からないがな」
「……私が思うに、多分、トンデモナイことになると思うぜ? もしかすると、お前、刀哉じゃなくなっちまうかもしれない……」
「魔理沙……何か、見たんだな?」
彼女は頷く。だが、決して何を見たのか語ろうとはしなかった。
刀哉も敢えて聞こうとは思わなかった。魔理沙は確かに刀哉の奥底に眠る一片を垣間見たが、結局のところ、何一つ理解出来なかったのだから。
間もなく妖夢も外から戻ってきた。
その重苦しい空気から何かを察したのか、彼女もまた唇を固く結んで囲炉裏の側に腰を下ろす。囲炉裏の中で弾ける薪が燻ってきた頃、魔理沙が膝を叩いて立ち上がった。
「白玉楼に行けば、何か掴めるのだろう? 分かったよ。私が連れて行ってやる。こうなったら乗りかかった船だぜ。刀哉を森で助けちまった縁もあるからな。最後まで付き合ってやる」
「すまない」
「ただし……無事に帰ったら、美味い飯を奢って貰うからな?」
「……酒もつけるよ。何時だかの大吟醸をな」
妖夢を先頭に、箒に跨った魔理沙と刀哉が白い雲を目指して上昇していく。
背後を省みると今まで立っていた寺子屋の地面がどんどん小さくなり、顔を冷たい風が乱暴に掻き撫で、吹き飛ばされぬようにしっかりと箒を掴んだ。
やがて雲海も突き抜けて真っ青な晴天の彼方へ達すると、刀哉は頭上に広がる光景を見て我が目を疑った。空に孔が開いている……黒く、全てを飲み込んでしまうかのような、不気味で冷たい暗黒の門が渦を巻き、刀哉たちを飲み込もうとしているようだった。
「あれが幽界への入り口です!」
「よっしゃぁ! 突っ込むぜ!」
漆黒の孔へ突入した三人。激しい雷鳴が轟き、背筋が凍りつくように冷たい霧の中を突き進んだ先に待ち構えていたのは、不気味な静寂に包まれた果てしない階段と、死者の魂を導くかのように小さく灯った無数の灯籠だった……。