月の名医と蓬莱の姫 質
入院して二日目……否、眠っていた分を含めると五日目。
刀哉は妖夢と隣り合って朝の食卓に着いていた。
永遠亭の主である輝夜の提案で、今朝は全員揃って食事を取ることとなった。永琳の薬が余程の効き目だったのか、包帯が巻かれた刀哉の右手は既に箸を扱えるまでに回復し、妖夢もぎこちなく料理に箸を伸ばしている。
普段は白玉楼で給仕に専念している故に、こうして誰かに作って貰った料理を食べることに慣れていないのだと彼女は言う。食事を続けていると、何やら永遠亭を囲む外壁から妙な視線を感じた。覚えのある気配だ。恐らくは妹紅が様子を見に来てくれたのだろう。
輝夜も袖で口元を隠しつつクスクスと笑う。
「ふふふ、愉快な娘よねぇ。妾が気づかないとでも思っていたのかしら」
「今日は喧嘩を仕掛けて来ませんね?」
チラチラと外壁を伺う鈴仙を輝夜が諭す。
「当然よ。憎しみ合い、殺し合うにしてもルールというものがあるでしょう。特に今朝は怪我人を交えての朝食。ここで乱入してくるほど、あの子は無粋じゃないわ」
「浅からぬ因縁があるようだな?」
「まぁね。その昔、あの子の父親が私に求婚してきたのよ。で、蓬莱の玉の枝を持って来いと言ったら、色々あってね。結局彼女の父に恥をかかせてしまい、あの子は私が竹取の翁と、時の帝に渡した蓬莱の薬を盗んで飲んでしまった。おかげで互いに不老不死になったから、何時まで経っても決着がつかないわけよ。もはや日々の運動みたいなものね」
平然と汁物を啜る輝夜に言葉が出ない。永遠に決着がつかない宿敵がいるというのは難儀だが、何故か羨ましくも思えた。生きる目的を永遠に失わないのだから。
自分を知る人間が永遠に居てくれるというのは、ある意味で、幸せなことかもしれない。
などと考えながら食事を続けていると、永琳が思い出したように言った。
「ああ、そうそう。昨夜は二人共お風呂に入れなかったでしょう? 朝風呂を沸かしておいたから、良ければ入りなさいな」
「風呂といっても包帯を取らなければ入れないけど」
「ああ、それはもう取っても大丈夫。傷口にばい菌が入らないように巻いただけ。もう粗方塞がっているはずよ?」
まさかと思って右手に巻かれた包帯を解いていくと、確かに多少の跡が残っているものの、既に新しい皮膚によって傷口が塞がれていた。たった一日で穿たれた穴を塞ぐとは恐れいった。名医と讃えられるわけだと感嘆の吐息を漏らし、食事を終えた刀哉は妖夢との相談の結果、先に風呂に入ることにした。
守矢神社での一件があるので、脱衣所の扉に『背中流しお断り』と書かれた紙を貼り付けておいた。まさか永遠亭にそんなお節介がいるとは思えないが、念には念を入れ、寝汗で汚れた寝間着を籠に入れて戸を開ける。
そこは露天風呂だった。四方を竹林で囲まれ、広い石造りの浴槽の中央にウサギの置物が鎮座している。一人で入るには些か広すぎるが、あれだけのウサギ妖怪たちが一斉に入ることを考えればこの広さは妥当ではないかと考えを改め、朝の爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込みながら肩まで湯に浸かる。
昨夜から鼓動が高鳴って仕方がない。
八雲紫の言葉だ。白玉楼に行けば己の正体が分かるかもしれない……しかし、彼女が残した一言も頭に強く残っていた。果たして己が何者であるか知った時、今の自分を保つことが出来るのだろうか?
もしも、妖怪たちの言うように辻斬りであったならば?
外の世界で人を切り過ぎて、人々から忘れ去られた存在だとしたら?
鈴仙の目に狂わされて多くの命を奪った姿こそが、己の本性なのだとしたら?
考えれば考えるほどに自分自身が恐ろしくなる。
そもそも、自分に宿っているという魂とは何か?
あの布都御魂は如何にして手に入れたのか?
否々、この世界に流れ着いた意味とは? 一体幻想郷は何を求めて己を此処へ導いたのか?
全てが謎であり、全てに答えが見いだせず、まるで底なし沼に嵌り込んでしまったかのような不安が刀哉を支配した。熱い湯で顔を洗い、思念を振り払う。
少なくとも白玉楼に行けば何かしら掴めるのだ。
それだけでも十分ではないか。
このやり取りを一体何度繰り返せば気が済むのだろう。
明らかに、心が弱い。まだまだ未熟者だ。いっそのこと鞍馬天狗の言うように、彼のもとで修行をした方が良いのかもしれない。剣術も勿論だが精神を鍛え直したい。
刀哉が息を吸い込んで湯に潜った。
迷いなど全て流れてしまえ。心の垢だ。あの神刀の刃のように、透き通るように清らかな精神でなければどうする。刀にも申し訳が無いではないか。神のみが扱えるほどの業物が、一介の人間である俺を選んでくれたのだ。それに応えずしてどうする。
他の刀たちと同じように……外の世界のように、ただの置物となった刀たちと同じ無念だけは抱かせるものか。
断じて抱かせはしない。
「ぷはっ!」
湯に沈めていた頭を出し、深く酸素を吸い込む。
不意に霊夢の言葉が頭を過ぎった。
あんたの生き方は窮屈よ。もっと楽に生きたら? 嫌なことを放り出しても、誰も文句を言ったりしない。
「悪いな霊夢……俺はやはり、そういう生き方は真っ平御免だ」
刀哉は自分に言い聞かせるように呟き、風呂から上がった。
脱衣所で籠の中を確認してみると、返り血で汚れていた道着と陣羽織が綺麗に畳まれている。一体いつの間に置かれていたのだろうか。袴の黒帯を締めると背筋がピンと伸び、風呂から上がったことを妖夢に報せようと彼女の部屋へ向かう途中、中庭の日本庭園で楼観剣を素振りする彼女の姿が目に映った。
真珠のように美しい汗を流し、一心不乱に刃を振るその凛々しき姿に吐息が漏れる。
「ほう、只ならぬ気迫を感じて来てみれば、真面目なことねぇ。剣士というのは皆ああいう人間ばかりなの?」
単衣を滑らせながら現れた輝夜が刀哉に尋ねる。
「……刀は己を映す鏡だ。肉体も、精神も、全てが刃に表れる」
「そう……妾には分からない領域だわ。永琳が探していた。傷口に薬を塗るそうよ」
「承知した。ところで、輝夜。一つ聞いておきたい」
「何?」
「何故、月へ帰らなかった? 確か竹取物語では――」
刀哉が全てを言い終わらぬうちに、輝夜の人差し指が刀哉の唇を押さえて言の葉を遮った。
「幻想はあくまでも幻想よ? それに、妾は神秘への畏怖や自然への敬意を忘れた月の都に辟易していた。御覧なさい。この竹林も、山も、川も、全てが妾たちと同じように呼吸し、生きている。それを支配しようとする傲慢が妾は許せない。月の都は全てが退屈だった。鉄と機械に囲まれた牢獄のようだった。だからこそ、妾は禁忌を犯してまで地上へ降りた。蓬莱の薬という禁忌を飲み、不老不死の穢れを魂に刻んで。そして竹取の翁と出会い、この地上の美しさを知った。妾は、月から妾を捕らえに来た者どもから逃れた。月の使者であった永琳と共に他の月人を殺め、この幻想郷へ逃れた。勿論後悔など微塵もない。この地上の一員として生きるだけで、禁忌を犯しただけの価値があるというもの。さて、昔話はここまで。早く診察室に行きなさい。永琳を怒らせる怖いから」
刀哉の背中をポンと叩いた輝夜は、そのまま自分の部屋へ引きこもる。
問うてはならないことを聞いたかと悔やむ刀哉であったが、一先ず永琳の診察室へ赴くこととした。
扉を叩いて名前を告げ、入室の許可が下ると中へ入る。
永琳は普段来ている赤と青の衣の上に白衣を纏い、刀哉の傷口に軟膏を塗りつけていく。
母親のように優しく温かな手が傷口を撫でる様を見て、本当にこの手が自らの同胞を殺めたのかと要らぬ感傷に浸ってしまった。永琳は何も語らない。今の彼女は患者の傷を治療する一人の医者。故に、刀哉も一人の患者として彼女に身を任せることとした。
「はい、おしまい。一応包帯を巻いておくけれど、もう剣を握っても支障は無いわ」
「ありがとう。永琳が俺を止めてくれなければ、どうなっていたか」
「過ぎたことはあまり気にしないほうが良いわ。自分の過去を求めるのは自由だけれど、あまり執着し過ぎると未来を失うわよ? それと、これを返しておくわ」
永琳は戸棚を開けて、桐箱に納められた布都御魂を取り出し、刀哉へ差し出した。
「鞘に納まっている内は妖夢に近づいても影響が無いはず。本音を言うとね、少しだけあなたのことを疑っていたの。なにせ、ああいう出会い方をしてしまうとね、つい警戒してしまって。私は姫様を守る使命がある。いいえ、義務と言ったほうが正しいかな。だから善悪の判断がつくまで、これをあなたから取り上げた。ごめんなさいね」
「いや、それが正常な判断だと思う。輝夜は此処が命を救う場所だから、命を奪う武器を預かったと言っていた。その通りだと思う。同じ刃物でも、刀とメスは違うのだから」
「そう言ってくれて嬉しいわ。出来れば私も、もう命を奪いたく無いの。二人共、退院は明日の朝ね。それまでゆっくりしていって」
診察室を後にした刀哉は、再び中庭に戻り、鍛錬に励む妖夢に近づく。
そういえば風呂から出たことを伝えるのをすっかり忘れていた。
己の迂闊さに苦笑しつつ、妖夢にそれを告げる。
「ああ、驚きました。刀哉殿はどれだけ長風呂がお好きなのかと」
「ははは。茹で上がってしまうだろうなぁ。それで、今は何の鍛錬を?」
「居合です。刀哉殿の疾さが忘れられなくて……っと、それよりお風呂でしたね! 失礼します!」
楼観剣を納刀して足早に中庭を去る妖夢の小さな背中……それを見送る刀哉は、妙に彼女のことを可愛らしく思ってしまい、指先で頬を掻く。
この妙な近親感は何だというのか。
剣士としての仲間意識であろう。鞍馬との競い合いでもそうだったが、一介の剣客として敵と刃を交わすことほど嬉しいことはない。共に修練に励む同志がいるのならば尚更といえよう。妖夢の残り香が漂う中庭に立ち尽くした彼は、静かに布都御魂を鞘から引き抜く。乾いた音と共に現れた、一点の曇も脂も無い淡青の刀身。
もはや身体の一部だった。刀哉は正眼に構え、力強く刃を振るい、心に巣食った迷いを斬り捨てていく。
「お~い! 刀哉ぁ!」
不意に廊下の方からてゐの声が聞こえ、手招きをする彼女に応えて駆け寄る。
「どうした?」
「これから鈴仙と薬草を摘みに行くウサ。刀哉にも手伝って欲しいから、一緒に来てくれないか?」
「分かった。すぐに行く」
薬草を入れる籠を背負い、鈴仙とてゐに先導を任せて竹林の中を歩くと、涼しい風が頬を撫でる度に笹が擦れ、耳に心地よい音が辺りに響き渡る。
時に妖怪の気配もちらほらと感じたが、此方を襲うような殺気は無かった。
せっせと薬草を摘み取っていく鈴仙たちに混じって刀哉も手を動かし、ついでに筍も何本か収穫していると……奇妙な気配が近づいていることに気づいた。
てゐもハッと顔を上げ、普段は垂れている両耳を立たせて辺りの様子を伺っている。
唯一気づいていない鈴仙だけが黙々と作業を続けていた。
今まで感じていた妖怪の気配とはまるで違う何かだ。
無意識に右手が刀の柄を撫でていた。
「ふぅ……これだけあれば師匠にも喜んで――」
「鈴仙! 上だ!」
叫ぶ刀哉の言葉を聞いた鈴仙がふと頭上を伺うと、鈍い銀色の煌めきが彼女の脳天目掛けて振り下ろされた。
「うわぁ!」
咄嗟に腰を抜かしてその一撃を躱した鈴仙が慌てて刀哉の背後に隠れ、突然の襲撃者の姿を見て生唾を飲み込む。否、彼女だけはない。刀哉もてゐも、その生き物とは到底思えない姿に目を丸くした。ぎこちなく関節を軋ませ、手にした刀の切っ先を三人に向けているのは、赤錆びた日ノ本の鎧兜だった。
「竹林の妖怪か?」
念の為にてゐに聞いたが、彼女は大きく頭を振って否定する。
「知らない……あんな妖怪なんて知らない!」
「下がっていろ。話し合いが通じるとは思えんからな」
事実、その通りだった。刀哉が一歩鎧武者に踏み出すと、それは刀を両手で構え、刀哉に向けて踏み込んでくる。胴を狙った一撃を鞘から半分だけ刃を引きぬいて防ぎ、上方に弾き飛ばして正眼に構える。
「二人共永遠亭に戻れ。コヤツ一人とは限らない」
「でも刀哉さんは!?」
「俺は……こいつを斬る!」
直感が告げていた。これは敵なのだと。何にも優先して斬るべき相手なのだと。
正眼から脇に構え直して地面を蹴る。交差する刃……手首が鈍く衝撃を受け、火花が散った。
鍔迫り合いに持ち込んだ時、刀哉の耳に身の毛もよだつ声が聞こえる。
怨嗟の唸り声だ。憎悪の嗚咽だ。鎧武者の奥底から響くその音に、刀哉は激しい恐怖を覚えた。こいつは怨霊だ。見境なく人を斬り殺そうとする、恨みに満ちた悪霊だ。
刀哉は相手の刃を受け流し、敵の峰に刃を走らせてその兜首を刎ねた。
肉と骨を断つ感触が無い……。
兜が地面に落ち、再び真っ向から対峙した刀哉は開いた口を塞ぐことが出来なかった。
何故なら敵に中身は無かったのだから。文字通り、鎧兜だけが刀を持って動いていた。
そして首を刎ねられておきながら、鎧は再び刀を構えて立ち向かってくる。
一体何なのだ。敵の攻撃を受ける度にその刃の重さが全身に、否、魂にまで響き渡ってくる。刀哉はギリッと奥歯を噛み締め、敵の猛攻を防ぎ、躱していく。
「ちぃ! いい加減にしろ!」
淡青の刃が月輪を描き、ついに敵の両腕を切断した。
手甲に握られた敵の刃が地面に突き刺さり、失われた両手を確認するかのような素振りを見せる敵の胴を豪快に斬り伏せる。中身が無いので鮮血が溢れ出ることは無かったが、鎧はその場に力なく座り込んで、刀哉に軋む腕を伸ばす。
今度は敵対の意思ではなく、何かを求めるように腕を伸ばしていた。
まるで子が親の手を求めるかのように、まるで苦しみからの救いを求めるかのように、怨嗟に満ちた悪霊が刀哉に必死で手を伸ばしていた。
気づけば、無量の涙が刀哉の頬を濡らしていた。
この胸が締め付けられるような思いは何故だろうか。
刀哉が敵の腕を優しく掴むと、布都御魂の刃が青白く輝き始めた。
ハッと刎ね飛ばした兜首を見ると、その目に当たる穴から真珠のような涙を流しているではないか。刀哉は兜と刀を拾い上げ、鎧の側に置いた。
すると鎧は自らの胸を腕で叩き始める。
その意図を察した刀哉が青白く輝く布都御魂をゆっくりと敵の胸に刺し込み、貫くと、鎧が蒼い光に包まれ、徐々に光の粒子となって天へ昇り始めた。
鎧も、刀哉も、目から溢れ出る涙を止めることが出来ない。
この光の粒子も、あるいは布都御魂が流す涙であったのだろうか。
「アァ…………フ……シ……サマ……」
掠れ、虫のように小さな最期の声を鳴らせた鎧兜は、その刀と共に光となって消滅した。
刀哉は全身から力が抜け、膝を地につけてむせび泣く。何故こんなにも悲しいのだろうか。何故こんなにも哀しいのだろうか。胸の奥から、その魂から、途方も無い嘆きが全身を駆け巡るのだ。
鈴仙たちから話を聞きつけた妖夢が駆けつけ、彼が額を伏して泣く姿を見た時、彼女は声をかけることを躊躇した。あれほど気丈に振舞っている彼に何が起きたのか理解出来なかった。
ただ一つだけハッキリしていたのは、彼が勝ったということだけだった……。