月の名医と蓬莱の姫 弐
妖怪の山を下山した刀哉と慧音は、注文していた道場の看板と、藤原妹紅が拵えた竹製の防具を受け取り、いよいよ稽古を始めようとしていた。寺子屋の門に看板を掲げ、午前中は慧音が座学で文字の読み書きや算盤による計算を教えこむ。
せっかくなので刀哉も子供らと席を並べた。
筆を取り、黒板に書かれた文字や漢詩を模写していく。
一つ一つの言の葉を改めて学んでみると、なんとも奇妙な形だと妙におかしな気持ちになった。名前こそ記憶から失われたが、口から溢れる言葉や文字の記憶が残っていたのは誠に有難い。あるいは、言葉や文字は体や命が覚え、魂に刻まれていくものではなかろうか。
などと小難しいことを考えながら漢詩を清書した刀哉の字を、子供らは感心の眼差しで見つめている。流麗でいて、力強い字体だった。試しに鉛筆という文具も使ってみたものの、やはり小筆に墨を浸すほうが性に合っている。
慧音も提出された刀哉の清書に唇を尖らせていた。
ただ、算盤での計算だけは他の子供らよりも劣っていた。
簡単な加減乗除はこなせるものの、桁が増えたり計算式が入り混じったりしたものは時間が掛かった。
「ふふふ、刀哉は商人には向いていないようだな?」
「お兄ちゃんって字は上手なのに算数は下手だね!」
「そこの答えも違ってるよ? 僕のノート見せてあげる!」
刀哉は参ったと言わんばかりに自分の髪を撫でた。
座学の授業では他の子供たちと何ら変わらない生徒っぷりを発揮している。
だが、午後からの道場は全く別のお話である。
妹紅が作り上げた竹細工の防具と竹刀を装備し、寺子屋の庭に整列した少年少女たちの前で仁王立ちする刀哉は、寺子屋の縁側で授業を見守る慧音と、遊びに来た妹紅の視線を気にしつつ、鍛錬を開始する。
「皆、もうわかっているとは思うが、人里の外は危ない妖怪たちで一杯だ。掟があるといっても、何時皆や皆の両親が襲われるか分からない。そこで、自分の身を守り、家族を守る方法を教えていこうと思う。まずは皆の体力作りから始める。俺に続いて人里の周りを走ってみよう。かかれ!」
「はい!」
二十人ばかりの子供らを引き連れて里の中を走る姿を、里人たちは多少の不安と大いなる期待感を以って見守っていた。流石に遊び盛りの子供らの体力は凄まじいものがあり、里を十周しても疲れた素振りを見せない。少し、速度を上げてみた。
それにも彼ら、彼女らは懸命に追いかけてくる。
中には体力が尽きて落伍していく子供もいたが、そこは余裕のある子供らが手を差し伸べて助け合っている。美しい姿だ。子供でも高潔な心を持っている。
心が純真無垢なうちに規律正しい武の道を教えこめば、自ずとそれなりの人物になるはずというのが刀哉の考えだった。
小手調べの外周を終え、寺子屋に戻ると、子供たちはまるで遠足から帰ってきたように騒いで地面に腰を下ろす。
「おい、まだ休んでいいとは言っていないぞ? これから素振りだ!」
「え~!?」
「これは遊びではないんだ! ほら、立った、立った」
竹刀で子供らの尻を軽く叩いて立ち上がらせた刀哉は、刀の構え方と振り下ろす際の細かい動作を実際にやってみせ、生徒たちにもさせてみせ、文句を言いながらも真面目に取り組む子供は目一杯褒めた。すると我も褒められたいと対抗心を燃やす生徒が増え、気づけば全員が威勢のいい掛け声と共に竹刀を振っている。
その様子を眺めていた妹紅は、慧音手製のきなこ餅を頬張りながら鼻を鳴らす。
「ふ~ん……何だかんだで、ちゃんと師範をやっているじゃない」
「私は見込みがあると思っていたぞ? 刀哉は呆れ返るくらいに生真面目だからな」
「天狗に謝罪させるくらいだものね。恐れいったわ。でも、あの流派名はどうにかならないの? 無銘一刀流って……」
「色々考えた末に決めた名前だ。ある意味、方便のようなものさ。あくまでも体育の一環としてやっているのだから」
「……道場破りが来なければいいけれど。天狗の里に乗り込み、生きて帰った。それだけで暇が潰せそうじゃない。あの連中からすれば」
「しかし、どうも裏では八雲紫が動いているらしい。天魔のところにも現れていた。おそらく、他の大妖怪にも何かしら接触しているのだろう。そうそう争い事を始めることは無いと思うのだが」
「そうね……あくまでも、名うての妖怪には、ね。けれど一人分からないのがいるじゃないの。こと剣の修業に関してはあいつに負けないくらい馬鹿正直なのが」
「ああ、そういえばいたな……白玉楼の庭師、のことだろう?」
「ええ。そのうち乗り込んで来そうじゃない? もしかしたら、もうこっちに向かっているかもしれない。結構人里に買い物に来ているもの」
噂をすれば影……とは古人が残した名言の一つである。
死者の魂が集う幽界の屋敷、白玉楼の庭師と主人の剣術指南役を務めている半人半霊、魂魄妖夢は、寺子屋に掲げられた看板を見るやいなや、腕に掛けていた買い物カゴを地に落とした。
こと幻想郷から離れた白玉楼は人里ほど情報が伝わりにくく、今はじめて人里に道場があることを知った妖夢は、思わず握りこぶしを固めた。傍らに浮かぶ真っ白な妖夢の半霊も、半身の滾りに合わせて激しく旋回している。
居ても立ってもいられないとはこのことか。妖夢は背に縛り付けた二振りの刀を携え、緊張に鍔を飲み、瞳に己の腕前に対する絶対の自信を浮かべて門を叩いた。
「たのもぅ!」
その時、刀哉たちはようやく子供たちに休憩を与え、全員揃って縁側で慧音の餅を味わっていた。突然の来訪者に危うく餅が喉に詰まりそうになり、冷めた緑茶で流し込む。
妖夢の姿を見た慧音と妹紅はため息を吐いた。
もう来たのか、と……。
しかし彼女のことを知るよしも無い刀哉は、気さくに声をかける。
「何か用か?」
「こちらは無銘一刀流の道場で相違ありませんか!?」
「いかにも」
「私は白玉楼にて、庭師兼剣術指南役を務めております、魂魄妖夢と申します! 師範殿でいらっしゃいますか?」
剣術指南役という言葉に刀哉の眉が動いた。粗方の事情は察したものの、牽制のためにわざと冷静に応える。本当はニタリと笑いたい程に挑戦者が現れたことが嬉しいのだが、まさか道場を始めた記念日に道場破りが来るとは思わなかった。
「一応、な。名は刀哉という。ところで餅でもどうだ? 今は休憩中なんだ」
「みょん!? は、はい……」
刀哉の牽制が効いたのか、あるいは妖夢が生真面目過ぎたのか、いずれにしても子供らに混じって妖夢も餅を食べることになった。見れば短い髪は銀色で黒いリボンを結い、体は華奢であるが携えている刀は非常に長い。
長刀と小太刀による二刀が流派なのかと分析する刀哉の隣では、慧音と妹紅が事の成り行きを黙って見守っていた。このまま何事も無く終わるとは思えない。
子供たちも空気の色が変わったことに気づいたようで、段々と笑顔が消えた。
「で、何の用だったかな?」
「ハッ! そうでした! 刀哉殿、是非私とお手合わせを!」
「竹刀か? 真剣か?」
「言うまでもなく……」
妖夢は大きく跳躍して間合いを開け、長刀の柄に手を掛けた。
刀哉は帯に布都御魂を差し込んで縁側から立ち上がる。
「此処では駄目だ。里の掟がある故、無闇に剣は抜けない。外へ出よう」
里の西側、広大な田園が広がる中、刀哉と妖夢は対峙する。
既に刀の柄に手を掛けている妖夢に対し、刀哉はぶらりと両腕を垂らして直立していた。
「ところで始める前に言っておくことがあるのだけど」
「何でしょう? 挨拶ならば先ほど済ませましたが?」
「もう間合いに入っている――」
「っ!?」
ゆらりと左右に振れた刀哉が地を蹴ると、一瞬にして妖夢の眼前に青白い閃光が迫る。
受け止めるは妖怪が鍛えし長刀楼観剣。そして刀哉の脇腹目掛けて振るう小太刀は、魂魄家に代々伝わりし白楼剣。
楼観剣を受け流し、白楼剣を受け止めた刀哉はぞくぞくと武者震いをしていることに気づく。
鞍馬天狗の時のような緊張感ではなく、むしろ遊戯をしているような楽しさだ。
妖夢に鞍馬ほどの迫力が無いことも理由の一つ。
無論掲げたばかりの看板を取られるわけにもいかないので、手抜きをするつもりは毛頭ない。