妖怪の山 陸
「はぁっくしょん!」
穏やかな朝の食卓に、にとりの盛大なくしゃみが炸裂した。
ちり紙で鼻水を拭くにとりの鼻頭が赤く染まり、食欲もあまりない様子だ。
「うう……頭痛いよぉ……」
「まあ、大変! にとりさんが風邪を引いてしまいました」
「そりゃ居間でヘソ出して寝ていたら風邪も引くだろうさ」
心配して薬を取りに行く早苗と、面白げに笑う神奈子は対照的であった。
刀哉は飯の上に摩り下ろしたとろろ芋を乗せながら微笑ましく見守っている。
朝起きて早苗と廊下で出くわした時、一体どんな顔をして挨拶をすればいいのか迷っていた刀哉に、早苗は昨日と変わらぬ笑顔で、おはようございますと言ってくれた。
随分と恥ずかしい思いをしたろうに、それを決して顔に出さないように努めている早苗に応えるため、刀哉も笑顔で挨拶を返した。
今朝の食卓に並べられた食事も、天狗の里へ乗り込む刀哉の勝ち戦を祈願した縁起物ばかりだ。粘り強いとろろ芋、勝栗、昆布巻き、そして、刀哉の未来と過去を見通せるようにと願いながら煮込んだ蓮根……決しておろそかには食わなかった。
諏訪子も朝餉の意味を察したのか、くすくすと笑っている。
「早苗は良いお嫁さんになるだろうねぇ。鼻が高いよぉ」
「そ、そんな、お嫁さんだなんて……ところで諏訪子様? お残しは許しませんからね?」
「うぅ……誤魔化しきれなかったかぁ」
諏訪子は涙ながらに苦手な昆布巻きを頬張った。
しかし諏訪子の言うとおり、機転が利いているあたりが良妻の兆しを垣間見せている。
優しいだけでなく厳しい面もあるならば、将来結ばれる運命にある殿方は幸運と言わざるを得ないだろう。そんな穏やかな空気の所為だろうか。これから天狗の棟梁と面会するというのに、まるで緊張を感じない。
「早苗さん、お代わりを頼める?」
「あ、はい! 大盛りにしちゃいますね? それと、早苗さんというのは余所余所しいので、どうぞ早苗と呼んで下さい。さ、どうぞ召し上がれ」
「ありがとう。ふむ……なぜだろうなぁ? 慧音や神奈子は普通に名前で呼べるのだが、どうも、早苗さ……早苗の場合は慣れない」
「そりゃぁ、人間の種類が違うからだろう。私や諏訪子、それに上白沢慧音は自分も他人も名で呼び捨てるが、早苗は違う。人付き合いなどそういうものだろう」
「え! そうなんですか!? それだと、何だか私だけ置いて行かれているような気がしてきました……」
「早苗はそのままで良いんだよ? だってその方が可愛いもん!」
「もう、諏訪子様ったらぁ!」
食卓に屈託のない笑いが響く。何と温かな空気だろうか。これほど強い家族という繋がりは、そう多くは無いだろう。果たして己は両親に孝行していたのだろうか。
今頃母はどうしているのだろう。父は、壮健だろうか。
感慨深くなる思考を、刀哉は両手で頬を叩いて打ち消した。
全ては絵空事だ。これから天狗の里に乗り込もうとしているというのに、家族のことを想っている場合ではない。
刀哉は茶碗を掴んで飯をかきこみ、味噌汁で流し込んだ。
「あ、刀哉さん! ちゃんと噛まないと胃に悪いですよ?」
「……すみません」
朝食を終え、支度を整えて神社の鳥居前に集合する。旅の共は神奈子と諏訪子。
にとりは神社で療養することになり、早苗と一緒に刀哉たちを見送った。
出発の前、刀哉は早苗から安全祈願の符が込められたお守り袋を受け取っていた。
今は首に掛けており、神奈子たちと山の中をヒタ歩く。神奈子や諏訪子もその気になれば天を舞うこともできるが、刀哉を一人残して飛ぶわけにもいかず、本人たちも地を歩く方が好きと言う。そもそも大地から生まれた者は大地を歩かねばならない。
でなければ大地の恩恵を忘れてしまうからだ、と神奈子は刀哉に説いていた。
間もなく天狗の領域へ踏み入ると、木々の間を白い影が駆け抜け、刀哉たちの前に着地して一礼する。
白狼天狗の犬走椛だ。
「昨日はお世話になりました。天魔様のご命令により、皆様をご案内致します」
「役目大儀である」
既に神奈子は神としての威厳を前面に押し出している。妖怪の山を二分する者同士、下手に出れば何を言われるか分かったものではない。諏訪子も普段のような明るさとは程遠い、物静かで不気味な空気を纏っている。刀哉も負けじと胸を張った。
これから天魔と会い、懇談するのはあくまでも自分なのだから。
天狗の里は人里のような町ではなく、どちらかと言えば妖怪の山に築いた山城と言って差し支えなかった。土壁の城壁に材木の柱、そして瓦屋根に無数のカラスたちが列を成しており、多くの白狼天狗や烏天狗が物珍しそうに数百年ぶりに訪れる来客を凝視している。
椛の案内によって正門をくぐり、天狗たちの居住区を通り抜けて城内に入ると、見覚えのある顔が待ち構えていた。
「カッカッカ! 来おったな、小僧。待ちわびておったぞ! 山の二柱殿もよくぞお出で下された。拙僧が主に代わって歓迎申し上げる」
「鞍馬天狗殿!」
昨夜神社にて刀哉と剣舞を競い合った鞍馬天狗は、終始頭を下げていた椛の頭をぽんと平手で叩く。
「ご苦労じゃったのぅ。お主はここまでで良い。天魔様へは拙僧が案内する」
「ははっ! では、私はこれにて」
椛が下がり、代わりに鞍馬天狗が先導を務めた。かなりの古参の天狗らしく、城内に控える天狗たちが全員道を譲っているではないか。無論山の神が同行していることもあるが、どちらかと言えば鞍馬に一礼している時が多い。
すると諏訪子が刀哉の袖を引き、耳打ちをする。
「鞍馬天狗はね、この天狗の里で二番目に偉い奴なの。天魔の下に八大天狗という側近がいて、その筆頭ってわけ」
「どうしてそんなお偉いさんが使者を?」
「知らないよ。天狗の考えることなんて」
閉鎖的な社会だけあって、山の神といえどその真意は掴めないらしい。
やがて三人は城の天守閣へ連れて来られた。黄金の扉が開かれると、畳が敷かれた広い金箔だらけの部屋に射命丸と慧音が座っており、その上座に巨大な天狗がどっかりと座っている。
立ち上がれば守矢神社の屋根まで届く程に大きな天狗の前まで移動した刀哉たちを、鞍馬天狗が平伏して天魔に告げる。
「鞍馬天狗が我が主、天魔様に謹んで申し上げる! 件の辻斬り小僧、及び守矢神社の二柱をお連れ申し上げ奉りまする」
「役目、大儀である……鞍馬よ、そちも同席せよ。お客人方は、どうぞ楽にされよ」
「久方ぶりだな、天魔。変わりはないか?」
「おお、八坂殿かぁ。そちも健在のようで安心したわい。約定を結んで以来、言葉を交わしたことが無かったからのぅ。して、そこな人間の小童が件の辻斬りとやらか?」
「お初に御目に掛かる。名を刀哉と申す」
「天狗どもの長……天魔である。此度のことは聞いておるぞ。まずは着座せい」
幻想郷でも指折りの勢力を誇る天狗たちの棟梁は、他の天狗同様に真っ赤な顔をして鼻が高いが、服装は修験者ではなく、どちらかといえば公家が着るような雅な黒い着物を纏っていた。天魔から見て、刀哉ら四人が左手に座り、射命丸と鞍馬天狗が右側に座る。
「慧音、なぜ此処に?」
「こちらの台詞だ。そのうち帰ってくるものかと思えば、今朝になって寺子屋に天狗が迎えにきたのだ。まったく、お前ときたら……」
ひそひそと耳打ちをする二人の会話を、天魔の咳払いが差止める。
「さて……まずは事実確認からしていこうかのぅ。射命丸よ」
「はい……天魔様」
あの射命丸文が裏表なく畏怖し、平服している姿はそうそう拝めるものではない。
慧音も諏訪子も目を丸くして事の次第を伺っていた。
「其方、刀哉の言葉を改竄して記事にするに留まらず、上白沢慧音までも辱めた旨、相違無いか?」
「……はい。間違いありません」
「お主も懲りぬ奴じゃのう」
「鞍馬様、天魔様の御前です」
茶化す鞍馬を射命丸は正論で捻じ伏せる。