妖怪の山 伍
今回は霊夢の時ほど落胆はしなかった。神奈子の言葉の一語一句を噛み締め、愛する女を抱くように刀へ手を回す。一体何が己を突き動かし、自分でも理解出来ぬほどの剣戟を操っていたのか……その疑問がようやく晴れた。
護られたのだ。この神刀に。
世界で唯一の知り合いに、友に、家族に……。
不覚にも涙が頬を伝った。刀哉の気持ちを察した神奈子と諏訪子は、何も言わずに背を向けている。それが有難かった。おかげで気兼ねなく涙を流すことが出来る。
情けない嗚咽こそ噛み殺し、ただ何粒か真珠の如き涙を滴らせた刀哉は、袖で目を拭って布都御魂を脇へ置く。
「感謝する。山の神よ」
「なに、私としても珍しいものを見せて貰った。それに肝心なのは明日だ。天狗の里へ乗り込むのならば、相応の覚悟がいる。今宵はもう休もう」
各々が寝床へ就き、各々が想いを巡らせた。
下っ端の椛でさえアレほどの腕前。白狼天狗とて一人や二人ではないはず。
そんな者どもの本拠地に乗り込んで一悶着起こそうというのだ。
我ながら無理無茶無謀であると笑いながらも、武者震いすら覚える。
これは恐怖なのか、はたまた強者との戦に臨む歓喜なのか、定かではないが全身を電流のように駆け巡る緊張感が何とも心地よい。眠ろうと瞼を閉じても中々夢の淵へ落ちることが出来なかった。
寝酒が欲しいところだが、勝手に飲むわけにもいかない。
自然と足が外に向かっていた。袴と陣羽織を着込み、寝静まった薄暗い廊下を歩き、神社の表にて布都御魂を素振りする。思い浮かべるは椛の太刀筋。
無心に刃を振るう。否、遅い。もっと疾くだ。
全方位に気を配れ。前後左右、そして頭上だ。
さらに疾く!
まだ斬れない。周囲を取り囲む天狗たちに防がれ、躱されている。
まだだ、まだ足りない。この幻影たちを打ち消すほどの物が足りない。
額に汗が迸る。体中から闘士を発散させ、縦横無尽に迫り来る幻影どもを相手に切り結び、一撃を躱す。傍から見ればなんと滑稽な姿だったろう。だが当の本人は大真面目だった。布都御魂もその気迫に応えるかのように、月明かりを吸って青白く輝いている。
「カッカッカ! 月夜の霊刀とは、人の身でありながら御美事な剣舞じゃのう!」
頭上から響く嗄れた声によって、幻影が煙のように消えていった。
「何奴……姿を見せよ!」
「そう力むでない。今、そちらへ参るのでな」
と、黒い羽を舞い散らせ、純白の月を背に何処からともなく下駄の音を鳴らして着地したのは、背に大きな黒い翼を生やした修験者……すなわち天狗であった。しかし烏天狗の射命丸や白狼天狗の椛とはひと味違い、こちらは真っ赤な顔に鼻頭をぴんと伸ばした、紛うことなき天狗の其れだった。
その手には錫杖を握りしめ、腰に太刀を下げ、特に構えるわけでもなく興味深げに刀哉を眺めている。
「ほほぅ! お主が件の辻斬りか! 成る程よい面構えじゃ! さすがは我らの里へ押し入らんとするだけのことはある。カッカッカ!」
「貴様……天狗か?」
「愚問じゃのう。見れば分かろう? いかにも拙僧こそが妖怪の山の大天狗様よ!」
「ほう……察するに、夜の内に寝首を取る腹積もりか?」
殺気を放ち、布都御魂の柄に手をかける刀哉を天狗は笑い飛ばす。
「カッカッカ! そう構えるでない。人間如きの寝首を刎ねたところで何の自慢にもなりゃぁせん! 拙僧は使者じゃ。我ら天狗の棟梁、天魔様より遣わされたのじゃ。お主のことは犬走の小娘より承った。まあ座れ。いま、床几を出すのでな」
大天狗がこめかみの毛を二本毟り、ふっと息を吹きかけると、鹿の毛皮が敷かれた二人分の床几がそこに現れた。よく戦国武将が陣中で腰掛けているあれだ。
大天狗が先に座り、続いて刀哉も腰を下ろした。
天狗は腰に吊るしていた瓢箪を開け、ぐいっと中に入った酒を呑む。
「そら、お主もやれ。毒は入っておらぬ」
警戒しつつも受け取った刀哉は、一口だけ飲み下した。途端に身体の奥底がカッと燃え盛るように熱くなり、一気に酔いが全身を貫く。
「くはっ! こりゃ強い酒だ……」
「カッカッカ! 何せ天狗の地酒じゃからのぅ! 倒れなかっただけ褒めてやるわい。まあ倒れられては使者の務めを果たせぬので困るがのぅ。さて、本題じゃ。お主が我らの里を目指す理由は既に存じておる。此度のことは射命丸めの失態。とはいえ、あ奴の悪癖は既に周知の通りなのでな。今更何を言うたところでどうにもならん」
「諦めろ、と?」
「そうではない。天魔様はお主との懇談をお望みじゃ。そこに射命丸も呼び、ことの次第を洗い浚い喋るが良い。射命丸も天魔様の前では嘘は言えん。あ奴といえどもお主に頭を下げるじゃろう。それで手打ちということにしてはくれまいか?」
「いや、それでは引き下がれん」
「ほう。何故じゃ?」
「此度の恥辱は俺のみに非ず。人里にて寺子屋を営む、上白沢慧音という半人半獣も恥辱を受けたのだ。俺への謝罪など無用。されど、慧音への謝罪は断じて確約して頂く」
「もし断れば?」
「射命丸の両翼を絶ち、縄で縛ってでも寺子屋へ引きずる」
「お主……その歳にしては物騒なことを考えるのぅ」
「もしも貴様が同じ恥辱を受ければ何とする?」
「カッカッカ! 誠じゃ! 誠じゃ! 何も言い返せんわい。良かろう、しかと天魔様に伝えよう。他に望みが無くばこれにて里へ帰るが」
「一つ……不躾ながら」
「何か?」
「手合わせを願いたい」
「ほう……拙僧と剣舞を競いたい、と?」
「音に聞こえし天狗の冴え、しかと学びたい」
「カッカッカ! どこまでも愉快な奴よのぅ。言うておくが、拙僧は、ちぃと強いぞ?」
「是非もなし」
立ち上がったのは双方とも同時だった。床几が元の髪の毛に戻って風に吹き飛ばされ、氷のように冷たく静かな殺気を放つ二人を、桜華の吹雪が包み込む。
すると神社の本殿から琵琶の音が響いた。
柱に背を預け、白い寝間着を纏った神奈子が奏でる琵琶の音が境内にこだまするが、刀哉も天狗も相手の眼光を真っ向から見据えたまま動かない。
桜吹雪が止み、ひとひらの花弁が二人の間を落ちた刹那、花弁が真っ二つに割れて激しい火花が散った。
刀哉の神速の居合を受け止めた大天狗は、身体を捻って刃を受け流し、刀哉の脳天目掛けて刃を振り下ろす。
やはり、疾い!
刀哉は舌打ちを鳴らしながらそれを捌き、踏み込む。
「カッカッカ! 人にしては疾いのう! されど心が乱れておるぞ!」
十合、二十合、さらに打ち込む。より疾く、より鋭く、相手の首を狙って古の神刀に迷いも何もかもを乗せ、舞い上がる桜華の花弁の中を駆けた。
しかし届かない。全て受け流され、あるいは受け止められ、鍔迫り合いになる度に相手の身体がすり抜けていく。正眼、もしくは脇に構える刀哉に対して、天狗は軽々と片手で太刀を操っている。時折逆手に取って振るう刃が刀哉の頬を掠めた。
さらに鍔迫り合いに持ち込んだ時、大天狗は言葉に哀愁を孕ませて笑う。
「懐かしいのう……こうして人の小僧と剣舞を競うは何百年ぶりか。お主は我が弟子によぉく似ておる。その哀しげな眼といい、烈火の如き闘志といい。無論、別人じゃがのぅ」
「戯言は、無用!」
相手の刃を身体ごと押し飛ばし、間合いを開けた刀哉は腰を低く落として刃を脇に構える。さらに殺気が鋭くなった。天狗は逆手に構え、踏み込むのを躊躇う。
「ほう……来るか! ならば拙僧が受け止めてやろう! お主の冴え、見せてみぃ!」
刀哉はまるで風が吹くが如く、ゆらりと左右に振れたかと思わせた途端、怒涛の勢いで天狗の懐に飛び込み、その切っ先を天狗の喉元目掛けて振り上げる。
剣舞「月輪之太刀」
その青白い煌めきが真円を描く様は、まさしく天に輝く満月のそれだった。
「ふむぅ!?」
布都御魂が天狗の喉を切り裂く寸前に切っ先を躱した天狗は、額に受けた傷を物ともせず、大きく足を振りかぶって刀哉の小手を蹴りあげ、霊刀が夜空を舞って石畳に突き刺さる。
手の甲の痛みに耐えている刀哉の首筋に、冷たい太刀の峰があてがわれた。
「カッカッカ! 見事じゃ。見事としか言い様がないぞ。お主の刀術は天下一品じゃぁ! 何とコヤツは拙僧に一太刀浴びせおった! この傷は生涯忘れぬぞ! カッカッカ!」
「俺の負けだ……首を取りたければ取るがいい」
「否! それは拙僧の役目ではない。拙僧はあくまでも天魔様の使者じゃ。その腕をここで断つには実に惜しいからのぅ。さらに精進すれば良い。久方ぶりに楽しい剣舞であったぞ。では、拙僧はそろそろ帰るとするかのぅ」
「お待ちを! 大天狗殿、あなたと弟子の名は?」
「拙僧か? 拙僧の名は……鞍馬じゃ! 鞍馬天狗じゃ! そして弟子の名は牛若丸という小童じゃった! ではさらば! 明日、天魔様にくれぐれも無礼が無きように!」
翼を広げ、夜空の彼方へ消えていく鞍馬天狗を刀哉は憧憬の眼差しで見送った。
あれはまだ本気を出していない。太刀を片手で操り、軽口を叩くほどの余裕があるとは恐れいった。
布都御魂を石畳から抜き取り、鞘へ戻した刀哉を、琵琶を携えた神奈子が迎える。
「負けた、な」
「次は負けない」
「その意気だ。いや、その意気でなければ天魔の前に出ることは出来ないからな。さあ、もういい加減に寝てしまおう。天狗の酒が回ってきた頃だろう?」
そう、実を言うと先ほど飲んだ天狗の地酒が思いの外よく効いており、戦いの緊張も解けて足がふらふらになっていた。神奈子に支えられて寝床に戻り、布団を頭から被った途端、刀哉は大きないびきを鳴らして爆睡する。
夢幻の世界に映り込んだのは、魔理沙の家でも見た、あの青白い光だった。
刀哉がその光に向かって手を伸ばし、それを掴むと、光は徐々に形を成して布都御魂へと変貌していく。嗚呼、そうだったのか。この輝きは布都御魂の心だったのだ。
夢の中でさえ共にいてくれるのだ。
刀哉は夢幻の世界で先程の敗北を詫び、次こそはあの天狗に打ち勝ってみせると友に誓う。
穏やかな寝顔を浮かべる刀哉の頬に、一滴の涙が零れた……。