妖怪の山 参
「よしよし。じゃ、ふたりとも神社へおいでよ。立ち話も野暮ってものだからさ」
諏訪子に続いて神社の石段を登っていくと、門前にもう一人の神が待ち構えていた。
幼児体型の諏訪子と違ってこちらは長身で、髪は深い紫色に染まり、真紅の衣に勾玉の首飾りを吊り下げ、不敵な笑みの中に堂々たる覇気を漂わせていた。
「双方とも見事な戦いぶりだった。特に少年、そなたの剣技は見ていて実に清々しい太刀筋だったぞ。これからも精進を怠るな?」
「あなたが、軍神殿か……?」
「うむ。八坂神奈子と申す。諏訪子と同じく、この山にて信仰を受けている身だ」
「俺の名は刀哉と申す。外界より流れつき、記憶を失って以来、人里にて厄介になっています」
「成る程。そなたが巷で噂の剣豪か。まあ、詳しいことは中で話そう。うちの巫女が作る飯は美味いぞ? そこに隠れている河童も来なさい。飯は大勢で食べたほうがより美味い。キュウリも出すぞ」
「ひゅい! じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて……」
「無論、椛も一緒に来て貰うぞ?」
「私も、ですか? しかし私は見回りの任務が」
「なぁに、今時天狗の里を襲撃する猛者などいるまい。おっと、私の目の前にいたな。あっはっは! ともかく来い。私に捕まったといえば誰も文句は言わんよ。何なら後日、大天狗に話をつけておいてやる。さ、上がった上がった」
さすがに神として信仰を集めているだけあって、神奈子の威勢の良さと度量の広さは人妖を問わず惹きつけられるものがある。守矢神社の境内には巨大なしめ縄が飾られ、その中で来客を出迎えた巫女は霊夢と正反対であった。
「皆様、ようこそ守矢神社へ。私が巫女の東風谷早苗です。普段は諏訪子様と神奈子様のお世話係を務めております」
「うんうん、私達しっかりとお世話されてるよね?」
「ああ。早苗の世話っぷりは天下一だ」
「まあお二人ったら……恥ずかしいですわ。すぐにお食事の支度を整えますので、それまでは此処でおくつろぎ下さい」
爽やかな薄緑の髪を揺らして神社の奥へ引っ込んだ早苗を見送り、神奈子と諏訪子が上座に腰をおろし、刀哉と椛が対峙する形で左右に分かれた。にとりは一番下座で茶を啜って成り行きを見守っている。
刀哉は山へ来た理由と、射命丸によって己と慧音があらぬ辱めを受けたため、それを撤回する記事を出すように要請したい旨を話した。
すると神奈子は膝を叩いて大笑いする。
「はっはっは! 本当に愉快な人間なのだな! よもや烏天狗の出鱈目記事にそこまでする奴がいるとは」
「俺が侮辱されるのは一向に構わん。涙も飲もう、陰口とて聞き流そう、だが関係のない慧音まで辱めたことが許せない。それだけだ。なぜ笑われねばならない」
「はは、すまん、すまん。いや別に莫迦にしたわけではない。ただ、今時にしては珍しく筋の通った男だと感心したのだ。外界の人間は自然の恩恵を忘れ、利己的にしか生きられないと聞いていたが、中々どうしているものじゃないか。気に入ったぞ」
「それで、椛は今の話を聞いてどう思った? いつものこととはいえ」
「はい……文さんの新聞に関しては、確かに同意見です。しかし私は一番下っ端の白狼天狗ですので、直接抗議するわけにもいかず……」
「天狗は上下関係厳しいからねぇ。でも私達が口を出すわけにもいかないし」
「神であっても?」
「うむ。天狗との約定があってな。互いに口出しをしないことになっているのだ。しかしそなたを天狗のもとへ連れて行くことは出来る。まあ、今日は遅い。明日、私と諏訪子が連れていってやろう。そこで話をつけるといい」
「かたじけない」
「わざわざここまで来たんだもの。何も無く帰したんじゃぁ、神の名が廃るからね!」
妖怪に案内させるつもりだったのが、まさか神に案内して貰うことになるとは夢にも思わなかったものの、兎にも角にも天狗と話が出来るならばそれでよい。
「ところで不躾ながら……八坂様」
「ああ、神奈子でよい。堅苦しい呼ばれ方はあまり好きではないのだ。して、何だ?」
「俺は見ての通りの剣客。ならば記憶がありし頃の俺は、剣の道に生きていたはず。軍神として、俺の素性に心当たりは無いものか、と」
「ふむぅ……私はこの地に流れて久しい。それに軍神といっても、直接誰かに加護を授けているわけではないのだ。神とは元々人間たちが祀り上げたものに過ぎない。しかし、その刀に聞けば何か分かるかもしれないな」
「この刀に?」
「そうだ。先ほどの剣戟を見ていて、その刀から霊力を感じた。これほどの名刀を持つ剣豪は限られていよう。ならば多少は洗い出せるかもしれない。見せて貰って構わないか?」
「勿論」
刀哉は脇に置いていた愛刀を手に取り、神奈子へ手渡した。
鞘から引きぬいて峰を撫でる神奈子と、その様子を覗きこむ諏訪子は、一瞬大きく眼を開いて互いに顔を見合わせる。その額には冷や汗すら滴っていた。
「何か分かったのですか!」
ただならぬ二人の様子に刀哉が詰め寄ると、神奈子はフッと息を吐き出して刀を持ち主へ戻る。
「……すまない。この刀は固く心を閉ざして、何も語ってはくれなかったのだ。どうやらそなたにだけ心を開くらしい。だが、一晩預からせて欲しい。何とか試みてみよう」
含みのある言い方であったが、神の言葉に突っかかる気もおきず、何も言わずに刀哉は引き下がった。気まずい沈黙が漂う中、夕餉の支度を終えた早苗が恐る恐る声をかける。
「み、みなさ~ん……お食事の用意が整いました。こちらへどうぞ」
早苗の言葉に引き寄せられる如く、全員が立ち上がって食卓へと向かう。
真っ赤な夕焼けに照らされ、山へ帰っていくカラスたちの鳴き声を聞きながら廊下を歩く刀哉に、椛が遠慮がちに言った。
「あの、その……先程はすみませんでした」
「なぜ謝ることがある? 椛は斥候なのだから、あれでいいんだよ。むしろ俺の方が事情を説明すべきだった。なにせ幻想郷に来て初めて刃を交えたものだから、つい滾ってしまった。怪我は無いか?」
「はい……刀哉さんは、お強いのですね。修行を怠っていた自分が恥ずかしいです」
「いや、互角だったといっていい。俺もまだまだ修行が足りないということが良く分かった。もし良ければ、また試合をして貰いたい」
「はい! そのときは是非!」
椛は尾を激しく振ってにこりと微笑んだ。
食卓は長大な座敷机で、そこに山の珍味や川魚などが彩られている。
勿論酒も用意されていた。昨夜の宴会で散々飲み明かし、二日酔いがようやく落ち着いた刀哉は神奈子の勧めを遠慮したものの、結局、男児たるものが酒も飲めないでどうすると押し通されて飲むはめになった。にとりもキュウリをボリボリと味わい、椛も山鳥などに箸を伸ばしている。
「刀哉さん、お代わり如何ですか?」
「ありがとう、早苗さん。頂こう」
「一杯召し上がってくださいね! 沢山ありますから」
早苗は自分も食事を楽しみつつ、終始給仕の仕事に専念していた。神奈子や諏訪子が気にしなくても良いと言っても、大丈夫と言い張って聞こうとしない。むしろそうやって感謝されることに生きがいを感じているように思えた。どこかの紅白巫女に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいものである。
すっかり満腹になり、食後の茶を飲んで寛ぐ一同の中で先に暇乞いをしたのは椛だった。
「ご馳走様でした。名残惜しいのですが、そろそろ戻らねば仕置を受けてしまいますので、先に帰らせて頂きます」
「仕方ないね。またいつでも遊びにおいでよ。歓迎するからさ!」
「はい、是非に。刀哉さん、次は負けませんから」
「楽しみにしている」
椛が天狗の里へ帰り、にとりも大の字になって眠りはじめた頃、居間には刀哉と早苗が二人きりで茶を啜っていた。茶請けの最中が実に美味い。
すると早苗は、不意に刀哉の隣へ座って身を寄せてきた。
「早苗さん?」
「すみません……少し、お聞きしても良いですか?」
「俺に答えられることならば、何でも」
「刀哉さんは、外の世界から来られたんですよね?」
「ああ。故郷の風景も、友の顔も、親の顔すら覚えていないが」
「え? ご、ごめんなさい」
「気にせずともいい。外の世界に、興味があるのか?」
「はい……だって、私も外の世界から来た人間ですから。刀哉さんと同じ、外来人です」
「なん……だと? 早苗さんは、外に居た頃を覚えているのか?」
「ええ。覚えています」
「どんな世界だ? 霊夢は、もう剣客も刀も廃れた世界と言っていた」
「そうですね……もう誰も刀を持っている人はいませんでした。持っているといっても、美術品だとか、部屋を飾る程度で、もしくは競技とか演目で使うくらいです。風景もこの幻想郷ほど綺麗ではありません。地面にはコンクリートの道路が敷き詰められ、空まで届きそうなオフィスビルが立ち並ぶ、鉄と岩の森のようなところでした」
「なぜ早苗さんは、こっちに?」
「私は……そういう運命だったみたいです。自覚は無いですけど、現人神という存在でした。半分人間で、半分神様というか、秘術を操る家柄で……」
刀哉は頭の中に早苗から聞いた風景を思い描き、冷め切った茶を飲んで渇いた喉を潤す。
まるで、浦島太郎になったような気分だ。あるいはこの幻想郷自体が竜宮城なのかもしれない。ならば己は、早苗よりも随分と過去に生きていた人間なのではないか、と刀哉の脳裏に考えが過ぎった。
「すまない。質問する立場が入れ替わってしまった」
「いえ、私こそ、ごめんなさい。刀哉さんを傷つけてしまって……」
「いいんだ。おかげで、外の世界がどういう場所が知ることが出来た。やはり、俺も早苗さんと同じで、幻想郷にいるべき人間なのかもしれないな。霊夢の言った意味がようやく理解出来た。刀たちも、さぞ無念だろうな」
「え?」
「刀は美術品などではない、立派な武器だ。その昔は槍や弓と共に人の血を啜っていたはずだ。それがいつしか、部屋の隅に飾られて、ただジッと眺められるばかりでは刀たちも報われないだろう。俺は、そう思えてならない」
「はい……でも、私は、それでもいい気がします。人の命を奪うよりも、人を喜ばせた方が良いはずです。確かに刀は武器ですが、とても綺麗ですもの。お部屋に飾ったり、収集したりする気持ちもわかります……って、また私ったら、生意気なこと言っちゃって」
「いや、それも正しい意見だと思う。だからこそ、今の外界があるのだろう。刀そのものを忘れられたわけではない。それだけで十分なのかもな。ところで神奈子と諏訪子は?」
「お二人でしたら、月見の散歩に出ると言って外出されました。ところで、うちには温泉があるのですが如何ですか?」
「温泉? それは有難い」
守矢神社の裏手には、山の斜面を削って作られた露天風呂があった。
竹を編んだ外壁に囲まれた風呂場は丸石の床で覆われ、白い湯気を立ち上らせる岩風呂に浸かると、たちまち一日の疲れが吹き飛んだ。
暫し足を伸ばして月を眺めていると、脱衣所と浴場を隔てる戸を叩く音が聞こえる。
「刀哉さん、お湯かげんは如何ですか?」
「丁度良いよ。何か、用?」
「あのですね……実はこの温泉、男湯と女湯に分かれてなくて――」
途端に嫌な予感が全身を駆け巡り、
「私も一応妖怪退治をしたことがありますので、もし刀哉さんお一人で妖怪に襲われた時は危ないので――」
ゆっくりと戸が開かれて、
「差支えなければ、私がお背中をお流しします」
真っ白なタオルに身を包んだ早苗が目の前に立っていた。