妖怪の山 弐
寺子屋を後にした刀哉は脇目もふらずに妖怪の山へ続く野道を進んだ。
無論、天狗の住処が何処にあるのかなど見当もつかないが、適当な妖怪を捕まえて居所を吐かせるだけのことと深く気にしていなかった。その怒りも山を彩る無数の草花と桜や梅によって徐々に温度を下げ、山中に流れる川の流れに沿って歩くうちに、半面物見遊山のように風情ある景色を味わっていた。
妖怪たちの視線も背に感じるが、刀哉の容姿を聞き及んでいるのか、辻斬りに手を出そうとしない。
「辻斬りか……今回ばかりは否定出来んな」
自らの仇名を嘲笑い、暫く山野を巡ってみたものの、天狗はおろか刀哉を食らってやろうと立ち向かう妖怪すら出てこない。これは参った。適当な妖怪に聞き出そうと考えた計画があっという間に崩れ、はてさて如何したものかと川のせせらぎに転がった大岩の上で休息を取る刀哉。
刀を腹に乗せ、仰向けに転がって青空を眺める。
さすがにこれだけ隙を見せれば妖怪の一匹や二匹は出てくるだろう。
その予感は的中した。
岩陰からこちらをジッと伺っている視線が、徐々に近づいてくる。
今のところ殺気は感じられないが、それでもいざとなれば食らいついてくるやもしれず、狸寝入りをしたまま刀に指を伸ばす。そして気配がすぐ手の届くところまで近づいたところでカッと瞼を開き、刃を抜いて妖怪の首筋に寸止めすると――。
「げぇっ!? 人間だぁ!」
妖怪は余程驚いたのか、腰を抜かして地面に座り込んでしまった。
見ればまだまだ子供の妖怪のようだ。頭に緑色のキャップを被り、水色の雨合羽に長靴と水辺らしい姿をしている。他の例に漏れず、少女だった。女運があるのは悪い気はしないが、あまりこういう形では出会いたく無い。刀哉が岩から身を起こして立ち上がると、妖怪少女は蒼い髪を逆立たせて逃げようと藻掻くものの、腰が抜けて立ち上がることもままならない。
「しょうがないやつだ。よいしょ……って、暴れるな! 痛い! よせ! 顔を殴るな!」
「放せ放せ放せぇ! 私をどうするつもりだぁ!」
「どうもしない! いいからそこに座ってろ!」
無理やり抱き上げて岩の上に乗せ、納刀する。
「お前も一端の妖怪ならなぁ、人間の脅しくらいで腰を抜かすなよ」
「ひゅぃ! す、すまん……だけど、別にあたしはお前を食べようとしていたわけじゃないんだぞ? 岩の上で動かなくなったから、ちょっとだけ気になって」
「ほーう。で、お前は何者だ?」
「あたしか? あたしは河城にとり。河童だぞ」
「河童ぁ? あの頭に皿を乗せて水かきのある?」
「随分古典的なイメージなんだな、お前も……だけど安心しろ。なにしろ河童は人間の盟友だからな! あたしが無事に里へ送り届けてやるよ」
河童が人間と盟友とは初耳だ。しかし、この幻想郷においてはそうなのかもしれないと刀哉は納得し、ちょうどよいとばかりにほくそ笑んで、にとりに道を尋ねた。
「ちと物を尋ねるが、天狗というのは山の何処に住んでいるんだ?」
「天狗ぅ?」
「ああ。さらに詳しく言えば、烏天狗の射命丸文は何処にいるか知っているか?」
並々ならぬ気迫で迫ってくる刀哉に、にとりはすごすごと後ずさる。
「お前、射命丸に会いに行くのか!? 止めておいたほうが身のためだと思うぞ? 天狗はおっかない連中だ。盟友として案内するわけには……」
「このキュウリの漬物と交換でどうだ?」
「キュウリ!?」
刀哉が竹皮から取り出したキュウリのぬか漬けに、にとりはビクッと反応して頭を抱えている。言い伝えというのは侮れないものだ。まさか本当に河童の好物がキュウリとは信じておらず、さらに刀哉は彼女を誘惑のどん底へ突き落とす。
「なんなら、一切れと言わず全部やろうか?」
「ぐ、ぐぬぬぅ……し、仕方ないな! ただし案内するだけだからな? 後はどうなっても知らないぞ?」
「分かっている。そら、遠慮せず食え。俺も飯にしよう」
川の流れる音、視界に広がる桜梅、そして新鮮な山の空気……これで飯が不味いはずが無い。
にとりもキュウリの味を堪能しており、刀哉は気さくに妖怪の山について尋ねた。
「山には天狗だけでなく河童もいるのだな。他に有名どころはいるのか?」
「有名かどうかは知らないが、天狗の里の近くに神社があって、そこに山の神様がいるぞ」
「神様か。どんな神だ?」
「一人はカエルで、もう一人は軍神だったかなぁ。あたしら河童は神社を作るのを手伝っただけで、あんまり交流は無いぞ?」
カエルの神がいたことにも驚いたが、何よりも刀哉を奮い立たせたのが軍神という単語だった。
「軍神か……興味があるな。一つ参拝していくのもいいかもしれない」
「天狗の里に直接乗り込むよりも、そっちに取り次いだ方が良いと思うぞ? 人間に寛容かどうかは知らないけど」
「そうか。よし、予定変更だ! にとり、その神社に連れていってくれ!」
「分かったぞ! あたしも天狗のところへ近づくよりはずっとマシだ」
休憩を終えた刀哉は軽やかに岩場を飛び歩くにとりに続いて、山の斜面を駆け上がっていく。凶暴な妖怪さえ出なければ、この山は修練の場として持って来いなのだが、今はそんなことを考えていられないと頭を振って雑念を払う。
さすがに河童は人間と足腰の規格が違った。
川の中だけでなく、険しい山道であっても全く動じる様子がない。
「大丈夫かぁ?」
「このくらい何でもない! いい運動だ」
「もうすぐ神社に続く山道が見えてくるからなぁ! 踏ん張れぇ」
にとりが差し伸べた手を強く握り、ようやく開けた場所に出た刀哉の前に幾つもの石鳥居が上へ上へと続く石の階段が現れた。目を凝らしてその頂きを伺えば、神社の入り口と思しき門が見える。あの先に軍神がいるのかと思うと不覚にも心が高鳴った。
空を仰げば既に群青に赤みが帯び始めている。
あまりもたもたしていては日が沈んでしまうので、にとりに続いて鳥居をくぐろうとした時だった。
「む?」
強い気配が急速に近づいてくる。木々の間を駆け抜け、落ち葉を踏みしめる音だ。
「お~い、何をしているんだよぉ」
にとりの催促を無視し、瞼を閉じて何者かの気配を探る。
「この気配……そして音は……後ろか!」
木々の枝から跳躍し、刀哉の首めがけて振り下ろされた一撃を、刀哉は振り向きざまに刃を抜き払って弾き飛ばす。甲高い金属音に加えて激しい火花が飛び散った。
妖怪の爪にしては硬すぎる。弾き飛ばされた襲撃者は軽やかに空中で一回転し、着地した。淀みのない切っ先のような目だった。刀哉もその凛とした立ち姿に感嘆の吐息を漏らす。
その右手に片刃の剣を握り締め、左手に紅葉の印が刻まれた円形の盾を持つ其れは、真っ白な髪に犬の耳を生やし、黒いスカートからも白毛の尾を覗かせている。
修験者のような出で立ちから察するに、天狗の一味のようだ。
「ひゅぃい……な、何なんだヨォ」
「にとりは下がっていろ……何故俺を襲った? そこいらの妖怪とは違うらしいが」
「私は山の矛にして盾……そして目でもあり、耳でもある。そして私の使命は、天狗の里を襲う狼藉者を、この刃にて打ち滅ぼすこと! 私は白狼天狗! 白狼天狗の犬走椛! 天狗の里へ行きたければ、まずこの私を倒していけ!」
成る程、噂を聞きつけた天狗たちがけしかけた斥候らしい。
しかも堂々と啖呵を切るその意気に刀哉も心が震えた。敵もまた武人なれば、こちらも相応の礼儀がある。刀哉は愛刀を正眼に構え、一礼した。
「無銘一刀流……名を刀哉。いざ尋常に」
「勝負!」
地を蹴ったのは同時だった。否、椛の方が若干疾かった。小柄な見た目の割に豪快な振りかぶりからの一撃を受け流し、着地からの回転斬りを椛の盾が防ぐ。
刀哉の切っ先三寸が盾を滑り、その白い表面に切り傷を刻みつけた。
さらに刀哉は踏み込む。今度は脇構えからの切り上げ。山の大地を抉りながら蛇のように椛の喉元を捉える淡青の閃光を跳躍によって躱し、刀哉の脳天目掛けて空を蹴り、急降下した椛の刃を前転によって避ける。
間合いを開け、仕切り直しとばかりに双方切っ先を相手に向ける。
「白狼の盾に傷を……辻斬りにしてはやりますね」
「そちらも、斥候にしては大したものだ。だが俺は恥辱を晴らすため、是が非でも天狗の里へ行かせて貰うぞ」
「それは叶わない。何故なら此処で私に倒されるからだ!」
十合、二十合と切り結ぶ人間と白狼天狗。
その様子を高みの見物している人物が二人。
一人は正門の石段に腰掛け、もう一人は門の屋根にて二人の死合を面白げに刮目していた。
どちらも争いを止める気配はない。
にとりもアタフタと慌てふためいて右往左往している。出来ることならば人間に味方してやりたいが、相手は天狗の尖兵。とても河童が太刀打ちできる相手でもない。
一方、刀哉の心は闘争の炎を燃え上がらせていた。
腕利きと謳われた天狗とやらは如何程の腕前かと思っていたが、まさか尖兵からしてこの身のこなしとは滾らせてくれる。ならば椛の格上たちは想像を絶する猛者どもなのだろう。武者震いがする。一体自分は何者なのかと問い続けていた刀哉は、いまハッキリと己の一片を垣間見た。己は紛うことなき武芸者なのだ、と。
対する椛もまた舌を巻いていた。
かつては妖怪退治を生業としている人間たちが山へ乗り込み、そして返り討ちにしていた。以来、人里での掟が定められ、すっかり人間たちも腑抜けてしまった今になって山へ乗り込んでくる愚か者とはどんな男なのかと仕掛けてみれば、よもやこれほどの剣客とは思いもよらず、ここ数十年鍛錬を怠っていた椛は、身のこなしだけで対処する以外に術が無かった。単純な剣術で勘定すれば、何度首や腕を刎ねられていたか知れない。
だというのに、目の前に立ちはだかる人間は、徐々に椛の動きすら見切り始めていた。
「破っ!」
もう数えるのも億劫になるほどの斬り合いの中、刀哉が放った真一文字の居合を盾で防いだ途端、刀哉は身を屈めて椛の足首を蹴り飛ばす。
「しま……っ!」
「その首貰った!」
仰向けに倒れ、既に刀哉は刃を振るっている。防ぐにも時既に遅かった。
観念して瞼を閉じ、その冷たい刃が痛みを伴わないことを祈る椛の耳に、二人の間に降り立つ足音が響く。
「そこまでだよ!」
刀哉の刃を指で挟み、椛の手首を掴んで双方の争いを無理やり終結させたのは、山の神の一柱だった。頭に目玉のついた大きな帽子を被り、紫と白の衣を纏っている。
しかし刀哉は目の前にいる幼女が神とは知る由もなく、一体この子供は何なのかと眉をひそめる。だが只者ではないことは明らかだった。己の刃を指二本で受け止めるなど神業もいいところ。一先ず刀哉は刀を引くこととした。
幼女は刀哉と椛に視線を送りながら腰に手をやり、頬を膨らませる。
「無益な殺生なんてしちゃ駄目なんだよ? 大体神社の前で争うなんて罰当たりとは思わない? これ以上やるっていうなら、うちの軍神が黙ってないんだからね!」
言動から察するに神社の巫女だろうか。否、そういう雰囲気ではない。
そこで刀哉はふとにとりの言葉を思い出した。神社には神が二柱いるのだと。
「もしや君は……」
「ふっふっふ~。何を隠そう、私こそが守矢神社の神! 洩矢諏訪子なのだ! 見た目だけで人を判断しては駄目だぞ? というわけで、ここは私に免じて戦いを止めるように」
神に言われては致し方ないとばかりに、刀哉は刀を鞘へ納め、椛もまた立ち上がって剣を仕舞った。
盾は腰の鞘に引っ掛けている。
「うんうん、それでよろしい。じゃあ二人とも、仲直りの握手を」
「しかし諏訪子様、こやつは天狗の里を狙う刺客では……」
「いいから握手! 彼にも事情があるんだから、聞いてあげてもいいじゃない。ほらほら、君も手を出して」
無邪気に背を叩く諏訪子に圧されて渋々と手を伸ばすと、椛もまた渋々とそれを握り返した。
ここに停戦協定が結ばれ、灯籠の陰に隠れていたにとりは胸を撫で下ろす。