妖怪の山 壱
日付は変わり、刀哉を含めて二日酔いに頭を痛める里人たちは昨夜の宴会の片付けに取り掛かっていた。提灯を外し、膳や食器を女性陣が慌ただしく動いている台所へ運び、雑巾を絞って床を拭きまわる。ずきずきと割れるように痛む頭を抱え、粗方掃除が終わった頃には、里人も妖怪も刀哉のことを恐れていなかった。
朝飯に出された茶漬けと梅干しが五臓六腑に染み渡る。
霊夢も魔理沙も昨晩のうちに帰ってしまったらしい。
農作業がある里人たちがぞろぞろと寺子屋から撤収し、すっかり静けさを取り戻した大広間には何ともいえない哀愁が漂っている。昨晩までどんちゃん騒ぎをしていたのが嘘のようだ。慧音もさすがに疲れたのか、今日の寺子屋での授業は取りやめるという。
刀哉も今日一日は道場の計画を立てることに決めた。
欠伸混じりに自分の家へ戻り、風呂を沸かしてドブンと飛び込む。
寝汗に加えて片付けの作業でベトベトだった身体を洗い流し、すっかり目が覚めた刀哉は今まで来ていた道着から、阿求がくれた真新しい道着へと着替えた。
ご丁寧なことに褌まで用意してくれている。
さらには金糸で装飾された蒼い陣羽織まであった。
試しに羽織ってみると、何とも軽くて動きやすく、それでいて温かい。
すると様子を見にきた慧音と視線が重なった。
「ああ、驚いた。一瞬戦国武将がいるのかと思ってしまったぞ。それにしても良く似あっているじゃないか」
「うん、動きやすくて着心地がいい」
「と、そんな呑気なことを言っている場合ではなかったのだ! 刀哉、今朝の朝刊を読んだか? その様子ではまだのようだが」
「朝刊? ああ、あの烏天狗の」
「これに持ってきた。心を鎮めて読むんだぞ?」
慧音が握りしめていた灰色の新聞紙を広げ、その紙面を黙読していく内に、刀哉はぷるぷると震えて新聞紙を雑巾のように握り潰した。その目には怒りと困惑が色濃く浮かび上がり、顔は恥じらうように赤みを帯びている。
「なんだ……これは……」
『文々。(ぶんぶんまる)新聞』と題された其れの一面には、勿論刀哉のことが記載されていた。
それだけならば良かった。しかし、その内容がとんでも無い。
【寺子屋に辻斬り現る! 上白沢慧音と痴情のもつれ有りか!?】
だとか
【独占取材! 辻斬り刀哉氏曰く、彼は道場を開いて人間たちに武道を教え込み、妖怪世界への進出を図っている模様。我が無双の剣を恐れぬならばかかって来いと豪語!】
だとか、とにかく根も葉もないことばかりを書き連ねているではないか。
しかも身に覚えがない写真まで掲載されている。
憤怒に震える刀哉を慧音が必死に宥めた。
「落ち着け! だから言ったではないか、烏天狗には気をつけろと。大体あいつは捏造記事ばかり書いていることは全員承知のことだ。どうせ鵜呑みにすることなどない」
「分かっている! だが俺のことよりも、慧音までも辱めたことが許せん!」
「私のことは気にするな、もう慣れたことだ。それよりも、道場の日取りを決めよう。私としては、体育の一環として――」
と、何とかその場を取り繕うと努力する慧音が、寺子屋の時間割を纏めた巻物を広げて刀哉と打ち合わせを始め、苛立ちながらも真面目に詳しい時間割を話し合う。
稽古に使う竹刀や防具は慧音の知り合いが竹林に暮らしているので何とかなるという。
数を揃えるには時間がかかるが、はじめのうちは体力づくりから始めるので問題ないと刀哉は考えた。
「ところで看板はどうする?」
「看板?」
「ああ。道場といえば、流派を掲げた看板がいるだろう。何か流派名を考えた方が良いと思うのだが」
「ふむ……」
思わぬところで難関にぶつかった。二人はそれぞれ紙に良いと思った名前を書き、見せ合う。幻想一刀流だとか、刀哉流だとか、寺子屋剣法だとか、色々と候補が上がるが中々決めることが出来ない。すると刀哉が諦めたように鼻を鳴らした。
「もう無銘でいいと思う」
「では無銘一刀流で良いか?」
「そんなところだろう。記憶を無くした俺にはある意味ぴったりだ」
「ふむ。飾り気の無いところが確かに刀哉らしいな。よし、では里の看板職人に頼んでおこう。ところで刀哉は子供が好きか?」
「まだ分からん。直接人間の子どもと喋ったことがないし、人に物を教える事自体が初めてだ。ただ、気をつけようとは思う」
「そうか。私も寺子屋を始めたばかりの頃は同じ気持だった。里に住む上は何か役に立ちたいと思っていてな。幸いにも私は勉学が好きだったので、子供らに文字や数学を教えることで自分の居場所を見つけた。刀哉もきっとそうなるだろう。さて、では早速頼みに行くとしよう」
用心のために家の戸に錠前を掛け、慧音と共に里の看板屋の暖簾をくぐった。
親方も息子を道場に通わせるつもりだったので予め看板の支度をしており、今か今かと注文が来るのを待っていたという。流派名を書いた紙を手渡し、早速作業に取り掛かった親方を後にした二人は、続いて幻想郷の南に広がる竹林に向かった。
この迷いの竹林は里人も滅多に近づかない難所で、奥底には腕のいい医者がウサギの妖怪たちと一緒に住んでいるという。そして慧音の知り合いは、この竹林の中で自給自足の生活を営んでいる。向こうも慧音の気配を察したのか、鬱蒼と生い茂る竹の間を軽やかに跳躍して二人の前に着地した。
「やあ慧音! そちらから訪ねてくるとは珍しいこともある。しかも、男を連れてくるとはもっと珍しいじゃない」
その長い白銀の髪は足まで届くほどに伸び、所々を紅白のリボンで結っていた。
白い襟付きのシャツを着こみ、赤い指貫袴を穿いた彼女の肌は、まるで雪のように白く、人なのか妖怪なのか判断しかねている刀哉は、一先ず挨拶を済ますこととした。
「慧音の寺子屋にて世話になっている、名を刀哉と申す」
「私は妹紅。藤原妹紅。噂はそれなりに聞いているよ」
藤原という姓に刀哉の眉が動いた。日ノ本の人間ならば知らぬ者はいない名門の名である。指貫袴を穿いていることからも合点がいった。
「おっと、余計な詮索は御免だよ。あまり身の上話は好きじゃないから。それで慧音、別に彼を紹介するためだけに来たわけではないんでしょ?」
「ああ。一つ頼まれて欲しいことがある。今度刀哉が寺子屋の一環で道場を始めることになったので、ひとつ竹刀と防具を幾つか作って貰えないだろうか。もちろんそれなりの礼はする」
「それは構わないけれど……道場を開くほどの腕前なのかなぁ?」
顎に指を当てて刀哉を覗きこむ妹紅に、慧音が自慢げに口元を釣り上げる。
「無論だとも。そこいらの人間どころか妖怪ですら逃げ出すほどの腕だ」
「ふぅん。まあいいわ。竹刀と防具ね? 上物のお酒と慧音の手料理で手を打ってあげる」
「すまない。助かる」
「ただし竹を斬るのを手伝って貰える? 三十本ほど適当にお願い」
「任せてくれ」
妹紅の挑発的な要求に刀哉は即答した。相も変わらず神速の抜刀術を披露した刀哉は、言われたとおり三十本の竹を妹紅へ届けた。もはや妹紅は何の疑いも見せず、確かに竹刀と防具を作ると約束して竹林の奥へ消えていった。
日ノ本第一の貴族が竹林の中で竹細工をしているというのは、妙に不憫な思いがしてならない。
慧音に尋ねてみても、妹紅から固く口止めされていると言って教えてはくれなかった。
二人は里の茶店にて小豆が塗られた三色団子を摘む。なるべく今朝の記事のことは気にしないように努めていたが、やはり里の人間や妖怪たちは刀哉と慧音が並んで団子を食っている様子を見てヒソヒソと耳打ちを繰り返している。
己に陰口が向くのは別に構わない。烏天狗にあれこれと喋ってしまった自分が迂闊であっただけの話だ。しかし、何の関係もない慧音まで言われるのは我慢ならなかった。
しかも痴情のもつれなどという破廉恥な見出しならば尚の事。
本人は平然としているが、心の中では思うところもあるだろう。
彼女とて一端の女性なのだから。
刀哉はふと、西方にそびえる妖怪の山を睨んだ。烏天狗たる射命丸もあの山に住んでいるのだろう。
既に刀哉の腹は決まっていた。
「さてと、私はそろそろ寺子屋に戻るが、刀哉はどうする?」
「俺も一旦家に戻る。稽古の計画を纏めなければ」
「熱心だな。感心感心」
そうして家に戻った刀哉は、早速山登りの準備を始めた。
握り飯を作って竹皮に包み、火打石や打ち粉などを風呂敷に入れていく。腰に差した愛刀を優しく撫で、いざ出陣とばかりに家を後にした。
慧音は物陰からその様子を見て顔に手を当てる。
「全く、どうしようもないほどに実直な奴だ。あれでは命がいくつあっても足りんぞ。しかし、私が止めたところで聞かなかったろうな。恥辱を晴らすまで気が済まないか……さて、あいつが帰ってきたらどう叱ってやるべきか……」