忘却の剣士 壱
彼が瞼を開くと、周囲は紅に染まっていた。
宵闇のように薄暗い空の下、暗黒の森に囲まれた彼岸の花園に飛び交う黄色い輝きはホタルだろうか。この世のものとは思えぬ幻想的な風景を目の当たりにした彼は、ただただ息を飲んで立ち尽くす以外に術が無い。
考えようにも頭の中は白一色だった。記憶の糸を手繰ろうとしても、目覚めるまでの出来事が何一つ思い浮かばない。まるで、今この瞬間に生を受けたかのような、なんとも気味の悪い感覚に陥っていた。ふと我が身を確認してみると、白い道着に紺色の袴を履いている。
何よりも視線を釘付けにしたのが、腰の帯に差された蒼い柄の一刀だった。
刃渡りおよそ三尺。
腰差しの「打刀」ではあるが刀身の拵えや反り等は「太刀」の色を濃く残しており、飾り気の無い黒い鞘に金色の鍔、柄頭は鈍い銀色だった。
一体全体何があってこんな格好をしているのか。
否、そもそも自分自身が何者なのかも分からない彼の黒い瞳に激しい動揺の色が濃く浮かんでいると、不意に全身を矢で貫かれたような感覚が駆け抜けた。
咄嗟に闇に覆われた森の奥底を睨むと、無数の黄色い眼が彼を捉えている。
獰猛な殺気だった。およそ人間が放つことができるものではなく、彼は本能的にあれが森に潜む獣たちであると悟った。どうやら此処は彼らの食卓らしい。生きるために餌を喰らうのは道理だが、かといってむざむざと喰われてやるほどお人好しでもない。
彼は額に溢れる冷や汗を拭うこともなく、まっすぐに彼らの視線を睨み返した。
途端に空腹に耐えかねた獣たちが木々の間から飛び出してくる。
背に六枚の翼を生やした者、頭に三本の角を生やしたもの、無数の足で地を這うものなどなど、すべてが異形であり、すべてが飢えに苦しんでいた。彼らを支配し、突き動かしているものは偏に空腹だ。久方ぶりに食卓へ迷い込んだ新鮮な肉を、骨の髄までしゃぶりつくしてしまいたいという欲求の塊だ。あっという間に獲物を取り囲んだ彼らは、この生きた食物をどのように味わってやろうかと考えながら、じりじりと距離を詰めてくる。
そして彼の背後にいた四本腕の怪人が、彼の頭蓋めがけて飛びかかった。
このまま頭を粉砕し、心の臓が動いているうちに食らってやろうという腹づもりだったようだ。その願いも、彼が放った青白い閃光によって無残にも打ち砕かれた。
彼が振り向きざまに鞘から抜き払った刃は、獣の伸ばした左腕の一本を、まるで豆腐を切るが如く両断し、痛みを感じないままに腕を失った獣が混乱している隙をついて、その太首を刎ね飛ばした。さあ、驚いたのは獣たちである。まさか食物に一刀両断されるとは夢にも思っておらず、刃を滴る赤黒い血を振り払った彼は他の者たちをギロリと睨む。
だが誰よりも驚いているのは彼自身だった。
全く意識していなかった。殆ど直感で体が反応し、気がついた時には獣の首が宙を舞っていた。自分では無い誰かが体の中にいるようだ。
とても気持ちが悪い……。
などと身震いする間にも、獣たちは続々と襲いかかってきた。
彼は本能が告げるままに体を動かし、刃を振るい、敵の翼を切り落とし、心臓を刺し穿ち、首を刎ねていく。腰を低く落とし、包囲された中を縦横無尽に踏み込む其れは正に絶技だった。
何時しか十余いたはずの獣たちは残り三匹になっていた。
骸は二分、三分されて彼岸花の肥やしとなっている。
彼は刀を正眼に構えたまま残り三匹を睨み、威嚇と思って深呼吸した後に叫んだ。
「どうした! かかってこい! この俺を食いたいのだろう!」
すると驚いた獣たちは一目散に森の中へ逃げ出した。仲間の骸を口に咥え、何度も彼の様子を振り返りながら暗闇の中へ消えていく。もはや何の視線も殺気も肌に感じず、ようやく危機が去ったと理解できた途端に彼は腰から力が抜け、花園の中に座り込んでしまう。
呼吸が乱れ、刀を握った手が石のように固まってしまい、手放すことができない。
彼は手の甲で滝のように滴る汗を拭い、刃に流れる血を袖で拭って鞘に収め、足腰に活を入れて立ち上がった。行きたくは無いが森に入らなければ始まらない。
試しに頬を抓ってみたが、やはり、痛かった。
出来れば夢であって欲しかった。しかし獣たちを斬った手応えといい、この痛みといい、此処が夢幻の世界ではないことを痛感した彼は、足取り重たく木々の間を分け入っていく。
無論道など分からない。そもそも人間が通る道など無い。途方もなく彷徨う姿は、獣たちからすれば格好の獲物であったろうが、先の一件を見た彼らは一定の距離を保ったまま追跡してくるだけで手を出そうとはしない。隙を伺っているのだろう。彼もそれを感じ取り、歩くときも休む時も決して気を抜くことはしなかった。
もうどれほど歩いたことだろうか。同じ場所をグルグルと巡っているような気すらしてきた。歩けど歩けど同じような木々の景色と暗闇だけが広がり、一向に出口が現れない。
段々と腹も減ってきた。喉も乾いた。これではいずれ行き倒れて、背後に忍び寄る者達の糧となってしまう。わけも分からず死にたくはないとため息を吐く彼が、再び歩を進めようとしたとき、不意に視界が黒一色に染まった。元々森を覆っていた薄い暗闇などではなく、はっきりとした漆黒が彼の周囲に漂っていた。
警戒して刀の柄に手を掛けた時――。
「わはー」
と、警戒心が一気に緩むような可愛らしい声色が耳に響いた。
てっきり先の異形どもかと思っていた彼が訝しげに周囲を見渡すと、突縁目の前に金色の髪の少女が顔を覗かせた。
「うあっ!」
思わず情けない声をあげてしまい、少女から半歩身を引く。そんな彼の反応が余程可笑しかったのか、少女は両手を左右に広げてニコリと笑った。その華奢で幼い体に黒い服とスカートを纏い、肩まで伸びた金髪に赤いリボンを結った少女は、驚くべきことにふわりと宙に浮遊しているではないか。
彼は生唾を飲み込んで、少女の紅い眼を正面から見据える。見た目は可愛らしいが実質は先の連中と同じなのだろう。あるいは先の連中が油断させるために容姿を変えているのかもしれない。などと考えを巡らせている彼に、少女はその小さな唇を開いた。
「ねえ、聞いてもいい?」
「な、何を?」
「あなたは食べてもいい人間?」
なんと単刀直入な問いだろう。彼は呆気にとられて暫し言葉を忘却してしまった。
だがその言葉の真意の恐ろしさに気づき、少しだけ不敵な笑みを浮かべて答える。
「俺なんか食べたら腹を壊すぞ?」
「そーなのかー……」
彼の答えを聞いた少女はシュンと顔を曇らせた。まさか今の答えで納得したのだろうか。
だとすると何て素直で純真な捕食者だ。これでは獲物に逃げられて空腹になっても文句は言えない。もはや恐怖も何もあったものではなかった。彼は指を咥えてフワフワと浮く少女が妙に哀れに思え、逃げることもなく言葉を交わすこととした。
「腹が減っているのか? これだけの森なら、木の実とかキノコとかあると思うけど」
「わたし、人喰い妖怪だから」
妖怪という単語に彼は眉をぴくりと動かした。成る程、あの怪物たちを言い表すならば妖怪という言葉が一番しっくりくる。そして、彼女のような人の形を象っている者もいるのだと彼は学んだ。
彼女の場合、妖怪というよりは幼怪といった方が正しいのだろうか。
ともあれ積極的に危害を加えるつもりがないなら、こちらも刃を振るう必要はない。
少しばかり、安心した。
「人間しか食べられないのか?」
「違うよ~。でも人間を食べないと大きくなれないの」
どうにも話が噛み合わない。ただ、とりあえず人間だけ食べて生きているわけでもないようだ。彼は一先ず胸を撫で下ろし、先の花園に異形たちの骸が転がっていることを思い出してそれを彼女に告げた。
「向こうの花園に化け物の肉が転がっているぞ。まだ残っていれば、だけど」
「そーなのかー。じゃあ探してみる~。ところで、貴方はだぁれ?」
誰かと聞かれて彼は言葉に詰まった。相変わらず記憶の引き出しが見当たらず、一体自分が何者なのか見当がつかない。名前すら分からないというのは非常に歯がゆく、それでいて気持ちが悪い。実態のない蜃気楼になったような気分だ。
「……分からない。ただ、人間だと思う。思いたい」
「そーなのかー」
「それを聞く君は、誰?」
「わたしはルーミア。でも、こんな森の奥にいる人間なんていないよ? 迷子なの?」
「目が覚めたら、あの花園にいた。迷子といえば、間違いないと思う。帰るべき家があるのかどうかも分からない。でもできることなら、人間に会いたい。もう妖怪に襲われるのはこりごりだ」
「じゃあ、食べ物の場所を教えてくれたお礼に、人間の住処に案内してあげる。ちょっと待っていて」
と、ルーミアは軽やかに木々の間を飛翔し、花園に転がる妖怪の腕を抱えて彼の元へ戻ってきた。見た目が幼く可愛らしいだけに、柔らかな頬に血を滴らせながら生肉を頬張る姿は中々おぞましい。彼が呆気に取られている間にも、ルーミアは手招きしながらとある方角を目指して飛ぶ。慌てて彼女の後に続き、並びあって進む二人は森の静寂とは無縁で、特に彼の疑問にルーミアが答える様相を呈していた。
曰く、ここは幻想郷という土地だという。
現代社会から忘れられた、神、妖怪、妖精などが人間と共に生き、時に争い、時に笑いあう奇妙なバランスによって保たれた世界だという。もちろんただの人間が神や妖怪に敵うはずもなく、大抵は彼らの糧となることが多い。ただ例外もある。人間の中にも妖怪退治を専門としている者もいれば、魔術を研究して魔法使いとなった者もいる。
かつてルーミアも空腹のあまり人間を襲い、懲らしめられたことがあるという。
大変な世界に来てしまったと彼は心中穏やかではなかった。
とても生き残れる自信がない。そもそも自分の記憶すら定かではないのだ。
せめて名前くらい覚えていて欲しかった。これから人間に会うのならば、まずは自分の名前を考えなければならないようだ。名無しの権兵衛というのも間抜けすぎる。
などと考えている間にルーミアの歩が止まった。
気づけば周囲が明るくなっている。木々の葉から太陽の輝きが溢れ、二人の前に小さな一軒家が佇んでいる。
白壁の一階建てで、屋根から突き出た煙突から灰色の煙が立ちのぼっていた。確かに人の気配がする。
「ここに人間が住んでいるのか?」
「うん。悪い人間じゃないから大丈夫だと思う。じゃあ、わたしは帰るね」
「そうか。ありがとう、ルーミア。助かったよ」
「わたしもお腹いっぱいになったから、お互い様なの。じゃあね~」
何度も手を振って森の中へ消えていったルーミアを見送った彼は、さて、と小さくつぶやいて家のドアをノックした。何と名乗り、何を求めるべきなのか……それすら彼にはわからなかった。誠におかしなことだと自らをあざ笑う。
すると家中からバタバタと騒がしい足音が聞こえた。
「新聞はお断りだぜ! あと取材もな!」
聞こえたのは女性の声だった。先ほどのルーミアと比べれば少しだけ年上のようだが、それでも少女の雰囲気が色濃い。そして来客を誰かと思い違いしているようだ。
彼は驚きながらも声を張り上げる。
「ごめんください! 通りすがりの者ですが、出来れば助けてください」
「助けてくれだってぇ? 一体誰が――」
さすがに様子がおかしいと気づいたのか、家主が扉をあけて来客の姿を見ると一秒と経たないうちに扉を閉めた。肩をビクッと震わせ、眼を丸く見開いて扉を閉めた姿は、まるで化け物を見たかのような反応ではないか。少なからず彼がムッとしていると、再び扉がゆっくりと開かれた。その手には八角形の小さな黒い何かを握り締めている。
「お、おいおい! うちには金目のものなんか無いぜ? 強盗するなら他所で頼む!」
「失礼な奴だな。俺は強盗なんかじゃないぞ」
「じゃ、じゃあ何で顔中が血まみれなんだよ!?」
「え?」
言われて頬に手を這わせてみると、指先にべっとりと黒く酸化した血がまとわりついた。
そういえば妖怪を斬ったときの返り血を拭っていないことに気づき、驚かせてしまったことを詫びて少女に事情を説明した。といっても名前も身分も分からない血まみれの男が信用されるものかと半ば諦めていたが、意外にも少女は家の中に入れてくれた。
玄関にて靴を脱いでスリッパに履き替えていると、彼女は手ぬぐいを濡らして投げ渡す。
「とりあえずその血を拭えよ。悪鬼みたいだぜ?」
「ありがとう」
顔を拭いてさっぱりとした気分になりながら家の中を伺うと、木製の棚や衣装箪笥の周囲に様々なガラクタが散乱している。正直に言えば滅茶苦茶に散らかっていた。