Scene7 牧場での治療
インビジブルマンが若草Sで屈腱炎を発症する3週間前、木野牧場ではトランククラフトに続いて2頭目のトランクバークの仔(牡馬)が無事に産まれた(母も無事)。
木野家にとっては、新たな希望が芽生え、一家は大きな喜びであふれていた。
(産まれてきた仔馬は「マイロングロード」と命名された。)
しかしそれから間もなく、彼らはインビジブルマンの右前脚屈腱炎という厄介な問題に直面することになってしまった。
求次はインビジブルマンが牧場に到着すると、早速水につけてしぼった布を患部に当て、治療をした。
さらに彼は治療のために何をすればいいのかについて知るために、相生調教師や星厩舎、さらには武並に電話をかけ、打開策を探った。
その結果、超音波治療器を取り入れることにした。
治療器が牧場に届くと、その日から求次、笑美子、可憐はトランクバーク、トランククラフトの世話をしながら交代で患部に超音波を当て続けた。
ある日の昼下がり、超音波治療を済ませた求次は布で患部を冷やす処理を施した。
そして作業が一息ついて馬房の前で休憩を取ることにした。
すると、そこに可憐が心配そうな表情でやってきた。
「お父さん、まだここにいたの?」
「ああ。何とかしてけがを治し、再び競走馬として走らせたいからな。」
早朝から付きっきりで作業をしていた求次は、明らかに疲れた口調で答えた。
「でも昼ごはんも食べていないでしょ?私、おにぎり作ってきたから食べて。」
「おっ、そうか。それならいただくとしよう。」
「それじゃ私が今から治療をするわね。」
「ありがとう。助かるよ。そろそろ布を交換する頃だから、頼んだぞ。」
「うん、分かった。」
可憐はそう言うと、おにぎりを食べ始めた求次を横目で見ながら馬房に入っていった。
彼女は求次が食事を終えた頃に馬房から出てきた。
そして彼の左隣に並んで座った。
「ねえお父さん。」
「何だ?」
「インビジブルマン、また走れるようになるの?」
可憐は不安げな表情を浮かべながら問いかけた。
「多分な。治らない程の重傷ではないから。」
「本当に?」
「ああ。逗子騎手があの時とっさに手綱を緩めてくれたから、この程度の症状で済んだようだ。もしゴールするまで追い続けていたら、復帰は不可能になったかもしれんな。」
「じゃあ、その騎手には感謝しなきゃいけないね。」
「そうだな。だからこそ、この馬を再び走れる体にしなければな。今現役なのはこの馬しかいないのだから。」
「確かにそうね。馬が増えて飼い葉代も増えたし、それに今春に行うトランクバークの交配相手のためにお金も必要だし。」
「だからこそ、復帰させねば…。もしそれが叶わなければ、牧場の経営も厳しくなるし、インビジブルマンにとっても不幸な末路をたどることになる。」
「不幸な結末って?」
可憐は顔をしかめながら問いかけた。
「…肉…だろうな…。」
「えっ?」
「そういうことだ。走れなくなったり、結果を残せなくて廃用になった馬は、肉用に処分されてしまうことになる。そんなふうにはさせたくない。」
「この牧場で引退後の面倒を見ることはできないの?」
「それは無理だろうな。」
「どうして?だって大切な家族の一員なんでしょ?廃用になって肉になんてしたくないでしょ?」
「それは確かにそうだが、でも今の牧場にはそんな予算はない。僕だって処分は嫌だが、活躍できなければそうなってしまうのが競走馬の運命なんだ。」
「……。」
求次の言葉に圧倒された可憐は思わず黙り込んでしまった。
「だからこそ、できることは何でもやっていくつもりだ。」
「そうなの…。でも無理だけはしないでね。お母さんも心配していたから。」
「そうか…。分かった…。でもまだやることがあるから、お父さんは馬房に戻ろうと思う。」
求次はどこか弱々しい口調でそう言うとゆっくりと立ち上がり、仕事を続けようとした。
それを見ていた可憐は、父親の様子がどこかおかしいことに気付いた。
「お父さん、もしかして?」
彼女は思わずスクッと立ち上がり、求次の額に手を当てた。
「お父さん、もしかして熱出してる?」
「…かもな。」
求次は否定はしなかったが、それでも馬房に入っていこうとした。
「だめよ、お父さん。こんなところで無理したら!早く家に入って休んでよ!」
「……。」
「お願いだから休んで!後のことは私がやるから!」
可憐は必死に父親を説得した。
「……分かった……。」
求次は最初こそ無理してでも仕事を続けようとしていた。
しかしやがて娘の言葉を受け入れることを決めた。
「…すまないな。迷惑をかけてしまって…。」
「気にしないで。とにかく今は馬のことよりも自分のことを大事に考えてよ。」
「…ああ、そうだな。」
求次は家の方を向くと、重い足取りで歩き去っていった。
可憐はその後、日が暮れるまでインビジブルマンの治療に加えて、トランクバークとトランククラフト、そしてマイロングロードの世話をしていた。
仕事が一区切りついた頃、辺りはすっかり真っ暗になっていた。
彼女がへたり込むように馬房の入り口で座り込んでいると、ふと
「ただいま。」
という声がした。笑美子の声だった。
「あっ、お母さん。お帰り。」
可憐は立ち上がって母親に歩み寄っていった。
「あら、あなたがこんな時間まで作業をしていたの?求次はどうしたの?」
「お父さんは熱出して寝てしまったわ。」
「熱?」
「うん…。」
可憐はその日にあったことを話して聞かせた。
「そうなの…。連日必死に頑張っているからこのままではと思っていたけれど、とうとうダウンしてしまったのね。」
笑美子はため息をつきながら言った。彼女は前からこうなることを予想していたようだった。
「お母さん、どうしよう。お父さんがこんなことになっちゃって…。」
可憐はどうすればいいのか分からず、オロオロするばかりだった。
「心配しないで。私は明日仕事が休みだから、私も求次の面倒を見ながらそちらの仕事に加わるわね。」
「本当に?」
「ええ。一人じゃ心細いでしょ?」
「うん…。」
「それじゃ、もう大丈夫ね。それより可憐。夕飯は食べたの?」
「まだよ。そんな余裕なかったから。でももうお腹ペコペコ。」
「それならちょうど良かったわね。私、スーパーで売れ残った食べ物をもらってきたから、早速夕食にしましょうね。」
笑美子は手に持ったレジ袋を見せながら言った。
「はあい。分かりました。」
2人は自宅の玄関に向かって一緒に歩いていった。
彼女らは食事が済むと一緒におかゆを作り、目を覚ました求次に食べさせてあげた。
翌日、笑美子は馬の世話をするかたわら、求次の看病をしていた。
求次は熱こそまだあったが、昨日よりは幾分元気を取り戻していた。
「笑美子、せっかくの休日なのに心配かけてすまなかったな。」
「大丈夫、気にしないで。私のことより今はあなたが早く元気になることを考えてね。」
「そうだな。早く元気になってまた馬の世話ができるようにならなければな。」
「そうやって意気込むのはいいんだけれど、あなたはこういう時に自分で責任を背負い込んでは無理をするタイプなんだから、気をつけてくださいね。」
笑美子は求次を戒めるような口調で言った。
「ああ…。それでもやっぱり自分の手で少しでも早く屈腱炎を治し、インビジブルマンを競走馬として再び走れるようにしたくてな…。」
「その気持ちは私にも分かるわ。でも、このままでは復帰する前に私達がもたないかもしれないわよ。」
「……。」
「私、自分なりに色々考えたんだけれど、やっぱりインビジブルマンを育成施設に預けた方がいいと思うの。」
「預けてしまうのか?」
「ええ、そうよ。そこなら専門の治療施設もあるし、腕のいい医療スタッフの人もいるわ。それに2歳馬はすでに各厩舎に所属しているし、1歳馬はまだ施設に入る前だから、今なら空きが十分にあるはずよ。」
「…でもそうすると預託料として費用が月30万円かかるからなあ…。」
「確かに今の私達にとってその金額は安くはないわ。でも復帰して1レース勝ってくれれば十分に元が取れるわ。それを考えたら、やっぱり私は預けるべきだと思うの。」
「……。」
求次はなかなか決断できないまま、しばらくの間黙り込んでしまった。
「自分で何とかしたがるあなたにとっては辛い決断かもしれないけれど、ここで無理をして結果的に回復が遅くなれば、不幸なのはインビジブルマンよ。もしこのまま復帰できなければ廃用馬でしょ?」
求次は笑美子の言葉を聞いてはっとした。
(そうだった。僕自身が昨日、可憐にそのようなことを言っていたじゃないか。)
そしてこれまで頭の中にあった迷いは次第に吹っ切れていった。
「分かった。預けることにしよう。それがインビジブルマンにとって吉と出るのなら、そうしてみようか。」
求次は笑美子の説得に納得し、承諾をした。
「それなら、早速育成施設に連絡を取ることにしますが、いいですか?」
「ああ、任せるよ。」
「分かりました。では、可憐にもそのように伝えてきますね。」
笑美子はスクッと立ち上がると足早に部屋を後にしていった。
1週間後、インビジブルマンは求次の手配した馬運車に乗って、育成施設まで送り届けられることになった。
彼は愛馬を自分で復帰させることができなかった悔しさを抱えながらも、笑顔で手を振りながら馬運車を見送った。
名前の由来コーナー その5
・マイロングロード(My Long Road)(オス)… ずっと前に自分で書いた詞のタイトルです。実はこのサイト内でその詞を読むことができます。
注:本編中で可憐が「トランクバークの交配相手のためにお金も必要だし。」と言っていますが、その後、インビジブルマンの預託料を確保するため、この年の交配は結局とりやめになりました。