Scene23 執念
この章の文章を編集している時、厩務員と調教助手の違いについて詳しく調べる機会がありました。
その際、割出翼と野辺山高子の2人は厩務員よりもむしろ調教助手の方が合っているなと思いました。
そのため、彼らは厩務員から調教助手になったという想定で書くことにします。
つきましては2人に対して「厩務員」という表記を外します。
あらかじめご了承ください。
現在相生厩舎では、様々な人達が交代でインビジブルマンの調教を担当していた。
その中で、一番たくさん乗っているのは野辺山高子さんだった。
そしてこれまで乗っていた割出翼君は、これからデビューを控えている若手馬を育てるという役割を担当していた。
「君達、配置転換してから3ヶ月だが、もう慣れたか?」
ミーティングの席で、相生調教師は従業員達の意見を聞いてみた。
「はい、もう慣れました。オープンクラスの馬の走りから色んなことを感じ取りながら、毎週乗っています。」
「僕は2歳馬をオープン馬であるインビジブルマンやナルリョボリョと比較したり、それぞれの特徴を把握しながら乗っています。」
野辺山さんやと割出君を始めとする調教助手、厩務員の人達は自信を持って答えた。
「そうか、ご苦労。これからもその調子で頼んだぞ。それから、何かあったら何でも言ってくれ。」」
「はいっ!」
相生調教師に向かって、割出君は元気よく答えた。
「あの、先生。インビジブルマンの件なんですが。」
野辺山さんは急に何かを思いついたように切り出した。
「何かね?」
「確か今度、新潟大賞典に出走させる予定ですよね?」
「ああ。そのつもりだが、何か気になることでもあったのか?」
「はい。もう7歳という年齢のせいか、ここ最近レース後の体力回復が遅いような気がするんです。ですから私としてはそのレースを回避した方がいいと思っています。」
「脚は無事なのか?」
「今のところ無事です。でもここでレースに出したらまた屈腱炎再発につながるかもしれないので、後で先生にチェックしてもらいたいのですが、よろしいでしょうか?」
「分かった。それではこのミーティングが終わったら早速調べてみることにしよう。」
「ありがとうございます。」
野辺山さんは深々とお辞儀をしながら言った。
彼女と相生調教師は、ミーティングが終わると早速インビジブルマンのところに行き、脚元の検査をした。
その結果、新潟大賞典は回避することになり、木野牧場に短期放牧されることになった。
さらにはレース後の体力回復の衰えを考慮して、今後は1回出走する度に休養することになった。
短期放牧を終えて厩舎に戻ってきたインビジブルマンは、夏競馬で行われるバーデンバーデンカップ(OP、福島、芝1200m)で復帰することになった。
インビジブルマンと野辺山さんは、事前に競馬場入りして追い切りを行った。
一方、これまでほとんどのレースに乗ってきた逗子騎手は、お手馬の一頭であり、これから重賞戦線で活躍が期待されるシュガービートに騎乗することになった。
そのため、相生調教師は代わりの騎手を探すことになった。
結果、彼は女性騎手である弥富 伊予子騎手に依頼することにし、彼女と連絡を取った。
『本当に、私でいいんですか?』
「ああ。ぜひお願いしたい。最もインビジブルマンはすでに7歳で、そろそろ衰えも見えてきているから、勝利までは厳しいかもしれないが、よろしく頼む。」
『分かりました!では精一杯頑張らせていただきますっ!よろしくお願いしますっ!』
弥富騎手は思わぬ騎乗依頼に最初は驚いていたが、すぐに落ち着きを取り戻し、喜んで引き受けた。
彼女はデビューして3年間の間に9勝しか挙げられず、しかも今年からは減量特典がなくなったために騎乗依頼が激減してしまった。
たとえ依頼を受けたとしても平場レースで人気薄の馬にしか乗せてもらえず、勝利どころか入着賞金すらまともに稼げていなかった。
そんな中での依頼だったので、驚くのも無理はなかった。
相生調教師もそんな彼女の窮状を知っており、お情けの意味も込めて依頼をした。
弥富騎手は電話を切ろうとした相生調教師に対し、早速インビジブルマンについて色々質問を浴びせた。
(このチャンス、絶対に逃すものですか!調教師さんにとってはエキシビジョンのつもりかもしれないけれど、私にとっては2度と訪れないかもしれない大チャンスなんだから!)
彼女はそう考えながら、懸命にメモを取り始めた。
電話を終えて次の仕事に取りかかりたいと考えていた相生調教師にとっては、ある意味困ったことだったが、それでも彼女の熱意は十分に感じ取れた。
結局、2人の会話は30分にも及んだ。
弥富騎手は会話が終わると、すぐにインビジブルマンの映像を入手し、血眼になって観察をした。
レースはフルゲート16頭に対して20頭が登録した。
当然4頭が除外されてしまうことになるが、本賞金7100万円のインビジブルマンは除外を気にすることなく出走にこぎつけることができた。
5枠10番のインビジブルマンは斤量53kgと思った以上に軽ハンデになったが、7番人気にとどまった。
どうやら多くの人達は、このレースに勝つことは難しいと考えているようだった。
しかし、インビジブルマンに騎乗する弥富騎手だけは本気で勝つつもりだった。
「相生先生、乗り方について指示はありますか?」
「そうだなあ…。最後の直線も短いし、芝は重馬場なので、積極的に前に行く競馬をしてほしい。」
「では、逃げに出てもいいですか?」
「逃げでもかまわないが、できることなら後続を引き付けながら逃げてほしい。」
「分かりました。」
「他に質問はあるか?」
「ありません。精一杯頑張ってきます!」
彼女は燃えるような瞳で返事をし、パドックへと向かっていった。
1番人気は逗子騎手騎乗で、単勝2.1倍と圧倒的な人気を集めたシュガービート、2番人気はフルーツバスケットの7.0倍だった。
やがて発走時間になり、ファンファーレがなると、各馬は続々とゲート入りしていった。
そして全馬がゲートに入ると、いよいよレースがスタートした。
『発走しました。おっと1頭が大きく出遅れた。出遅れたのは…。』
アナウンサーがゼッケンを見ると、何と5番の馬だった。
『あーーっと!出遅れたのはシュガービートだ!』
同時に会場からは悲鳴にも似た、大きな叫び声が上がった。
一方で、好スタートを切ったインビジブルマン騎乗の弥富騎手は出ムチを一発入れて、一気に先頭に踊り出た。
『先頭に立ったのはインビジブルマン。内には1番のナルリョボリョ。外にはリヴィンラビダロカ。』
『フルーツバスケットは中段より後ろにいます。となりにはスキンヘッドラン。』
『最後方からシュガービート。これで16頭です。』
アナウンサーが一通り馬名を読み上げた頃には、先頭を走っているインビジブルマンはすでに3コーナーを回り切っていた。
(ここまでは順調に来ているわ。外によれることもなく内を順調に回っているし、これならいけるかも。)
弥富騎手はオープンクラスのレースに初めて騎乗したこともあって、今まで経験したことのないプレッシャーを感じながらも、確かな手応えを感じていた。
『先頭はインビジブルマン。リードは1馬身半程。すぐ後ろにはナルリョボリョとリヴィンラビダロカ。』
『フルーツバスケットが順位を上げていく。スキンヘッドランは少し後退。』
『シュガービートはまだ後方のままだ。果たして届くのか?』
インビジブルマンは相変わらず先頭のまま、最後の直線に姿を現した。
(さあ、ここからスパートよ。頑張って!)
弥富騎手は懸命にムチを振るい、馬を走らせた。
すぐ後ろには何頭もの馬が迫っていた。
(お願い!最後まで持って!私に一度くらいスポットライトを浴びさせて!)
彼女はそう心の中で叫びながら、これまでの騎手生活を振り返った。
同期の騎手が次々と勝ち上がっていく中で、自分はなかなか勝てなかったこと。
競馬場に駆けつけた人達から「勝つ気あるのか!」「やる気がないならやめちまえ!」とやじられたこと。
騎乗依頼が一つももらえず、家でテレビを見ながら週末を過ごさざるを得なかったこと。
減量特典がついになくなり、失意の中で真剣に引退を考えたこと。
思えばこれまでの騎手生活と言えば、辛いことばかりだった。
このまま騎手を続けても、いいことなんて一つもないような気がしていた。
だけど、長く苦しい日々の末に、やっとこの大舞台を走らせてもらえるチャンスをもらえた。
このチャンス、絶対に逃したくない!だから…。
だからインビジブルマン、最後までバテないで!どうか私を勝たせて!お願いっ!
弥富騎手は死に物狂いでムチを振るい続けた。
『先頭はまだインビジブルマン!リードは1馬身!ナルリョボリョは後退!』
『すぐ後ろにはリヴィンラビダロカ粘る!外からはフルーツバスケットが追い込んでくる!』
『シュガービートは届かないか!?まだ中段!』
『インビジブルマン、このまま逃げ切るのか!?』
『リヴィンラビダロカ迫る!フルーツバスケットも来た!』
『リヴィンラビダロカ!インビジブルマン!フルーツバスケット差し切るか!?今ゴールイーン!!』
ゴールした瞬間、弥富騎手はこれまで感じたことのないような興奮を覚えた。
(やった!勝ったわ!勝ったわ!これが大舞台を勝つっていうことなのね!)
勝利を確信した彼女は、そう心の中で叫びながらムチを高々と振り上げた。
しばらくしてターフビジョンには、確かにインビジブルマンが半馬身のリードをつけて先頭でゴールに飛び込むシーンが映し出された。
(良かった!どんな辛いことがあってもあきらめなくて。いつかきっと報われる日が来るって信じ続けて、本当に良かった。)
彼女は涙を流しながら関係者エリアに戻っていった。
「おめでとう!弥富さん!」
相生調教師はもらい泣きしそうな表情で出迎えた。
「ありがとうございます…。この恩は…、一生忘れません…。」
彼女はそう言うと、相生調教師の前で顔をくしゃくしゃにしながら泣き崩れた。
レースは2着に4番人気のリヴィンラビダロカ、3着にフルーツバスケットが入り、人気を集めたシュガービートは追い込むも6着までだった。
選んだ馬が惨敗し、手放した馬が勝つという皮肉な結果になった逗子騎手は、悔しさをあらわにしていた。
しかし弥富騎手の姿を見ると、彼女に近寄り、「おめでとう。」とひと言ねぎらいの言葉をかけてあげた。
弥富騎手は記念撮影の時になっても、人目もはばからずに顔をくしゃくしゃにしていた。
かたわらにいる相生調教師、野辺山さん、求次、可憐の4人は優しい目で彼女を見つめていた。「良かったな。君の騎手生活にやっと夜明けがやってきたぞ。」
相生調教師は記念撮影を終えて引き上げる時、馬と一緒に歩く弥富騎手の肩にそっと手を置いて言った。
「ありがとうございます。これで騎手を続けていく自信がつきました。」
彼女は目を真っ赤に腫らしたまま、微笑みを浮かべてそう返した。
この勝利は彼女にとって、一生忘れられない思い出となった。
7歳7月の時点でのインビジブルマンの成績
32戦8勝
本賞金:8300万円
総賞金:2億170万円
クラス:オープン
名前の由来コーナー その18
・弥富… 日本全国にある鉄道の地上駅の中で、最も標高の低いところにある駅です。(標高マイナス0.93m)
・伊予子… 少年ジャンプに連載されていた「邪馬台幻想記」のヒロイン「壱与」を参考にして決めました。この作品は気に入っていたので、短期で連載終了になったのは残念でした。
・シュガービート(Sugar Beet)(メス)… 意味は「砂糖大根、テンサイ」です。ゲームにおいて母馬が植物の名前だったため、仔にも植物の名前をつけようと思い、この名前にしました。この馬もフルーツバスケット同様、当初は後の作品に登場させるつもりでしたが、それだと実力が不釣り合いになってしまうため、結局この作品で登場となりました。




