Scene2 新しい家族の一員
ここは木野牧場。かつて競走馬だった牝馬、トランクバークのいる牧場だ。
今から3年前、牧場の経営者である木野求次という人によって700万円で落札されたその馬は、木野牧場の所有馬として翌年の6月に競走馬デビューをした。
一刻も早く活躍してくれないと牧場が破産してしまうという危機的な状況の中、トランクバークはデビュー戦を見事な走りで勝利した。
その後も懸命に走り続けた同馬は、いくつもの壁にぶつかりながら数々のドラマを演出し、見事に牧場を救ってくれた。
そして4歳の2月に競走馬を引退して繁殖牝馬となったトランクバークは翌月、相手として選ばれた種牡馬に会うために北海道に向かった。
1ヵ月後、仔馬を身ごもったことが確認された後、再び木野牧場に戻ってきた。
求次がセリ市で馬を落札して数日が経った8月のある日、木野牧場では求次の娘で高校3年生の木野 可憐がトランクバークの世話をしていた。
彼女は馬を馬房から出すと、軽い運動のために牧場内を散歩し始めた。
元々気性の荒いトランクバークは、可憐の持つロープを時々引っ張っては嫌がるような仕草を見せた。
「どうしたの?運動したくないの?」
トランクバークは彼女の問いかけに対し、『今日はちょっと体調が…。』とでも言っているかのようにロープを引っ張り、馬房に戻りたそうな仕草を見せた。
どうやら仔馬をお腹に宿していることによるツワリが気になっているようだった。
「だめよ。ちゃんと適度な運動はしないと。でなければあんた自身にも、そしてお腹の中の仔にも良くないわよ。」
可憐はロープを引っ張り返した。
『ヒヒーン(分かったわよ)…。』
トランクバークは渋々そう鳴くと、散歩を続けることに同意してくれた。
15分後、散歩が終わると、可憐はトランクバークと一緒に馬房のところに戻ってきた。
「今日も暑いわね。」
可憐が何気なくつぶやくと、トランクバークもまるで『本当ね。』と言っているかのように『ヒヒーン』と鳴いた。
「分かったわ。今から体を洗ってあげるわね。」
可憐は早速近くに置いてあったホースを蛇口につないだ。
そして蛇口をひねって水を流すと、馬房にホースを持っていき、父親ゆずりの慣れた手つきで馬の体を洗い始めた。
トランクバークは気持ち良さそうに鼻をブルブルと震わせていた。
体を洗い終わると可憐はあふれ出てくる汗をぬぐいながら、馬房の近くに置いてあるペットボトル入りのお茶のところに行った。
そして急ぐようにしてふたを開けると、一気にがぶがぶと飲み始めた。
「はあ…。まだ昼前なのに今日は暑いわね。気温はもう30度くらいかしら。」
彼女はそう独り言を言うと、いくつもの入道雲が浮かんでいる夏の空を眺めていた。
するとその時、牧場の入り口から1台の馬運車が入ってきた。
「あら、一体何かしら?」
彼女は運転席をじっと見た。乗っていた人は求次だった。
車のエンジン音が止まると、求次はドアを開け、運転席から勢いよく降りてきた。
「おお、可憐。いたのか。」
「ええ。お父さん、馬運車で来たってことは、もしかして?」
「そうだ。先日セリで新しく買った馬が牧場に到着したんだ。」
「じゃあ、これから牧場には馬が2頭になるわね。」
「そのとおりだ。ただ、来月の9月には育成施設に移動することになるから、ここにいられるのは1ヶ月くらいになるけどな。」
「そうなんだ。じゃあすぐにお別れになってしまうわね。」
「それでも立派な家族の一員だ。これからはトランクバークに代わってこの馬で生活費を稼いでいくことになるぞ。」
「はあい。それじゃ早速馬を見せて。」
可憐はそう言うと、求次のところに駆け寄っていった。
2人は一緒に荷台のところまで行き歩いていき、一緒にトランクを開けた。
中には1頭の馬がこちらを見ながら立っていた。
「この馬ね。オス?それともメス?」
可憐が問いかけた。
「オス馬だ。セリでは600万円で買ってきたんだ。もう少し値段が上がるかと思ったが、思ったよりも安く買ってくることができた。」
「今度も格安馬ね。」
「まあ、うちの今の予算だったらこれくらいが丁度いいだろう。」
「確かにそうね。牧場が豊かになったとはいえ、まだ高額な馬には手が出せるような状況じゃないから。」
「だが、走ってくれそうな雰囲気はある。結構稼いでくれるんじゃないかと思っているぞ。」
「いくら稼いでくれそうなの?」
「そうだなあ…。1億…かな?」
「そんなに?」
「まあ、それくらい稼いでくれれば御の字だな。」
「じゃあ、私は2億!」
「おいおい。そこまでいったら本当に夢のような話だぞ。」
「いいじゃない。トランクバークの時も夢のような話だったし。」
求次と可憐は楽しそうな表情で会話をした後、一緒に荷台の中に入っていき、ロープを外した。
そして一緒に荷台から出てくると、トランクバークのいる馬房に向かって歩き出した。
「そう言えば、お父さん。」
歩いている途中で、可憐はふと何かひらめいたように問いかけた。
「何だ?」
「名前はもう決めたの?」
「まだ決めてないな。トランクバークの場合は自分で決めたから、今度は笑美子と可憐に決めてもらおうと思っている。」
「本当?じゃあ、私が決めてもいいの?」
「ああ、いいぞ。自分で決めてもいいし、笑美子と相談してもいい。まあ、じっくり考えて決めてくれ。」
「はあい。じゃあ、お母さんが仕事から帰ってきたら早速相談してみます。」
2人は馬房に入ると、早速トランクバークのいる部屋の隣にその馬を連れて行った。
「さあ、ここがこれから1ヶ月の間、お前の過ごす部屋だ。期間は短いが、よろしくな。」
求次は先にその部屋の中に入り、その馬を誘導した。
馬は『ヒヒーン。』と2回鳴くと、喜んで入ってきた。
それはまるで『こちらこそ。よろしくお願いします。』と言っているようだった。
「それじゃ可憐。お父さんはこれから馬運車を返しに行ってくるから、また留守番頼んだぞ。」
「はあい。気をつけて行ってきてね。」
「分かった。」
求次は2頭の馬の世話を可憐に任せると、急ぎ足で馬運車のところに行き、牧場を後にしていった。
その日の夕方、可憐はスーパーのレジ打ちの仕事を終えて帰宅した笑美子と一緒に、馬名について相談した。
30分後、2人の相談の結果、この馬には「インビジブルマン」と名前が与えられた。
木野家とインビジブルマン号の織り成す物語は、ここから始まった。




