Scene17 オーナーの気持ち
この章でも引き続き主語が一人称になっており、インビジブルマンの目線で物語が進行します。
これはScene15~17が元々一つだったためです。
文章にしたところ、内容が予想以上に長くなったため、最終的に3話分の長さになりました。
これまでボクは屈腱炎と闘いながら中京記念(GⅢ)2着、マーチS(GⅢ)3着という成績を残し、1億円以上の賞金を獲得することができた。
元々600万円で落札された馬だけに、これはすごいことなんじゃないかと思う。
現に、厩舎の割出翼厩務員はそう言ってくれていた。
確かにそれはうれしい言葉だった。
しかしどんな言葉をかけられても、重賞を勝たなければボクは所詮重賞未勝利馬だ。
重賞を勝つか勝たないかでは、競馬ファンや関係者の人達の見る目も、その後の競走馬の人生もまるっきり変わってしまう。
それを実感させられることを、ボクは相生厩舎に所属している仲間の馬ナルリョボリョから聞いてしまった。
その内容はこうだった。
『あ~あ、また1頭、競走馬を引退してこの厩舎を去っていく馬が出てしまったなあ…。』
『なあ、ナルリョボリョ。あの馬、アイハヴアドリームはどうなってしまうんだ?』
『さあな。レース中に起きた故障のせいでもう走れなくなった以上、たとえ手術で命を取りとめたとしても、いい人生は待っていないだろうな。』
『それは一体どういうことだ?まさか!?』
ボクは恐る恐るナルリョボリョに聞いてみた。
すると彼は、活躍できなかった馬(特に牡馬)の行く末について詳しく話してくれた。
それは人間が競走馬を生産するだけ生産し、そして容赦なく切り捨てていく、ある意味ヒューマンエゴイズム的な内容だった。
あのアイハヴアドリームも、きっとそうなってしまうんだろうと思った。
彼の話を聞いて、ボクは途端にこれからのことが不安になってきた。
『ナルリョボリョ。ボク達、もし活躍できなかったらこれからどうなってしまうんだろう?』
『…さあな。オレとオマエはどちらもオープン馬だから、重賞さえ勝てば未来が開ける可能性大だろうけれどな。』
『重賞を勝てば、どういう未来が待っているんだ?』
『重賞勝ち馬は引退後にオーナーの牧場で功労馬になったり、脚さえ健在なら乗馬施設で働くという話をよく聞いている。血統が良ければ種牡馬になることもあるそうだ。』
『ふうん…。でもボクは血統が地味だからなあ…。それに屈腱炎も抱えているし…。』
『じゃあ、功労馬になるしかなさそうだな。』
『そうだな…。』
ボクとナルリョボリョはその後も競走馬の行く末について色々話し合った。
それを聞いていくうちに、ボク自身ももしかしたらアイハヴアドリームのように限界まで走らされて、走れなくなったらポイ捨てされてしまうのではないかという気がしてきた。
この気持ちは長い間、ボクの頭の中で付きまとい続けた。
ボクはその後、6月に欅ステークス(OP、東京、ダート1400m)、7月に大沼ステークス(OP、函館、ダート1700m)、8月に阿蘇ステークス(OP、小倉、ダート1700m)に出走した。
しかし結果はそれぞれ5着、12着、9着と振るわなかった。
オープン特別でこの成績ではとても重賞には挑戦させてもらえないだろう。
そう考えると、ボクはさすがにメゲそうになった。
もう限界なのかなあ…。すでに6歳だし、それに脚には常に屈腱炎の不安が付きまとっているし…。
でもここで引退したら、ボクはどうなってしまうんだろう?
木野牧場は経営こそ安定したけれど、引退した馬に関してはどうするつもりなんだろう?
もし牧場で面倒を見るとしても、今年の中山記念を勝ったトランククラフトの方を優先させるだろうし…。
やっぱりボクは限界まで走らされた末に、ブタ箱行きなのかなあ…。
そんな不安を抱えたまま、ボクは木野牧場で放牧に出されることになった。
木野牧場では、笑美子さんと可憐がトランクバークさんの世話をしていた。
2人は「お帰り。」と優しく声をかけながら、疲れていたボクをねぎらってくれた。
しかし彼女らの表情はどこか暗く感じられた。まるで何か大変なことでも起きたようだった。
(何だろう?何があったんだ?)
ボクは不思議に思えてならなかった。
よく見ると、馬房にいるトランクバークさんの表情もどこか暗かった。
ボクは笑美子さんと可憐に連れられて馬房に入ると、隣にいるトランクバークさんに聞いてみることにした。
『あの…、バークさん。』
『何ですか?』
彼女は少し疲れているような口調で応えた。
『どうしてあなたさんも含めて、みんな暗いんですか?』
『実はね…。トランククラフトがGⅡの札幌記念のレース中に故障を発生して競争を中止したの。』
『故障?競争中止!?』
ボクは予想だにしないことを聞き、動揺が静まらなくなった。
今年の中山記念を制したあの馬が…、故障…?
嘘だろ?あの馬が故障なんて…!
『それで…、トランククラフトは…?クラフト君はどうなったんですか?…まさか!?』
『大丈夫よ。何とか一命を取りとめることはできたわ。』
バークさんは続けざまにトランククラフトに起こったことを詳しく説明してくれた。
トランククラフトはその日のうちに緊急手術が行われた。
もし30年以上前だったら、助からなかった可能性が高かったが、医学の発達のおかげもあって手術は成功し、予後不良という最悪の事態だけは何とか回避できた。
そして容体が安定して輸送しても大丈夫な状態になった後、木野牧場に戻ってきた。
身も心もボロボロに傷ついていたトランククラフトは、母親の姿を見ると途端に泣き出し、『助けてお母さん…。痛いよう…、痛いよう…。』と何度も訴え続けた。
トランクバークさんは息子のあまりの変わりように、はじめはどうすればいいのか分からずにオロオロしていた。
しかし彼女は『大丈夫よ。お母さんがついていてあげるからね。』と優しく言いながら、息子に寄り添い続け、懸命に看護をし続けた。
その甲斐もあってか、どうにか落ち着きを取り戻したトランククラフトは今日の朝、再び検査入院のために馬運車に乗って育成施設に向かっていった。
ボクはトランクバークさんの話を聞いて、競走馬に関わっている人々の優しさに感心していた。
しかしそれからすぐに、ナルリョボリョが教えてくれた競走馬の現実について思い出してしまった。
ボク達が現役でいる間、人間達はボク達に優しく接してくれる。
だけど走れなくなれば、人間は手のひらを返したように考えを変えてしまう。
牝馬ならともかく、牡馬なら大半の馬が処分され、哀れな結末を迎えてしまう。
もしかしたら、オーナーである木野さんもそういう行動に出てしまうかもしれない。
今でこそ、ボク達は賞金と牧場経営の安定のために大切に扱われている。
しかし、走れなくなったら最後には彼らの都合で用なし扱いされて、処分されてしまうかもしれない。
現に、ボクが1回目の屈腱炎で休養していた時、復帰できなければ廃用だって言っていたし…。
ボクがそう考えているとトランクバークさんが突然
『インビジブルマン、どうしたの?何故そんなよそよそしいの?』
と、声をかけてきた。
『えっ!?』
ボクはいきなり声をかけられ、思わず驚いてしまった。
『えっと、あの…。』
『隠さなくてもいいわ。何か悩みがあるのなら話してちょうだい。』
『…はい…。』
ボクは戸惑いながらも、トランクバークさんの気持ちに押され、全てを話すことにした。
トランクバークさんはボクの話を真剣に最後まで聞いてくれた。
そして話が終わると、彼女はやさしい表情でボクに語りかけてきた。
『大丈夫。木野さんは競走馬の引退後も十分に考えてくれている人よ。だからそんな心配はしなくてもいいわ。』
『でも昔、彼は「復帰できなければ廃用だ。」って言っていたし…。』
『あの時は、まだ資金が乏しかっただけよ。でもトランククラフトが中山記念を勝って資金も貯まってきたから、もうその心配はないわ。木野さんの話では、あなた達は引退後にこの牧場で功労馬になることがすでに決まっているそうよ。』
『でも、功労馬が保障されているのなら、彼らは何でボクに重賞を勝たせるために頑張らせるんだろう?ボク、いつ現役を続ける限りいつまた発症するか分からない屈腱炎と闘い続けなければならないのに…。』
『それはね、あなた達が稼いだ賞金で、乗馬施設を作りたいと考えているからよ。』
『乗馬施設?』
『そうよ。それが彼らが本当に描いている夢なの。功労馬なら引退後、牧場でただ余生を過ごすだけになるけれど、乗馬施設を作ることができればあなた達は乗馬として働いてお金を稼いでいくことができるから。』
『それなら今すぐ作ってくれればいいのに。』
『できればそうしたいみたいよ。でも功労馬施設ならともかく、乗馬施設を作るためには土地を新たに買い取って牧場を拡張し、さらには新たに従業員を採用する必要があるの。そのためには費用が1億円くらい必要なんですって。だからあなた達に頑張ってほしいのよ。』
トランクバークさんは、木野さん一家が考えていることを包み隠さずに話してくれた。
(そうだったのか。彼らはそんな夢を描いていたのか…。)
ボクは彼女の話を聞いて、木野一家の本当の気持ちを知ることができた。
(それなら何としてもボクは重賞を勝たなければいけないな。大怪我で走れなくなってしまったトランククラフトの分まで。)
トランクバークさんに相談するまでボクの心の中にあった不安はいつしか消えてなくなり、代わりにやってやるぞという気持ちが芽生えていた。
6歳8月の時点におけるボクの成績
26戦6勝
本賞金:4950万円
総賞金:1億3230万円
クラス:オープン
名前の由来コーナー その16
・アイハヴアドリーム(I Have a Dream)(オス)… アメリカで黒人差別と闘ったマーティン・ルーサー・キング牧師の言った有名な言葉です。
なお、この馬はレース中に故障を発生し、生きて帰ってくることはありませんでした。
その時はかなりのショックを受け、エリック・クラプトンの「Tears in Heaven」を聞きながらしばらく途方に暮れていました。




