第7話 光との再会
木村心という強力な裏のバディを手に入れてから数週間後。
俺のペントハウスの書斎にあるマルチモニターには、日々、神崎家の生々しい内部情報が次々と蓄積されていくようになっていた。
天才的なハッキングスキルを持つ心は、俺の期待を遥かに超える働きを見せていた。神崎麗華のプライベートなスマートフォンの通信履歴から、彼女の愛人である黒崎翔が裏で動かしている隠し口座の金の流れ、果ては義母・貴子が行きつけの高級サロンでの交友関係に至るまで。神崎グループという巨大な城の土台が、デジタルの海を通じて少しずつ、だが確実に丸裸にされていく。
俺が莫大な資金を使って表舞台から仕掛ける罠と、心が裏から引き抜く機密情報。この二つが噛み合うことで、神崎家を地獄へ叩き落とすためのチェス盤は、着々とその形を整えつつあった。
だが、他人の人生を破滅させるための泥沼のような作業は、確実に俺の精神を蝕んでいた。
画面に映る麗華や黒崎の傲慢な姿を見るたびに、1周目で受けた屈辱と痛みがフラッシュバックし、腹の底が煮え滾るような憎悪に支配される。復讐の鬼として生きると決めた以上、感情を殺して冷徹に駒を進めるべきだが、時折、自分が人間の心を失ったただの化け物になり果てていくような、底知れない恐怖を覚えることがあった。
だからこそ、確かめたかった。
俺の中にまだ、人間としての温かい心が残っているのかを。
雲一つない、突き抜けるような青空が広がる平日の午後。
スイスで仕立てたチャコールグレーのスーツを身に纏い、俺は都心のオフィス街を一人で歩いていた。目指すのは、神崎グループの本社ビルから歩いて十分ほどの距離にある、裏通りにひっそりと佇む小さな喫茶店だ。
そこは、1周目の記憶の中で、俺が人生で最も凄惨な絶望を味わい、同時に、人生で唯一の『救い』を与えられた場所だった。
レンガ調の外壁に、アンティーク風の木製のドア。看板には『カフェ・ド・ルミエール』と書かれている。
10年前のこの時代でも、その店は記憶と全く同じ姿でそこに存在していた。
ドアの真鍮の取っ手に手をかけると、微かに指が震えた。深呼吸をして、ゆっくりと扉を押し開ける。
カランコロン、と。
ノスタルジックなベルの音が店内に響いた。
焙煎された珈琲豆の深い香りと、かすかに流れる静かなジャズの調べ。昼のピークを過ぎた店内には数人の客がまばらに座っているだけで、穏やかな時間が流れていた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
カウンターの奥から、澄んだ鈴を転がすような声が聞こえた瞬間。
俺の心臓は、肋骨の裏側を強く叩くように激しく跳ねた。
林優香。現在21歳の大学生。
抜けるように白い肌と、どこか神秘的な輝きを宿した大きな瞳。記憶にある『あの氷雨の日』に俺を助けてくれた時の彼女は20代後半だったはずだから、現在の彼女にはまだ数年分の若々しさと、少しばかりのあどけなさが残っている。
しかし、その内面から滲み出る、人を無条件に信じ、寄り添おうとする純度100%の善意。清潔感のあるエプロン姿でカウンターの向こう側からこちらを見つめるその穢れのない空気感は、俺の魂に深く刻み込まれた恩人の姿、その本質と寸分違わぬものだった。
「……あ、お客様?」
俺が言葉を失って立ち尽くしていると、彼女は小首を傾げて不思議そうに俺を見た。
「あ……ああ、すまない。一人だ」
「かしこまりました。お好きな席へどうぞ」
彼女がふわりと微笑む。その裏表のない笑顔を向けられ、俺は胸が締め付けられるような錯覚に陥った。
当然だ。現在の彼女は、俺のことを全く知らない。
あの大雨の日の出来事は、ここから数年後の『未来』に起こるはずだった出来事であり、俺がタイムリープして歴史を変えたことで、その未来は永遠に失われたのだ。
彼女にとって、目の前にいる完璧なスーツを着こなす大富豪『井上健太郎』は、ただ今日初めて店を訪れた見知らぬ客でしかない。
俺は店の隅にある目立たないボックス席に腰を下ろした。
しばらくすると、優香がお冷とメニューを持って俺のテーブルに近づいてきた。
「お決まりになりましたら、お呼びください」
「……ブレンドコーヒーを一つ。それと、もしあれば、温かいミルクを少しつけてもらえるか」
「ブレンドにミルクですね。かしこまりました」
1周目で彼女が淹れてくれたあのコーヒーの味を、俺の舌は完璧に記憶していた。
彼女がカウンターに戻り、慣れた手つきでサイフォンを操る姿を、俺は席からじっと見つめ続けた。
神崎家の女たちが放つ、虚栄心と欲望にまみれたドス黒いオーラとは対極にある、穢れを知らない純白の光。彼女がそこに存在し、息をして、笑っているという事実だけで、俺の心にこびりついていた復讐の泥が、少しだけ洗い流されていくような気がした。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーです」
湯気を立てる純白のカップが、静かにテーブルの上に置かれた。
俺は「ありがとう」と短く礼を言い、カップの取っ手に指をかけた。焙煎の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
一口、口に含む。
雑味のないクリアな苦味と、その奥に隠れたほのかな甘み。1周目で、極度の寒さと空腹、そして絶望の中で震えていた俺の胸の奥深くにまで染み渡った、あの命を繋ぐ温かさと同じ味がした。
どれほどの地獄を味わい、どれほどの莫大な富と権力を手に入れ、どれほど完璧な容姿に生まれ変わっても。俺の魂を本当に救ってくれたのは、あの日の彼女の優しさと、この一杯のコーヒーだけだったのだ。
視界が不意に滲みそうになり、俺は慌てて目を伏せた。
感情を殺す訓練は嫌というほど積んできたはずなのに、彼女の淹れたコーヒーの温もりは、俺の強固な理性の防壁をいとも簡単に溶かしていく。
俺はミルクを少しだけ注ぎ、ゆっくりと時間をかけてその一杯を味わった。
会計のためにレジへ向かうと、優香が丁寧にお釣りを渡してくれた。
「ありがとうございます。……あの、もしかして、この辺りでお勤めですか? 初めてお見かけしたような気がして」
彼女は、ただの世間話として、無邪気な瞳で俺に尋ねてきた。
俺のような目立つ身なりをした男がこの地味な喫茶店に一人で来るのが、少し珍しかったのだろう。至近距離で見つめられ、彼女のほのかなシャンプーの香りが鼻をかすめる。
「ええ、少しこの近くまで来る用事があってね。歩き疲れていたんだが、君が淹れてくれたコーヒーのおかげで、とても良い休息になったよ」
俺は感情の揺れを完全に隠し通し、洗練された大人の男としての穏やかな微笑みを返した。
「ふふっ、ありがとうございます。店長がこだわって焙煎している豆なんです。もしお口に合いましたら、またいらしてくださいね」
その屈託のない笑顔に、俺は一瞬だけ、全てを打ち明けて彼女を抱きしめたいという強烈な衝動に駆られた。
『俺は、君に助けられた神崎修平だ』と。
だが、そんなことは絶対に許されない。
今の俺は、他人を欺き、人生を破滅させるための罠を張り巡らせる、血塗られた修羅の道を歩く化け物だ。彼女のような純粋な光に、俺の薄汚い手が触れれば、彼女のその美しい世界まで黒く汚してしまうことになる。
大人の色気を纏った『井上健太郎』という男の魅力で彼女を誘惑することは、今の俺の容姿と話術をもってすれば、おそらく容易いだろう。だが、それだけは絶対にやってはならない。彼女だけは、俺の復讐という名の狂気から、完全に遠ざけておかなくてはならない。
「ああ。とても美味しかった。また来させてもらうよ」
俺は誰に対しても見せたことのない心からの笑みを向け、静かに店を後にした。
ドアを閉め、初夏の眩しい陽射しの中へ足を踏み出す。
振り返ることはしなかった。
胸の中には、確かな温もりが残っている。俺の中にまだ人間としての感情が残っていることを、彼女の存在が証明してくれた。
(君の平穏な日常は、俺が陰ながら全力で守り抜く。誰にも、指一本触れさせない)
それが、彼女に対する俺の唯一の恩返しであり、贖罪だ。
そのためにも、俺は一刻も早く、あの神崎家という癌細胞をこの世から切除しなければならない。
優香のいる喫茶店から遠ざかるにつれ、俺の顔から穏やかな笑みは消え失せ、冷酷さを湛えた復讐鬼の貌へと戻っていく。
さて、優香という光からエネルギーは十分に補給した。
次は、神崎家の懐に潜り込むための『表の駒』を手に入れる番だ。俺はスマートフォンを取り出し、心から送られてきた「ある人物」の調査ファイルを開きながら、次なる狩場へと向かって歩き出した。




