第6話 天才ハッカーとの接触
深夜2時。東京の夜景を見下ろすペントハウスの書斎で、静寂を破るようにマルチモニターのひとつが微かなアラート音を鳴らした。
グラスの底に残った琥珀色のウイスキーを飲み干し、俺は革張りのチェアをモニターへと向ける。
画面には、俺がダークウェブ上に構築したダミーサーバーへのアクセスログが、無数の緑色の文字列となって滝のように流れ落ちていた。
「……来たな。随分と慎重だが、食い意地は張っているらしい」
侵入者の手口は、17歳の高校生とは思えないほど洗練されていた。複数の海外プロキシを経由し、IPアドレスを数秒ごとに偽装しながら、俺が餌として置いた『神崎グループの裏帳簿の一部』が眠る深層ディレクトリへと、音もなく近づいてくる。神崎家の専属セキュリティ業者が束になっても防げなかったというのも頷ける、天才的なハッキングスキルだ。
だが、相手が罠の存在に気づくよりも早く、俺は無造作にエンターキーを叩き、あらかじめ組んでおいた迎撃プログラムを起動させた。
スイスに滞在していた数年間、俺は元諜報機関のサイバーセキュリティ専門家を大金で雇い、あらゆるトラップの構築手法を学んでいた。侵入者が目当てのファイルをダウンロードしようとクリックした瞬間、不可視のプログラムが逆流し、相手のデバイスの制御を瞬時に奪い取る。
『Connection Lost(接続切断)』
相手の画面にはそう表示されているはずだ。焦った侵入者が強制終了を試みようとした直後、俺は相手のデバイスの画面に、直接テキストメッセージを強制表示させた。
『神崎の裏帳簿の続きが見たければ、明日の夜20時、指定の場所へ来い。逃げれば、木村心という存在を神崎家に売り渡す』
一方的な通告と共に、俺のペントハウスの住所と入館用のワンタイムパスコードを送信し、接続を完全に遮断した。
これでいい。彼女ほどの頭脳があれば、自分が完全に特定され、逃げ道がないことを正確に理解したはずだ。
翌日の夜20時ちょうど。
ペントハウスの堅牢な玄関ドアのチャイムが、短く一度だけ鳴った。
エントランスのセキュリティシステムを解除し、ドアを開ける。そこに立っていたのは、警戒心で全身を強張らせた一人の少女だった。
プラチナブロンドに染め上げられた長い髪。ハイブランドの偽物と思しきオーバーサイズのジャケットに、ストリート系のダメージデニムという、エッジの効いたファッション。年齢に似合わない大人びたメイクを施しているが、俺を睨みつける挑戦的な瞳の奥には、隠しきれない十代特有の焦燥と怯えが滲んでいた。
「よく来たな。入れよ」
「……あんたが、あの罠を仕掛けた張本人?」
木村心。神崎グループ会長の隠し子であり、一族から存在を抹消された少女。
彼女は部屋に一歩踏み込むなり、コートのポケットに右手を突っ込んだまま周囲を鋭く見回した。おそらく、スタンガンか小型のナイフでも握りしめているのだろう。
俺は彼女の警戒を気にも留めず、静まり返った室内の奥にあるアイランドキッチンへと歩を進めた。
「武器は必要ない。俺はお前の敵ではないからな」
「笑わせないで。神崎家の裏帳簿を餌にして私を釣り上げた奴が、敵じゃないって? 神崎のババアに頼まれた始末屋か何か知らないけど、私を甘く見ない方がいいよ。私が一定時間システムにアクセスしなければ、神崎グループの末端サーバーから盗み出した顧客データと社内不倫の証拠が、マスコミ各社に一斉送信されるデッドマンズ・スイッチを仕掛けてある」
「始末屋? 買い被りすぎだ。俺はただの投資家だよ。それに、お前のそのスイッチが作動したところで、神崎家にとっては手痛いスキャンダルにはなるだろうが、一族の根幹を揺るがす致命傷にはならない。だからこそお前は、俺が提示した本物の『裏帳簿』の存在に飛びついたんだろう?」
俺はオープンキッチンのカウンター越しに彼女を見据え、薄い笑みを浮かべた。
「木村心。神崎グループ会長と愛人の間に生まれ、本妻である貴子によって母親を社会的に抹殺された少女。お前は『汚らわしい血』として一族から日陰に追いやられ、その復讐のためにハッキングで神崎家の内情を暴こうとしている。……違うか?」
「……ッ、どこまで調べて……!」
図星を突かれた心は、一瞬だけ息を呑み、さらに鋭い目つきで俺を睨みつけた。
「怯えるなと言っている。俺の目的は、神崎家を地獄の底まで叩き落とすことだ。その点において、俺たちの利害は完全に一致している」
「……あんたが、神崎を潰す?」
心は疑念の目を向けながらも、少しだけポケットの右手の力を抜いたようだった。
「その前に、夕食はまだだろう。座れ」
俺は顎でダイニングの椅子を指し示し、手元のコンロに火を入れた。
彼女の細い体つきと、少し荒れた肌の質感。おそらく、普段はパソコンに張り付き、ジャンクフードかエナジードリンクだけで腹を満たすような劣悪な食生活を送っているはずだ。
フライパンに少量のオリーブオイルを敷き、分厚く切った極上のパンチェッタを弱火でじっくりと炒めていく。肉から溢れ出す甘い脂の香りが、広々とした空間にふわりと漂い始めた。心は戸惑いながらも、その暴力的なまでに食欲をそそる香りに抗えず、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。
ボウルに新鮮な卵黄を落とし、大量のパルミジャーノ・レッジャーノを削り入れる。そこに粗挽きの黒胡椒をたっぷりと加え、濃厚なソースを作る。茹で上がったパスタをフライパンに移し、パンチェッタの旨味が溶け込んだ脂と絡ませ、最後に火から下ろして卵黄のソースを手早く和える。
絶対的な温度管理。卵が固まらないギリギリのラインで熱を通し、黄金色に輝く本場ローマ風のカルボナーラを一瞬で仕上げた。
「食え。腹が減っていては、まともな交渉はできない」
湯気を立てる皿を目の前に置かれ、心は「毒でも入ってるんじゃないの」と悪態をつきながらも、フォークを手に取った。
一口食べた瞬間、彼女の反抗的な瞳が、驚きで見開かれた。
「……なにこれ」
「ただのカルボナーラだ。生クリームは使っていない」
「こんなの……食べたこと、ない……」
濃厚なチーズのコクと、卵黄のまろやかさ、そしてパンチェッタの塩気と胡椒のパンチが完璧なバランスで調和している。ジャンクフードしか知らない17歳の味覚にとって、それは脳髄を直接揺さぶるような圧倒的な旨味だったはずだ。
心は警戒を忘れ、あっという間に皿を平らげた。食後の温かいハーブティーを出すと、彼女はふうと息をつき、ようやく年相応の無防備な表情を見せた。
「……胃袋を掴んで、私を懐柔しようって魂胆?」
ティーカップを両手で包み込みながら、心は上目遣いで俺を見た。
「そうだと言ったら?」
「悪くない手だね。でも、私はそんなに安くないよ」
彼女は再び大人びた冷笑を浮かべ、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「あんたのこと、ここに来る前に私なりに調べさせてもらった。イノウエ・キャピタルCEO、井上健太郎。シンガポールを拠点にする若き大富豪……表向きの経歴はね」
「ほう?」
「でも、私が海外のデータベースまで潜って洗った結果、あんたの戸籍や過去の経歴には、一切の傷がなかった。……完璧すぎたのよ。SNSの裏垢も、過去の同級生のネット上の書き込みも、何一つ存在しない。まるで数年前に突然この世に湧いて出たみたいに、デジタルの生活痕跡が綺麗すぎる。それがハッカーの私からすれば逆に不自然なのよ。あんた、一体何者なの? その整った顔も、本当の顔じゃないでしょ」
さすがは天才ハッカーだ。俺が莫大な金を使って裏社会で作り上げた完璧なカバーは、通常の興信所や警察の調査すら跳ね返すほど強固なものだ。だからこそ、神崎家の調査が入っても絶対にボロは出ない。だが、ネットの深淵を知る彼女のハッカー特有の嗅覚は、「完璧すぎるがゆえの人間味のなさ」という違和感に、わずか一日で気づいてみせたのだ。
だが、俺がかつて神崎家に虐げられ、殺された『神崎修平』であることまでは、絶対に辿り着けない。それはタイムリープという、この世の物理法則を超越した事実なのだから。
「俺の正体が何であれ、お前には関係のないことだ。重要なのは、俺が神崎家を完全に破壊する意志と、それを実行するだけの途方もない資産を持っているという事実だけだ」
俺は彼女の正面に座り、両手を組んだ。
「お前一人でいくら末端のサーバーを攻撃したところで、神崎という巨大な城はびくともしない。だが、俺の資金力と表舞台での立ち回り、そしてお前の裏の情報収集能力が合わされば、あの城を内側から跡形もなく崩落させることができる。どうだ?」
心は黙って俺を見つめ返した。
大人の男に対する警戒心と、自分の復讐を果たせるかもしれないという期待。ふたつの感情が、彼女の大きな瞳の中でせめぎ合っている。
やがて彼女は、ティーカップをことりとソーサーに置き、ふっと不敵な笑みを漏らした。
「……いいよ。乗ってあげる。その代わり、神崎のババアと麗華が、全てを失って泥水すする姿を特等席で見せてよね」
「約束しよう。お前には、俺の『目』と『耳』になってもらう。神崎麗華のプライベートな通信履歴、一族の口座の金の流れ、黒崎翔の裏の繋がり……全てを洗い出せ」
「了解。それくらい、私にかかれば息をするより簡単だよ、健太郎……さん」
生意気な口調で、心は右手を差し出してきた。
俺はその小さく細い手を、力強く握り返した。
冷酷な復讐を誓う大人の男と、一族を激しく憎む天才女子高生。
孤独と憎悪という同じ闇を抱えた者同士による、危うくも強力な共犯関係――最強の『裏のバディ』が成立した瞬間だった。
チェス盤の最も鋭利な駒であるナイトを手に入れた俺は、いよいよ本格的に、神崎麗華という傲慢なクイーンの喉元へ刃を忍ばせる準備に入る。




