第5話 ゲームの始まり
羽田空港のVIP専用ターミナルに降り立った俺を、重い氷雨が出迎えた。
黒塗りのマイバッハの後部座席に滑り込むと、運転手が恭しくドアを閉める。防音の行き届いた車内は完全な静寂に包まれており、窓ガラスを叩く雨音だけが微かに聞こえていた。
外の景色は、あの日――俺がひしゃげた軽自動車の中で血を吐き、無慈悲に殺された夜と同じように、凍てつくような雨に沈んでいる。しかし、今の俺は雨に打たれて震えることも、誰かに惨めに命乞いをすることもない。最高級のレザーシートに深く身を沈め、適温に保たれた空間で静かにグラスを傾けている。
10年という歳月を遡り、さらに数年間の地獄のような自己研鑽と莫大な富の蓄積を経て、俺はついにこの国へ帰ってきたのだ。
「……変わらないな、この街は」
窓の外を流れる東京の夜景を見つめながら、俺は低く呟いた。
向かった先は、港区の一等地にそびえ立つ超高級タワーマンションの最上階、ペントハウスだ。数百億円という資産を持つ俺にとって、数億円の物件をキャッシュで一括購入することなど、チェスの駒をひとつ盤に置く程度の痛痒もない行為だった。
広大なリビングルームの壁一面はガラス張りになっており、眼下には東京の街並みが光の海のように広がっている。そしてその中心付近に、忌まわしい『神崎グループ』の本社ビルが、傲慢な巨塔のようにそびえ立っていた。
「いい眺めだ。あそこから叩き落とせば、さぞ良い音が鳴るだろうな」
俺は薄い笑みを浮かべ、ジャケットを脱ぎ捨ててキッチンへと向かった。
数千万をかけてオーダーメイドで設えたアイランドキッチンは、海外の三ツ星レストランにも引けを取らない設備が整っている。
俺は冷蔵庫から、最高級のフランス産鴨胸肉を取り出した。皮目に数ミリ単位の正確さで細かく切れ目を入れ、まだ火にかけていないフライパンに乗せて、極弱火でじっくりと脂を引き出していく。
神崎家の薄暗いキッチンで、理不尽な暴力に怯えながら包丁を握っていた過去の俺は、もういない。今の俺にとって料理とは、ターゲットの胃袋と精神を支配し、破滅へと導くための鋭利な『武器』だ。
溢れ出た鴨の脂をスプーンで何度も肉に回しかけながら、中心部を美しいロゼ色に仕上げていく。並行して、バルサミコ酢とオレンジの果汁、そして赤ワインを煮詰め、艶やかなソースを作り上げる。
無駄のない、流れるような所作。かつての俺が生きるために強いられた惨めな作業は、スイスの天才シェフの教えによって、相手を魅了するための残酷で美しい芸術へと昇華されていた。
完成した鴨のローストに、セラーから出した2005年物のヴィンテージワインを合わせる。
一人きりの広大なダイニングテーブルで、自ら作った極上の料理を口に運びながら、俺は傍らに置いたタブレット端末の画面をスクロールした。
画面に映し出されているのは、現在の神崎家の動向だ。
この数年間、俺は海外の投資ファンド『イノウエ・キャピタル』の若きCEOとして、莫大な外資を動かす投資家としての絶対的な地位と経歴を構築してきた。日本の経済界隈でも、「シンガポールとスイスを拠点にする、正体不明の凄腕日本人投資家」として、すでにいくつかの経済誌で噂になり始めている。
神崎グループもまた、この数年で事業を拡大し、順風満帆な様子だった。
画面には、経済ニュースのインタビューに答える神崎麗華の姿がある。俺が知る10年後の姿よりも少しだけ若いが、その傲慢に満ちた瞳と、他者を見下すような薄ら笑いは、記憶の中の悪魔そのものだった。
そしてその隣には、神崎家の威光を借りて政界進出を企む黒崎翔の姿も確認できる。
「今の俺は、お前たちにとって『どこの馬の骨とも知れない孤児の修平』ではない」
ワイングラスを揺らしながら、俺は深紅の液体を喉に流し込んだ。
「数百億の資本を持ち、どんな権力者も無視できない謎の大富豪、『井上健太郎』だ。さあ、どうやってお前たちの喉元を食い破ってやろうか」
神崎家を完全に崩壊させるためには、単に外側から金をぶつけるだけでは足りない。奴らの社会的地位、プライド、人間関係、そして隠し持っている汚い秘密の全てを白日の下にさらし、内側から腐らせていく必要がある。
そのためには、神崎家の『内部情報』を自由に操れる強力な手駒が必要不可欠だった。
帰国から数日後。
俺は都内の超高級ホテルで開催された、財界の有力者たちが集うシークレットな投資家パーティーに足を踏み入れた。
スイスで一流のテーラーに仕立てさせた、あの濃紺のオーダースーツを身に纏い、俺が会場に姿を現した瞬間、ざわめきに満ちていたホールが一瞬だけ静まり返った。
「あれが……噂のイノウエ・キャピタルのCEOか?」
「なんて整った顔だ。まるで映画俳優じゃないか」
「いや、ただの美男子じゃない。あの目を見ろ……獲物を値踏みするような、ただ者ではない空気を纏っている」
囁き声が波のように広がる中、俺は誰に媚びることもなく、悠然とした足取りでフロアを進んだ。シャンパングラスを片手に、挨拶に群がってくる企業の重役たちを、洗練された話術とビジネスライクな笑みで適当にあしらう。
その視線の先に、ターゲットを見つけた。
会場の中心付近で、取り巻きの経営者たちに囲まれて得意げに笑っている神崎麗華と、その傍らに立つ義母の貴子だ。
(……見つけたぞ、ゴミ共)
胸の奥でドス黒い憎悪が煮え滾るのを感じたが、俺の表情の筋肉は一ミリたりとも動かなかった。感情を完全に排したポーカーフェイス。スイスでの地獄の訓練は、俺の精神をコントロールする術を完璧に叩き込んでいた。
俺はあえて、彼女たちのグループには近づかなかった。
麗華のようなプライドの塊の女には、こちらから頭を下げるのは逆効果だ。彼女自身に「あの男はどうして私に挨拶に来ないのか」と強烈に意識させなければならない。
談笑の合間に、ふと麗華の視線がこちらを捉えたのが分かった。
見知らぬ、しかし会場の誰よりも目を引く美男子の存在に気づき、彼女の瞳に明らかな興味と欲情の色が浮かぶ。彼女は扇情的な笑みを浮かべ、軽く顎を引いて俺の視線を誘い込もうとした。
俺は無機質な瞳で彼女を見つめ返した。
愛想笑いも、会釈も一切しない。ただ、路傍の石ころでも見るかのような視線を数秒間だけぶつけ――そして、興味を失ったようにふいと視線を逸らし、別の実業家との会話に戻った。
「なっ……」
遠くからでも、麗華が屈辱と驚きで顔を強張らせたのが分かった。
自分の魅力が通じず、あからさまに無視された経験など、彼女の人生には皆無だったはずだ。これでいい。彼女の自尊心に小さな棘を打ち込んだ。この棘は、やがて彼女自身を狂わせる猛毒となる。
パーティーを早々に抜け出し、ペントハウスに戻った俺は、ネクタイを緩めながら書斎のマルチモニターを立ち上げた。
麗華への接触は、まだ種まきの段階だ。本格的に神崎家を追い詰めるためには、盤面を支配するための『目』と『耳』が必要だ。
俺はキーボードに指を這わせながら、1周目の神崎家で家政夫として扱われていた頃の、ある記憶を掘り起こしていた。
『本当に忌々しい! またあの薄汚い隠し子のガキが、うちのメインサーバーに悪戯を仕掛けてきているのよ!』
『麗華、落ち着きなさい。たかが小娘のハッキングごとき、専門の業者に金を出せばすぐに防げるわ』
『でもお母様! あんな女が産んだ汚い血が、わざわざ犯行声明に「神崎」の姓を名乗って私たちを挑発するなんて絶対に許せないわ!』
1周目で俺が殺される数年前、ダイニングの掃除をしながら耳にした、麗華と貴子のヒステリックな会話だ。
神崎グループ会長の隠し子であり、一族から存在を抹消された少女。
卓越したハッキング能力を持ち、わざと神崎の姓を名乗って巨大財閥のサーバーにサイバー攻撃を仕掛けていたという、神崎家の暗部。
帰国直後、俺は莫大な資金を投じて海外の裏ルートから専門の調査機関を動かし、その『隠し子』の現在の身元を特定させていた。戸籍上の名前は、木村心。タイムラインから逆算した通り、現在17歳の高校生だ。
「一族を激しく憎み、神崎家の内情を暴こうとしている天才ハッカー……これほど都合の良い手駒はない」
俺はダークウェブに接続し、高度に暗号化されたダミーサーバーを構築した。
そこに配置するのは、神崎家の黒い資金の流れを示す裏帳簿の『ごく一部』のデータだ。
1周目で家政夫として扱われていた頃、掃除のふりをしながら盗み聞きした『ペーパーカンパニーの名前』や『架空取引の時期』。それらの断片的な記憶を手がかりに、調査機関に大金を払って収集させた証拠の数々である。ただの家政夫だった俺に具体的な口座番号の羅列までは記憶できなかったが、金の力を使えばパズルを完成させるのは容易だった。
俺はそのデータを、まるで神崎家のサーバーの脆弱性から偶然漏れ出たかのように見せかけてダミーサーバーに置いた。普通のハッカーなら絶対に見つけられない深い階層。だが、神崎家を執拗に狙い続けている『彼女』なら、必ずこの甘い匂いを嗅ぎつけて食いついてくるはずだ。
罠の仕掛けを終え、俺は革張りのチェアに深く背中を預けた。
眼下で無数に瞬く東京の夜景は、まるで巨大なチェス盤のようだ。
ゲームは始まった。神崎麗華という見栄っ張りのクイーンの視線を釘付けにし、裏で暗躍する天才ハッカーという強力なナイトを釣り上げる準備が整った。
「さあ……誰から地獄へ落ちる?」
闇の中で一人、俺は深く、残酷な笑みを作った。




