第3話 10年前の目覚め
深い、深い暗黒の底へと沈んでいく感覚があった。
全身の骨が砕けるような激痛と、凍てつく雨の感触、そして肺を満たす己の血の生温かさ。
最後に聞いたのは、俺を虫けらのように殺した黒崎の、心底楽しそうな嘲笑だった。
『これで、あのゴミにかけられていた生命保険、10億が神崎のババアと麗華の手に入る』
その言葉が、真っ赤に染まった視界の中で何度も反響し、やがて全てが暗転した。
――俺は、死んだ。
利用され尽くし、最後は10億円の保険金と引き換えに、あの雨の降る山道でひしゃげた鉄くずの中で死んだのだ。
「……っはあッ!!」
突如、肺に大量の空気が流れ込み、俺は激しくむせ返りながら跳ね起きた。
「はぁっ、はあっ、はあ……!」
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく脈打っている。全身を覆っていたはずの激痛がない。息ができる。
暗闇の中で目を細めると、見慣れない――いや、遠い昔に見覚えのある、雨漏りのシミが広がった低い天井が目に入った。
ここは、どこだ?
神崎家の、あの窓のない薄暗い納戸ではない。かび臭い畳の匂いと、安っぽい芳香剤の香りが混ざった、四畳半の狭いアパートの部屋。
窓の外からは、雨音ではなく、微かな車の走行音とスズメの鳴き声が聞こえてくる。
俺は震える手で自分の体を探った。血のぬめりはない。骨も折れていない。何より、麗華に熱い味噌汁をかけられて負ったはずの、背中の酷い火傷の痛みが完全に消え去っていた。
「どういう……ことだ?」
布団から這い出し、部屋の隅にある小さな洗面台の鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、無精髭を生やし、疲れ切った顔をした男――しかし、明らかに俺が最後に鏡で見た「40歳の神崎修平」の顔ではなかった。
頬はこけておらず、白髪もシワも少ない。過労と極度のストレスで実年齢以上に老け込んでいたはずの俺の顔が、どう見ても30代前半の若さを保っていた。
慌てて枕元に放り投げられていたスマートフォンを手に取る。神崎家で持たされていた最新機種ではない。画面が小さく、分厚い古いタイプのスマートフォンだった。
画面を点灯させ、そこに表示された日付を見て、俺の呼吸は完全に止まった。
201X年、5月12日。
「……10年、前……?」
俺が死んだはずの日から、正確に10年前の日付だった。
信じられなかった。だが、頬をつねっても痛みがあり、窓を開けて吸い込んだ朝の空気は生々しいほど冷たかった。夢ではない。死の淵を彷徨う脳が見せている幻覚にしては、全てがリアルすぎた。
ふと、テーブルの上に置かれた免許証が目に入る。
そこに印字された名前は『井上 修平』。
神崎家の入り婿になる前、孤児院を出てからずっと名乗っていた、俺の本来の苗字だった。
この時期、俺は職を転々とし、派遣の清掃員として日銭を稼いで食いつないでいた。
そして、この数ヶ月後――俺は派遣先のオフィスビルで、運命の最悪な出会いを果たすことになる。
『いつもお掃除、ご苦労様。あなたのような誠実な人が必要だわ』
神崎麗華。俺の人生を根底から破壊し、地獄の底へと引きずり込んだあの悪魔のような女と出会い、俺は入り婿として神崎家へ足を踏み入れるのだ。
「……あ、あいつら……ッ!!」
神崎家の名前を思い出した瞬間、脳裏に長きにわたる拷問のような記憶が濁流となって押し寄せてきた。
虫けらのように扱われた日々。奴隷のような労働。熱湯の入った椀を頭からかけられた痛み。
俺の料理を食いながら俺をゴミのように見下し、心底楽しそうにあざ笑っていた麗華の顔。
そして、雨の降る暗闇の山道で、ひしゃげた車内で血を吐く俺を覗き込み、俺の死を単独で嘲笑っていた黒崎の顔。
『あのゴミにかけられていた生命保険、10億が神崎のババアと麗華の手に入る』
最初から、愛情など欠片もなかった。俺はただ、10億円という金を神崎家にもたらすために飼育されていた豚だったのだ。
「許さない……絶対に……」
ギリッと奥歯を噛み締める。拳を強く握りすぎ、爪が手のひらに食い込んで血が滲んだ。
もし神様というやつが気まぐれを起こして、俺をこの時代に戻したのだとしたら。
それは、「あの女と関わらずに平穏な人生をやり直せ」という生ぬるいお告げではない。
俺の心の中で燃え盛る黒い炎が、明確な答えを出していた。
「殺してやる。あいつらの全てを奪い尽くして……俺が味わった以上の絶望のどん底に、叩き落としてやる」
俺は復讐の鬼となることを誓った。
だが、今の底辺のままでは、巨大財閥である神崎グループには指一本触れることすらできない。奴らを内側から崩壊させるためには、圧倒的な「力」が必要だ。
金だ。神崎家すらもひれ伏すほどの、莫大な資金が要る。
俺は部屋の片隅にあったノートとボールペンを引き寄せ、記憶の糸を必死に手繰り寄せた。
神崎家で家政夫として扱われていた10年間、俺の存在は完全に「空気」だった。だからこそ、麗華も貴子も、そして愛人の黒崎も、俺の目の前で会社の裏事情や、インサイダーすれすれの極秘情報を平気で話していた。
さらに、毎日広大な屋敷の掃除をしながら、BGM代わりに流しっぱなしにされていた経済ニュースの音声が、俺の脳内には克明に記録されている。
「……使える。俺のこの記憶は、最強の武器になる」
俺はノートに、これから数年以内に起こるであろう世界的な経済危機、為替の歴史的暴落、そして特定の企業の株価暴騰のタイミングを次々と書き出していった。
現在の俺の全財産は、通帳に残っているわずか30万円だ。
俺は派遣会社に退職の電話を入れ、手持ちの古いノートパソコンを立ち上げて海外のFX口座を開設した。身分証をアップロードし、審査が通るまでの時間が永遠のように長く感じられた。
記憶が正しければ、明日の夜、ある国の要人発言によって為替相場が歴史的な大暴落を起こす。俺はそのタイミングをピンポイントで知っている。
口座の開設が完了すると同時に、俺はなけなしの30万円を全額入金した。
選んだのは、海外口座特有の数百倍というハイレバレッジ取引だ。少しでも予想と逆の方向に動けば、一瞬で全財産を失い、莫大な借金を背負うことになるギャンブル。
とはいえ、俺は投資など一度もやったことがない素人だ。
本番までの間、俺はFX会社の提供しているデモトレード画面を開き、ひたすら注文と決済のシミュレーションを繰り返した。画面の数字がチカチカと激しく動くたびに目が回りそうになり、専門用語の羅列に頭が痛くなる。マウスの操作をもたついて、架空の資金を何度も吹き飛ばした。
そのたびに冷や汗が吹き出し、動悸が激しくなる。素人の自分が、数クリックで全財産を失う恐怖。マウスを握る手が震え、何度も諦めそうになった。
だが、目を閉じれば、あいつらの嘲笑と、雨の山道での激痛が蘇ってくる。俺がここで怯めば、あの理不尽な死に報いることはできない。
「やるしかない……俺には、これしかないんだ」
失敗すれば終わり。しかし、今の俺に失うものなど何もない。底辺の清掃員に戻るか、復讐のための力を手に入れるか。二つに一つだ。
そして、翌日の夜。
パソコンのモニターを睨みつける俺の心臓は、早鐘のように打ち鳴らされていた。マウスを握る手は汗でべっとりと濡れ、指先が微かに震えている。
チャートの波は、俺の記憶にある通り、不気味な静けさを保ちながら推移していた。
時計の針が、記憶にある『その時刻』に差し掛かった。
「……いけっ!」
俺は震える指でマウスの左ボタンを押し込み、限界までの最大レバレッジをかけて『売り』のポジションを構築した。直後、心臓が口から飛び出そうになるほどの強烈な緊張感が襲ってくる。ミスクリックはしていないか、何度も画面の表示を確認した。
数分後。ニュース速報がネット上を駆け巡った。
その瞬間、為替のグラフが、まるで滝のように真っ逆さまに急落を始めた。
「……きた」
世界中の投資家が画面の向こうで悲鳴を上げている中、俺の口座残高を示す数字は、凄まじい勢いで跳ね上がっていく。数十万が数百万へ、そしてさらに膨れ上がっていく。
だが、いつ反発するか分からない。決済のタイミングを逃せば、一瞬で利益は消し飛ぶ。
俺はデモトレードで何度も失敗した焦燥感を思い出しながら、画面に食い入るように見つめた。額から流れる汗が目に入っても、瞬きすら惜しかった。
数時間後、暴落が記憶にある『底』の数値に達した。今だ。
「……ここだッ!」
俺は手の震えを気力でねじ伏せ、憎悪と執念を込めて、強引に決済ボタンを押した。
カチッという乾いた音と共に、取引が確定する。
画面に表示された最終的な残高は、たった一晩で30万円から800万円へと化けていた。全身からどっと疲労が抜け落ち、俺は椅子の背もたれに深く寄りかかった。
「……まだだ。これでは、あのクズ共の足元にも及ばない」
俺は喜ぶことなく、すぐに次の行動に移った。
増やした800万円を、今度は国内の証券口座に全額移す。狙うのは、数週間後に画期的な新薬の臨床試験成功を発表し、株価が数十倍に跳ね上がる無名のバイオベンチャー企業だ。1周目の世界で、黒崎が「俺の親父のコネで事前に情報を仕入れてボロ儲けした」とダイニングで自慢げに語っていた銘柄だった。
底値で全ての資金を突っ込み、ひたすらその時を待つ。待つ間の数週間は生きた心地がしなかった。毎日画面を開いては、少しのマイナス表示に胃がねじ切れるような思いをした。だが、俺の記憶が裏切ることはなかった。
ニュースでその企業の新薬承認が報道されると、株価は連日ストップ高を記録した。
俺は最も高値をつけるピークの直前で全株を売却した。
口座の残高は、数千万円という桁に到達していた。
狭く薄暗いアパートの一室で、俺はパソコンのモニターが放つ青白い光に照らされていた。
次の一手は決まっている。
俺の記憶が正しければ、現在、世間では「オタクのおもちゃ」「詐欺」としか思われていない暗号資産――『仮想通貨』が、今後数年の間に歴史的な大暴騰を巻き起こす。1周目の世界では、数年後に麗華たちが「なぜあの時買っておかなかったのか」と血眼になって後悔していた代物だ。
俺はこの数千万円の資金を、生活費のわずかな額を除いて、全て仮想通貨の購入に充てた。
あとは、これが数年後に数百倍、数千倍の価値になるのを待つだけだ。確実に、俺は億を超える、いや数十億の莫大な資産を手に入れることができる。
モニターの電源を落とし、暗闇の中で俺は静かに立ち上がった。
資金の目処は立った。だが、これだけではまだ足りない。
神崎麗華という女は、傲慢で面食いだ。そして義母の貴子は、家柄と品格を何よりも重んじる。
今の、冴えない気弱な「井上修平」の姿で大金を持って現れたところで、怪しまれて弾かれるだけだ。あの一族の懐に深く入り込み、麗華を骨抜きにして完全に依存させ、内側から食い破るためには――俺自身が、非の打ち所がない魅力を持つ「絶対的な男」に生まれ変わらなければならない。
ふと、俺の脳裏に、あの雨の日に唯一優しく傘を差し出してくれた、林さんの純粋な笑顔が思い浮かんだ。彼女のフルネームすら知らないが、胸元にあった名札と、その透き通るような瞳だけは鮮明に覚えている。
喫茶店の前で彼女が淹れてくれたコーヒーの温もりが、俺の心に残る最後の人間性だった。
『また、晴れた日にでも返しに来てくださいね』
彼女の言葉が胸を締め付ける。会いたい。今すぐあの喫茶店に行って、元気な姿の彼女に会いたい。
だが、俺は首を横に振った。
ダメだ。今の俺は、彼女の前に立つ資格などない。これから俺が進む道は、他人を欺き、陥れ、破滅へと追いやる修羅の道だ。彼女のような純粋な光を、俺の薄汚い復讐に巻き込むわけにはいかない。
全てが終わったら。あの悪魔たちを全員地獄に落としたその後に、もし俺にまだ生きる資格が残っていたら、その時は――。
俺は部屋の真ん中に立ち、アパートの古い壁を見つめながら決意を固めた。
明日、日本を出よう。
未来の仮想通貨が莫大な富を生み出すまでの数年間、俺は海外の医療機関に潜伏する。
稼いだ資金を惜しみなく使い、最高峰の美容整形外科医の元で、顔の骨格から全てを創り変える。そして、神崎家を出し抜くための隙のない語学、洗練された立ち振る舞い、教養、そして一流の肉体を手に入れるのだ。
「さようなら、惨めで無力だった『神崎修平』。そして、何も守れなかった『井上修平』」
俺は、弱くて惨めだった過去の自分自身に別れを告げた。
次に日本へ戻る時。
俺は神崎家を喰らい尽くす、隙のない冷酷な復讐鬼として、奴らの前に降り立つ。




