第2話 唯一の光と、冷たい死
叩きつけるような氷雨が、容赦なく俺の体を打ち据えていた。
薄っぺらいボロボロのシャツはあっという間に雨水を吸い込み、氷のように冷たく皮膚に張り付く。今朝、麗華に頭から浴びせられた熱々の味噌汁で負った背中の火傷が、濡れた服に擦れるたびに、火を噴くようにヒリヒリと疼いた。
傘を持つことすら許されない俺は、ずぶ濡れになりながらスーパーへの道を歩いていた。握りしめた薄い財布には、黒崎から投げつけられた数千円の紙幣しかない。
スーパーに到着すると、暖房の効いた店内に少しだけホッとしたが、周囲の客たちは全身ずぶ濡れで青白い顔をした俺を奇異の目で見て、避けながら通り過ぎていく。俺はそんな侮蔑の視線に慣れきったように俯き、一直線に特売品のコーナーへと向かった。
黒崎からの要求は『高級なワインに合うつまみを何品か』だ。
数千円の予算で、高級フレンチレストランで出てくるような品を再現しなければならない。俺は頭の中で長年培ったレシピをフル回転させ、見切り品の鶏レバー、半額シールの貼られた白身魚の切れ端、少し傷んだ野菜などを次々とカゴに入れていく。
鶏レバーは徹底的に血抜きをして臭みを完全に消し、スパイスとバターをふんだんに使って滑らかなレバーパテにする。白身魚はハーブとオリーブオイルでマリネしてカルパッチョに見立てる。残った予算で、特売のクリームチーズとクラッカーを買えば、なんとか体裁は整うはずだ。
レジで数千円の紙幣をすべて差し出し、数十円の釣銭を受け取るだけのギリギリの支払いを行い、買った食材をビニール袋に詰める。絶対に食材を濡らしてはいけない。俺は二つのレジ袋を胸に抱え込むようにして、再び激しい雨が降る外へと踏み出した。
帰り道は、行きよりもさらに過酷だった。
雨脚は強まり、視界は白く霞んでいる。長年の疲労と空腹、そして極度の寒さで、足元がおぼつかない。神崎グループの本社ビルに近い、人通りの少ない大通りに差し掛かった時、ついに俺の体は限界を迎えた。
突然、目の前が真っ暗になり、激しいめまいに襲われた。
「あっ……」
足がもつれ、俺は歩道の隅に崩れ落ちた。泥水が跳ねるアスファルトに膝をつき、それでも食材の入ったレジ袋だけは地面につけまいと必死に両腕を高く持ち上げる。
息が苦しい。心臓が嫌な音を立てて早鐘を打ち、手足の感覚が麻痺していく。このままここで凍え死ぬのだろうか。いや、食材を持ち帰らなければ、どんな無慈悲な罰が待っているか分からない。立ち上がらなければ。そう思うのに、震える足は全く動かなかった。
「……大丈夫ですか?」
その時、ふいに頭上に落ちてくる雨粒が止んだ。
かすれる視界でゆっくりと見上げると、俺の頭上に透明なビニール傘が差し掛けられていた。
そこに立っていたのは、一人の若い女性だった。年齢は21歳くらいだろうか。透き通るような白い肌と、吸い込まれるような大きく神秘的な瞳を持った、清楚な美少女だった。黒髪のロングヘアが雨の湿気で少し濡れており、彼女はすぐ近くにある小さな喫茶店のものらしきエプロンを身につけていた。
「ひどく濡れていますね。立てますか?」
彼女は、まるで汚物のようにうずくまる俺に向かって、一切の躊躇もなく手を差し伸べてきた。
その純粋で真っ直ぐな瞳に、俺は息を呑んだ。神崎家の人間の、俺を見下す蔑みの視線とは全く違う。そこにあるのは、ただ目の前で苦しんでいる人間を心配する、曇りのない純度100%の善意だった。
「あ……いや……俺は、汚いから……」
「そんなことありません。ほら、手足を冷やすと風邪を引いてしまいますよ」
彼女は俺の泥だらけの腕を迷いなく掴み、優しく引き上げてくれた。彼女の手は、驚くほど温かかった。
「あそこ、私の働いているお店なんです。軒下で雨宿りしていってください」
彼女に促されるまま、俺はよろけながら喫茶店の軒先のわずかな雨除けの下に移動した。彼女は「少し待っていてください」と言って店の中に戻ると、すぐに一枚の清潔なタオルと、紙コップに入った湯気の立つコーヒーを持って出てきた。
「これ、まかない用のコーヒーですけど、よかったら飲んでください。少しは体が温まると思います」
「でも……俺、お金は……」
「お金なんていりませんよ。私が勝手に淹れただけですから」
彼女はふわりと微笑んだ。どこか儚げで繊細な雰囲気を持っているが、その笑顔には絶対に折れない芯の強さのようなものが感じられた。
俺は震える手で紙コップを受け取った。一口すすると、コーヒーの豊かな香りと深い温もりが、冷え切った胃の腑に染み渡っていった。
美味しい。こんなに美味しいコーヒーを飲んだのは、いつ以来だろう。
そして何より、見ず知らずの俺に、見返りを求めず優しくしてくれたその行為が、ボロボロに傷ついた俺の心に強く突き刺さった。胸の奥から熱いものがこみ上げ、俺の目から止めどなく涙が溢れ出した。
「あ、あの……熱かったですか?」
「いえ……違います……。ただ、人に優しくしてもらったのが……あまりに久しぶりで……」
「そうなんですか。……無理しないでくださいね」
彼女の胸元には『林』という名札がついていた。林さん。俺は心の中でその名前を何度も反芻した。
「この傘、持っていってください。私はお店にもう一本あるので」
「そんな、申し訳ない……」
「いいんです。また、晴れた日にでも返しに来てください。……気をつけて帰ってくださいね」
彼女の温かい笑顔に見送られながら、俺は林さんにもらった傘を差し、再び歩き出した。
不思議と、足取りは軽かった。這いつくばるような長年の生活の中で、彼女の存在は、分厚い暗雲の隙間から差し込んだ一筋の光だった。俺はまだ、人間として扱われる資格があるのかもしれない。そう思えただけで、胸の中に小さな希望が灯った気がした。
しかし、その希望の光は、あまりにもあっけなく残酷に踏みにじられることになる。
昼過ぎに神崎の豪邸の裏口にたどり着いた俺は、林さんにもらった大切な傘を濡れないように物置の奥に隠し、そっと邸内に入った。
すぐにキッチンで調理を開始する。買ってきた安物の食材を使い、俺は全神経を集中させて料理の準備を進めた。レバーパテには隠し味にブランデーを少し効かせ、白身魚はハーブオイルでマリネして冷蔵庫の奥で寝かせる。安いクラッカーに添えるための、ハーブを混ぜ込んだクリームチーズも手早く仕込んだ。鮮度と温度が命の料理だ。仕上げと美しい盛り付けは、直前に行わなければならない。
全ての下ごしらえを完璧に済ませた後、俺は窓のない狭い納戸に戻り、ひたすら息を潜めて夜が来るのを待った。
夜10時過ぎ。
玄関の方からヒールの音が響き、麗華が一人で帰宅してきた。
「おい修平、いるんでしょ。早くつまみとワインを用意しなさい」
俺はすぐさまキッチンへ向かい、冷蔵庫から下ごしらえ済みの食材を取り出した。美しくカットした野菜と共に白身魚を並べ、パテとチーズを添えて、まるで高級フレンチの前菜盛り合わせのような一皿をあっという間に完成させる。
ワインと共にダイニングへ運ぶと、麗華は不機嫌そうに椅子に座っていた。黒崎の姿はない。
「あの、黒崎さんは……?」
「翔は急な仕事が入ったとかで、ディナーの後そのまま帰ったわ。まったく、せっかくの夜なのに」
舌打ちをしながら、麗華は俺の作ったつまみとワインを口に運んだ。
「ふん、見栄えだけは一丁前ね。まあ、安い舌を持ったあんたが作ったにしては食べられるわ」
彼女がグラスを空けるのを見計らい、俺は静かに納戸へ戻ろうとした。
その時だ。
「ちょっと待ちなさい、修平」
麗華の底冷えするような声が俺を呼び止めた。
「はい、何でしょうか」
「お母様から頼まれごとよ。明日の朝一番で必要な書類があるんだけど、それを別荘に忘れてきちゃったみたいなの。今すぐ、車で取りに行ってきて」
俺は耳を疑った。神崎家の別荘は、ここから車で一時間はかかる人気のない山奥にある。しかも、外は相変わらず土砂降りの雨だ。
「今から、ですか……? 外は酷い雨ですし、夜の山道は危険です……」
「口答えする気? お母様の大切な書類よ。あなたがすぐに行かないなら、明日のお母様からの制裁がどうなるか、わかってるわよね?」
麗華の凄みに、俺は抗うすべを持たなかった。少しでも逆らえば、この牢獄での日々がさらに悲惨なものになるだけだ。
「……かしこまりました。行ってまいります」
「車のキーはこれよ。あのボロい軽自動車を使いなさい。高級車をあなたが運転して傷つけたら困るから」
麗華がテーブルの上に放り投げたのは、屋敷の裏手で買い出し用に使われている古い軽自動車の鍵だった。
俺は鍵を拾い上げ、再び雨の降る外へと向かった。
古い軽自動車に乗り込み、ワイパーを最速で動かして視界の悪い夜道を走る。
ヒーターもろくに効かない車内で、濡れた服から急速に体温が奪われていく。それでも、俺の心にはほんの少しだけ温かいものが残っていた。それは、喫茶店の前で林さんが差してくれた傘の記憶と、淹れてくれたコーヒーの味だった。
いつか、この生活から抜け出せたら。彼女にもう一度会って、きちんとお礼が言いたい。
そんな、叶うはずもない儚い夢を思い描いていた。
市街地を抜け、街灯の少ない山道に入った時のことだ。
背後のルームミラーに、猛スピードで迫ってくる眩しいヘッドライトの光が映った。
あっという間に距離を詰められた。相手は大型の黒いSUVだ。こんな悪天候の深夜の山道で、異常なスピードを出している。道を譲ろうと左に寄った瞬間だった。
ドンッ!!
凄まじい衝撃音とともに、俺の乗る軽自動車の車体に、後ろのSUVが激しく追突してきた。
「うわっ!?」
強烈な衝撃でハンドルが取られる。雨で濡れた路面を古いタイヤが滑り、車体は完全にコントロールを失ってガードレールへと激突した。
ガシャァァァン!!
フロントガラスが砕け散り、エアバッグが作動する前に、俺の頭はハンドルに強かに打ち付けられた。
視界が真っ赤に染まる。全身の骨が砕けたような激痛が走り、肺から空気が押し出されて呼吸ができない。ひしゃげたドアの隙間から、雨水がとめどなく入り込んでくる。
「あ……ああ……」
薄れゆく意識の中、追突してきたSUVから降りてくる男の足音が見えた。
雨に打たれながら近づいてきた男の顔を見て、俺は限界まで目を見開いた。
黒崎だ。急な仕事で帰ったはずの彼が、なぜこんな山奥にいるのか。
彼は懐中電灯でひしゃげた車内を照らし、血まみれになってピクピクと痙攣する俺の姿を確認すると、ニヤリと残忍な笑みを浮かべた。
黒崎はスマートフォンを取り出し、誰かに電話をかけた。相手は麗華でも貴子でもない、彼の裏の仕事を手伝う腹心のようだった。甘く囁いていた昼間とは打って変わった、ドス黒い声色が夜の闇に響く。
「俺だ。ああ、例の『事故』は完了した。あのバカ女、うまくこいつを山道に誘い出したな」
バカ女。黒崎は間違いなく麗華のことをそう呼んだ。
「雨でスリップしてガードレールに激突。不運な単独事故だ。……これで、あのゴミにかけられていた生命保険、10億が神崎のババアと麗華の手に入る。俺の取り分はキッチリしゃぶり尽くしてやるさ」
その言葉を聞いて、俺の思考は完全に凍りついた。
保険金。偽装事故。
麗華が俺を深夜に呼び出したのは、書類を取りに行かせるためではない。初めから、この人気のない山道で黒崎に待ち伏せさせ、俺を『事故死』させるためだったのだ。
最初から、俺は金づるの豚として飼われていただけだった。そして黒崎もまた、神崎家を出し抜き、麗華すらも利用して金を吸い上げる寄生虫だった。
優しく微笑みかけてくれたあの日も、俺を家族として迎えてくれたあの日も、全ては俺を殺して莫大な金を得るための、周到な罠だったのだ。
「……あ、あいつら……!」
喉の奥から、血の泡とともに怨嗟の声が漏れた。
利用され、搾取され、ゴミのように扱われ、最後は保険金のために殺される。
こんな理不尽があるだろうか。こんな結末が許されていいはずがない。
深い絶望が、真っ黒な憎悪へと変わっていく。
(許さない……絶対に……あいつらを……俺から全てを奪った、あの悪魔どもを……!)
だが、その怒りを届けるための声は、もう出なかった。
視界が急速に暗闇に飲まれていく。最後に脳裏に浮かんだのは、今日優しく微笑んでくれた林さんの顔と、彼女がくれた温かいコーヒーの記憶。
そして、俺の意識は漆黒の怒りと激しい雨音の中に、完全に沈んでいった。




