9章 書き換えられた女
対する先生は、限界まで強張らせていた身体の力を、
ふっと抜いた。
その瞬間、椅子が小さく軋む。
「すみれさんは、いつかということにしましょう、医師は患者の
境界線がなくなるまで」
「なんです、それ?」
「それは、時間です」
「私にそんな周到な計画があったなら、
今ごろこんな……情けない姿で震えてなどいない。
私はただ、道端で凍えていたすみれさんを拾い、
その指が動くようにと願っただけです」
「……先生、ずるいですよ」
すみれは吐息をつき、先生の膝に頭を預けた。
「そうやって、いつも『善意』だけで私を包んでしまう。
だから私は、自分の中に芽生えたこのドロドロした感情の
やり場がなくて……音を鳴らして、
先生を汚すことしか思いつかなかった」
「先生、東京へは戻さない。
泊まるところがないなら、ここで私を猫にしてください」
「それは絶対にできません」
彼女は先生の手を取り、自分の頬に寄せた。
「私を『書き換えた』のが先生の善意なら、
先生を『書き換える』のは私の悪意です。
……明日の朝、目が覚めたときに、
鍵の音がしなくても……私の顔を見て、絶望してくださいね」
すみれは、彼の掌に自分の重みを預け、深く目を閉じた。
柿沼は、膝の上で丸まる「猫」の、
不規則で浅い鼓動を感じていた。
下腹部を苛んでいたあの鋭い尿意は、皮肉なことに、
彼女が「悪意」を認め、彼を所有すると宣言した瞬間に、
熱を帯びた奇妙な恍惚へと溶けていた。
もはや、鍵の音という「無関係な刺激」は必要なかった。
互いの体温が、吐息が、
逃げ場のないこの沈黙そのものが、
二人を縛り付ける条件となっていた。
「……絶望なんて、とっくにしていますよ、すみれさん」
柿沼は彼女の髪を指で梳き、静かに囁いた。
「
君を拾ったあの夜から。
……私の世界には、君を鳴らすための音以外、
何も残っていなかったんだから」
防音室の壁は、外の世界の雨音も、
誰かの呼ぶ声も一切通さない。
そこには、自分たちを書き換え、汚し合うことを悦びとする、
二人だけの閉じた循環が完成していた。
先生は拒まなかった。
ただ、雨音に混じって、重く、長い吐息が漏れた。
それは諦念か、それとも、
ようやく手に入れた「破滅」への安堵だったのか。
流れを保ったまま、**語順の自然化・誤記修正・読点整理**だけ行います。
意味やトーンは変えていません。
---
「すみれさんは、いくら何でも考えすぎです。
きのう会ったばかりだし」
「……先生、ずるいですよ」
すみれは、彼の膝に預けた頭を離さず、さらに深く沈み込ませた。
柿沼は、自分が救ったと思っていたものが、
実は自分が生み出した「怪物」であったことに気づき、戦慄した。
しかし同時に、その圧倒的な被支配の形に、
抑えきれない悦びを感じている自分をも、
もはや上書きすることはできなかった。
「昨日会ったばかりの女を、
あんなふうに……
名前を捨てなきゃいけないほど追い詰められた女を」
すみれは笑わない。
「身体中の『RAM』を書き換えたのは、どこの誰ですか?」
柿沼の指が止まる。
「先生の善意は、たった一晩で、
私の全人生を上書きしてしまった」
一拍。
「……それなのに今さら、『時間が短い』ことを理由に
逃げようとするんですか」
彼女は先生の手を、
自分の頬に押し当てたまま上目遣いに射抜いた。
---流れと意味はそのままに、**誤字・不自然な切れ・語調の統一**を中心に校閲しました。
---
「RAM? パソコンのメモリー?」
「書き換えられる、私のメモリーです」
声が静かすぎて怖い。
「先生が私を、『今の私』にした」
そう言って、すみれはゆっくりと微笑んだ。
その微笑みは、感謝でも親愛でもない。
自分の人生を勝手に書き換え、
別の生き物に変えてしまった傲慢な外科医への、
静かな宣戦布告だった。
信也の指先が、すみれの肌から熱を奪うように離れる。
「……私は、君が死なないように処置をしただけだ。
医者として、当然の……」
「そう、処置。私の絶望を、先生の都合のいい平穏で塗りつぶしたの」
「すみれさんは……僕は、感心しています」
---
「なによ、それ。
先生は私の過去を不要なログみたいにイニシャライズ(初期化)して、
先生のルールを流し込んだ」
柿沼は熱いものに触れたように手を引こうとする。
「……私は君を再起動させただけだ。
壊れないように、一時的に」
すみれは首を振った。
「いいえ」
「先生のプログラムを、私の中に常駐させた」
昨日会ったばかり?
関係ない。
「一瞬で、システムは別のものに変わるんです」
すみれの瞳は、光を返さない黒いスクリーンだった。
「先生が私を『今の私』にした」
ゆっくり笑う。
「だったら先生が電源を落とすその時まで、
私は先生の指示通りに演じます」
猫でも。
ピアニストでも。
リスとしても猫でも。
「先生が私を『今の私』にした。
……だったら、先生が電源を落とすその時まで、
私は先生の指示通りに、
猫でも、ピアニストでも、ペットでも演じ続けてあげます。
それが、上書きされた私の、
たった一つの仕様なんですから」
すみれは、彼の膝を掴んでいた手を離し、
自らのこめかみに指を添えた。
「飛躍させているのは、私の脳じゃない。
先生が私に与えた、この耐え難い『刺激』です」
柿沼は、困惑したように息を吐いた。
確かに昨夜、震えるすみれを拾い、
正体不明の彼女を「管理」しようとしたのは自分だ。
しかし、それがこれほどまでの熱狂と、
倒錯した主従関係に化けるとは計算していなかった。
「……君は、劇的に考えすぎる。
ピアニストの悪い癖だ」
「だったら、このまま終わらせてみてください。
今ここで、私を追い出して……私に、
あの桟橋の音を忘れさせてみせてください」
すみれは、彼のポケットから鍵を取り出し、
自分の首筋に押し当てた。
冷たい金属が肌に触れる。
「できないでしょう?
……先生も、たった一晩で『書き換えられて』しまったんだから」
「すみれさんは、頭がよくて勝てないよ」
「先生、全部、冗談」
その言葉が発せられた瞬間、張り詰めていた密室の空気が、
まるで魔法が解けたように霧散した。
すみれは、彼の首筋に押し当てていた鍵束をあっさりと離し、
悪戯が見つかった子供のような顔で、
ふいっと視線を逸らした。
「先生、全部、冗談」
柿沼は、吸いかけていた息を止めたまま、
数秒間、彫像のように固まった。
脳内を支配していた「RAM」も、
「条件付け」も、「書き換え」という名の支配劇も。
すべては彼女が、昨日出会ったばかりの男を試すために、
あるいはこの退屈な夜を凌ぐために即興で弾いた、
あまりに悪趣味な幻想曲だったのか。
「……冗談?」
柿沼の声は、ひどく掠れていた。
先ほどまで彼女を「家畜」として、
あるいは「被造物」として愛そうと覚悟した自分の熱量が、
行き場を失って空回りする。
「そう。パブロフなんて、私だって学校で習ったわ。
先生が真面目な顔をして乗ってくるから……面白くて、つい」
彼女はピアノの椅子から軽やかに飛び降り、
ポケットに鍵を放り込んだ。
ジャラリ、と鳴ったその音は、
もはや彼女を縛る鎖でも、
彼を狂わせる合図でもなく、ただの日常の雑音に聞こえた。
「……ひどいな、すみれさんは」
柿沼は椅子に深く沈み込み、力なく笑うしかなかった。
勝てない。
論理でも、情熱でもなく、その「底知れない軽やかさ」に。
「でも、先生。……泊まるところがないのは本当。
だから、一晩だけは私を『猫』だと思って置いておいて。
……あとのことは、明日になったら、
また適当な嘘で書き換えるから」
彼女は窓の外、街の灯りを見つめた。
そこには、名前を捨てたはずの悲劇のヒロインも、
調教された奴隷もいない。
ただ、昨日出会ったばかりの、
少しだけ嘘が上手な女の子がいるだけだった。
「……勝手にしてください。もう、
すみれさんの言葉のどれが本当かなんて、
疲れるから、考えないことにするよ」
「それが正解。……おやすみなさい、先生」
彼女はそう言うと、部屋の隅で丸くなった。
柿沼は、手元に残された熱い疼きと、
空っぽになった「RAM」の領域を抱えたまま、茫然としていた。
「真っ白な病院はもう飽きちゃった。
……先生と二人で、紫色のアヤメの花、見たいんです。
外で会う私、見てみたくないですか?」
「明日は、大雨ですよ」
「そんなの関係ないよ」
「……9時、いいですか?」
「はい。遅れないでくださいね。
相合傘で歩くの、楽しみにしてるから」
彼女の潤んだ瞳に射すくめられ、柿沼は静かに息を吐いた。
「……分かりました。明日の朝、9時に」
「ふふ。約束ですよ、先生」
病院の裏門。そこに一台のテリオスが静かに滑り込む。
ハンドルを握る柿沼が、助手席のウィンドウ越しに見たのは、
昨日までの入院患者ではない、
一人の「女」の姿だった。
黒いモンクール。
鹿島港で身を投げそこねた女の姿と同じ服装だった。
あのとき海に身を投じていたら、きっと死んでいる。
コートを羽織り、小さなバッグを足元に置いたすみれが、
雨の中に佇んでいる。
「遅いですよ、先生」
車に乗り込むなり、彼女は濡れた髪を払いながら笑った。
車内には、湿った雨の匂いと、
彼女の微かな香水の香りが混じり合う。
「……一分も過ぎていません。むしろ、十分も前です」
「私には、もう一時間くらい待った気がしました。
……その格好、似合いますね」
柿沼はネクタイを締めず、
私服のセーターに緑のジャケットを羽織っていた。
医者という記号を脱ぎ捨てた彼を、
すみれの瞳はじっと値踏みするように見つめる。
「……潮来へ向かいます。いいですか?」
「先生となら、どこだっていいよ」
バックミラー越しに、遠ざかる病院の白い建物が見える。
柿沼は何も答えず、ただアクセルを静かに踏み込んだ。
「……今日はもう、先生とは呼びません。
……いいですよね? 柿沼さん」
雨音が激しくなる。
ワイパーが刻むリズムだけが、二人の沈黙を埋めていた。
柿沼の差し出す大きな黒い傘の下、アヤメの桟橋を、
すみれは吸い寄せられるように彼へ一歩踏み込んだ。
「すみれさん、相合傘。笑ってください。
実は、こういうことは初めてなんです。
もてない男の悲しい現実です」
「先生、その言葉は高等戦術ですか?」
「高等戦術?」
「そうやって罠をかける。
母性本能を刺激する、先生の手口ですよ」
「僕はただ……本当に慣れてないだけです」
「うん、それは信じます」
「見て、先生。あのアヤメ。
雨に打たれて今にも折れそう……なんだか、昨日の私みたい」
「……アヤメは強い花ですよ。
これくらいの雨でどうにかなるほど、柔ではありません」
柿沼は前を見据えたまま、硬い声で答える。
隣から伝わるすみれの体温と、
雨の匂いに混じる彼女の甘い香りに、
彼の理性はじりじりと削られていた。
「ふふ、相変わらずね。
……ねえ、もう『先生』はやめてって言ったのに」
すみれは歩みを止め、柿沼を遮るようにその胸元へ滑り込んだ。
狭い傘の中、二人の距離が限界まで縮まる。
彼女は湿り気を帯びた瞳をゆっくりと上げ、
彼の唇をなぞるような視線を投げた。
「ここは病院じゃない。白衣も着ていない。
……ねえ、今の私は、あなたの何?」
すみれは空いた方の手で、
柿沼のジャケットの襟元をゆっくりと指先でなぞった。
薄い布地越しに、
彼の心臓が激しく脈打っているのが指先に伝わってくる。
「……患者、ではありません」
「じゃあ、ただの『すみれ』として見て。
……この雨、止まなければいいと思わない?」
彼女は顔をさらに近づけ、彼の耳元で熱い吐息を漏らす。
「先生の心臓、さっきから脈が速すぎて……
私まで苦しくなっちゃう。
……診察、してあげましょうか? 今度は、私が」
柿沼は傘を握る手に力を込め、
逃げ場のない熱に浮かされたように、
ただ彼女の瞳を見つめ返した。
雨足が一段と強まり、
アヤメの紫が霞んで見えるようになった。
柿沼は彼女の肩を濡らさないよう、
大きな傘を傾けながら、
老舗の佇まいを見せる鰻屋の暖簾をくぐった。
香ばしい沈黙
「先生、全部、冗談。……でも、お腹が空いたのは本当」
翌朝、潮来の街は雨上がりの澄んだ空気に包まれていた。
二人が向かったのは、
川沿いに佇む老舗の**鰻店**。
「いらっしいませ、奥の個室へ」
店内には、
甘辛い醤油と炭火の香ばしい匂いが立ち込めていた。
通されたのは、
雨に濡れる坪庭を望む静かな奥座敷の個室だった。
「……落ち着きますね。真っ白な病室とは、大違い」
すみれはしっとりと濡れた髪を指先で整え、
座布団に腰を下ろした。




