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8章 夜明けの約束

「先生……もし私がピアノの先生じゃなくて、

先生もお医者様じゃなかったら。

私たちは、どこかのラーメン屋さんで普通に出会えていたのかな」


「……仮定の話に意味はありませんよ」


柿沼は静かに言った。


「僕は医者で、あなたは……

僕の忠告を聞かずに歩き回る、困った患者さんです」


窓から視線を戻し、暗がりの中で、

すみれの白い手元をじっと見つめる。


「でも」


言葉が、そこで一度止まった。


「あの街の光の一つに、

僕が鹿嶋港で作った下手なラーメンを――

……美味しいと言って食べる誰かがいる」


それは告白ではなく、生活の夢だった。


すみれはその言葉を噛みしめるように目を閉じた。


「すみれさん。鹿島港には、

ラーメンを作っている人はたくさんいます」


すみれが目を瞬かせる。


「家族だったり、恋人同士だったり……

そういう人たちが」


少し間。


「僕は、そういう場所に憧れているだけかもしれません」


遠くで救急車のサイレンが微かに聞こえる。

また一つ、現実の音が夜の静寂を揺らした。




「僕は、そういう場所を見ているだけかもしれません」


信也の声は静かだった。

言い終えたあと、自分で自分を少し笑うような沈黙が落ちた。


点滴の雫が、一滴。


すみれは枕に頭を預けたまま、ゆっくりと息を吸う。

窓の外の光の海を見つめながら、囁くように言った。


「……じゃあ」


信也の視線がわずかに動く。


「私が行きます」


「……え?」


「先生のラーメン。鹿嶋港で作った、下手なラーメン」


すみれは少しだけ笑った。


「美味しいって言いに行きます。家族でも恋人でもないけど」


言葉の最後が震える。


「でも、誰かが必要なんでしょう」


信也は返事をしなかった。

できなかった。


医師の沈黙ではない。

男の沈黙だった。


すみれは続ける。


「約束です。治ったら、私、食べに行きます」


点滴の雫がまた落ちる。


信也はようやく、小さく頷いた。


「……約束します」


その声は診断ではなかった。

未来だった。



「……いつか。そのために、元気な身体になってください」


すみれは小さく笑った。


「約束ですよ、先生」



やがて彼女の呼吸が深く、規則正しいものに変わったのを見届け、

柿沼はゆっくりと手を離した。


残された手のひらの熱が、夜の冷気にさらされて少しずつ冷えていく。

彼は音を立てずに部屋を後にした。


「……おやすみなさい、早瀬すみれさん」


廊下に出ると、そこにはいつもの、

消毒液の匂いが漂う真っ白な世界が広がっていた。


けれど彼の胸の奥には、

あの一杯のラーメンのような、

ささやかで確かな熱が居座り続けていた。



夜の静寂に包まれた病棟。


消灯時間を過ぎた暗い病室に、足音もなく柿沼が現れた。

彼はすみれのベッドサイドに立ち、小さな声で告げる。


「……脈を測らせてください」


すみれが布団から細い手首を差し出すと、

柿沼の指先がその肌に触れた。

暗闇の中、指先から伝わる鼓動は、少しだけ速い。


「……もう大丈夫です。明日は帰れますよ、早瀬さん」


「お別れですね」


柿沼は手元のカルテを閉じ、事務的な音を立てた。

すみれは一瞬、弾かれたように目を見開く。


「……え、どうして?」


「ここは病院です。費用もかかりますし、もう入院の必要はありません」


突き放すような言葉。

しかし、すみれはそれを微かな笑みで受け流した。


彼女はゆっくりと上体を起こし、

ベッドの端に座る柿沼へと吸い寄せられるように顔を近づける。


至近距離で、上目遣いに彼を覗き込んだ。


「冷たいんですね、先生。

……せっかく私、先生のことは特別だと思っていたのに」


「特別ですか。それはあなたが弱っているからでしょう」


「軽い?」


「言葉に重力はありません」


「音には重力があります」


「音は空気の振動です」


「……でも、落ちるでしょう」


「落ちるのは恋です」


「先生は、恋に落ちたんですか?」


「猫だって落ちますよ。パブロフの条件付けです」


「……何ですか、それ?」


「生まれつきの反応とは無関係な刺激を繰り返すことで、

身体が勝手に覚えることです」


すみれは笑う。


「じゃあ先生、私が鈴を鳴らすたびに、

先生の体は勝手にた。


「……理屈じゃない。あなたの脳が、

僕の出す音に反応しているだけです」


すみれはわざと彼の足元を覗き込んだ。


「先生、今の言葉、主語と述語が混ざっていますよ。

興奮しすぎです。……書き換えられているのは先生の方」


「では、そういうことにしておきましょう」


吐息が触れそうな距離で、彼女の声が湿り気を帯びる。


「東京には、戻らないんですか?」


「……今は、そのつもりはありません」


すみれは少し黙ってから言った。


「でも、だったら明日の私はどうすればいいんです?

泊まるところもありません」


「それは……パブロフの条件付けですか?」


すみれは小さく笑った。


「放り出すなら、責任取ってください。

……明日、朝の九時に迎えに来て。

潮来に連れて行ってほしいんです。アヤメも咲いているし」




吐息が触れそうな距離で、彼女の声が湿り気を帯びる。

先生が自ら認めた「敗北」は、降伏というよりも、

底なしの沼へ彼女を引きずり込むための招待状のようだった。


「東京には、戻らないんですか?」


「……今は、そのつもりはありません」


先生は、溢れそうな生理的限界を抱えたまま、

静かに言葉を返した。


「でも、だったら明日の私はどうすればいいんです?

泊まるところもありません。

名誉も、地位も、帰る場所も……すべてあそこに捨ててきたのに」


それは、かつて彼女が警官に、

あるいは世界に叩きつけた絶望の反復だった。


何も持たない女。

ただ、自分が刻み込んだ「音の呪い」だけを、

唯一の道標にしている女。


すみれは鍵束を握る力を緩め、

その金属の冷たさを先生の首筋に這わせた。




「……行く場所がなくなったんです。だから歩いた。

それで先生に助けられた。


『可哀想な私』を、先生が拾ってしまった。


だから私は先生を求めてしまうんです。


そうやって……私は、自分を先生に書き換えてもらいたいんです」


信也は息を吐いた。


「……なんだか、哲学の話ですね」


「哲学じゃない。生存です」


すみれの声は震えていた。

弱さではなく、必死さで。


「先生は港で私を引き上げた。

点滴で私を繋いだ。


……それだけで、私の世界は書き換わってしまった」


信也は何も言えない。

モニターの電子音が沈黙を刻む。


すみれは続ける。


「生きるって、こんなに恥ずかしいんですね」


笑おうとして、笑えない。


「誰かに助けられないと、生きられないなんて」


信也の喉が動く。


「助けられることは……恥じゃない」


「じゃあ、何ですか」


すみれが見上げる。


「救われたら、私は何を返せばいいんです」


その問いは恋だった。

借りの話だった。

生活の話だった。


信也はようやく言う。


「返さなくていい」


「嘘」


即答だった。


「返さなくていいなら、先生はどうしてここにいるんです」


信也の指先が、シーツの端をわずかに掴む。

医師の手ではない。


「……放っておけないからです」


「それは、出会いのような恋ですか?」


信也は息を止めた。


「実体のない、暗闇の中で手探りで見つけただけの、

安っぽい幻想かもしれない」


正直だった。


「でも、あなたが生きていることが……必要なんです」


必要。


その言葉が、診断より重かった。


すみれの目に、涙が溜まる。


「……じゃあ」


囁く。


「私も、生きます」


点滴の雫が落ちる。


「先生の夢のラーメンを食べるまで」




すみれの瞳には、自分を救ったはずの恩人を


「加害者」に仕立て上げることでしか、


この異常な執着を正当化できない苦しさが滲んでいた

対する先生は、限界まで強張らせていた身体の力を、

ふっと抜いた。


その瞬間、椅子が小さく軋む。


「すみれさんは、いつかということにしましょう、医師は患者の

境界線がなくなるまで」


「なんです、それ?」

「それは、時間です」


「私にそんな周到な計画があったなら、


今ごろこんな……情けない姿で震えてなどいない。


私はただ、道端で凍えていたすみれさんを拾い、

その指が動くようにと願っただけです」


「……先生、ずるいですよ」


すみれは吐息をつき、先生の膝に頭を預けた。


「そうやって、いつも『善意』だけで私を包んでしまう。


だから私は、自分の中に芽生えたこのドロドロした感情の


やり場がなくて……音を鳴らして、

先生を汚すことしか思いつかなかった」



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