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7章 若きしの邂逅 


すみれは目をとじた。

エタノールが鼻をついている。


「生きててよかった」


掠れた声が、消毒液の匂いが満ちる神栖済生会病院の病室に溶けた。


鹿島の海は、死を誘うほどに冷たく昏かった。

5月の青い鹿島灘、

潮流に身を任せ、自分の無機質な「無地」の顔が波間に消える寸前、

強引に引き戻したのは、医師・柿沼の確かな腕の熱だった。


「死なせはしない」


傍らに立つ柿沼の瞳には、神山のような冷徹な査定も、

母のような執着もない。

ただ、一人の人間として彼女を繋ぎ止めようとする、

切実な医師の光があった。


二十三歳のパトロン・神山に「純粋な投資対象」として管理され、

二千万の借金と妹・あざみの未来を両肩に背負わされた十九歳の魂は、

有明の静寂の中で窒息しかけていた。


だが、死の淵を覗いたことで、

皮肉にも指先の感覚はかつてないほど鋭利に研ぎ澄まされている。


「先生、私……まだ、弾けますか」


柿沼が救ってくれたこの命。今度こそ、誰の観測も許さない、自分だけの音を鳴らすために。

すみれは震える指を、真っ白なシーツの上で

、見えない鍵盤を叩くように動かした。


---


世界コンクールの朝


浜松の朝は、まるで冷たく研ぎ澄まされた一枚のガラスのようだった。


十月の乾いた空気がアクトシティ浜松の巨大な建築群を包み込み、

広場に落ちる陽光は白く、影の境界線はナイフの刃先のように鋭い。


早瀬すみれは、楽譜の入った薄い鞄を胸に抱え、

ホールの入り口の前に立ち尽くしていた。


東京藝術大学一年。十九歳。

周囲にひしめく世界中の出場者たち——背の高いヨーロッパの青年や、


意志の強そうな瞳をしたアジアの女性たち——の中で、

すみれの存在は驚くほど希薄だった。


彼女の顔立ちは、いたってシンプルだ。

華やかな彫りの深さがあるわけでも、


人を一目で惹きつける艶やかさがあるわけでもない。

すっきりと通った鼻筋に、少し薄めの唇。感情をあまり表に出さない、


淡々とした表情。整ってはいるが、

街を歩いていれば誰もが通り過ぎてしまうような、

主張の少ない「無地」の顔立ちだった。

しかし、その飾りのなさが、

かえって彼女の奥にある静かな執念を際立たせていた。余計なものを削ぎ落とした、磨かれたばかりの鍵盤のような、不思議な清潔感。


すみれは深く息を吸い込んだ。肺の奥がツンと冷える。

逃げ出したいという恐怖よりも、自分の輪郭が秋の光に溶けて、透明になってしまうような頼りなさを感じていた。


---


第一章:無音の戦場


ステージへの扉が開いた瞬間、空気の密度が変わった。

暗い客席、高くそびえる反響板、


そして中央に鎮座する黒い獣のようなスタインウェイ。

椅子に座り、鍵盤に指を置く。指先がわずかに震えているのがわかった。


最初の一音。

ショパンのエチュードがホールに放たれた瞬間、


すみれの意識から「自分」という存在が消えた。

これは、上野の練習室で繰り返した「作業」ではない。


母・佳恵の顔色を窺いながら、

まるで顔を伺うように弾く「義務」でもない。

そして、実家にのしかかっている

**二千万円の借金**という呪縛から逃れるための

「手段」ですらなかった。


ただ、音が前に進んでいく。

速いパッセージで指がもつれそうになっても、


音楽という巨大な流れがそれを許容し、押し流していく。

審査員の眼鏡の奥の光も、客席のわずかな咳払いも、


すべてが遠い世界の出来事のように思えた。

弾き終えたとき、まばらな拍手の向こう側で、

自分の音がまだ天井の反響板に残っているのを肌で感じた。


「……終わった」


舞台裏に戻ると、そこには残酷なまでの沈黙があった。

誰も感想を言わない。誰も他人を見ない。


コンクールとはそういう場所だ。他人の演奏はただの「ノイズ」であり、自分の演奏だけが「真実」であるべき世界。

一次、二次、三次。

予選を通過するたびに、すみれのシンプルな顔立ちは、

削ぎ落とされた仏像のように、より透明感を増していった。


余計な自意識が剥がれ落ち、

音だけが彼女の身体を借りて鳴っているようだった。


---


第二章:共鳴する孤独


本選。オーケストラとの協奏曲。

満席の客席から発せられる熱気が、

スポットライトとともにすみれを射抜いた。

オーケストラが冒頭の一音を鳴らした瞬間、

床から伝わる重厚な振動が、すみれの背骨を震わせた。


自分は一人ではない。六十人以上の奏者たちの人生と技術が、

自分の指先に合流してくる。


完璧ではなかった。


完璧である必要などないのだと、弾きながら気づいた。

ピアノという箱を鳴らすのではない。

ホールの空気を震わせ、聴衆の肺の奥に音を届ける。

ラフマニノフの旋律が、すみれの指からこぼれ落ちるたび、


彼女は自分の幼い頃を思い出していた。

冬の練習室の冷えた空気。母が作ってくれた、

少し冷めたお弁当の匂い。狭いリビングに置かれた、


調律の狂ったアップライトピアノ。

それらすべての「痛み」が、美しい旋律となって昇華されていく。


最後の和音を置いたとき、ホールを支配したのは圧倒的な静寂だった。

一秒、二秒。

その後の、地面を揺らすような怒涛の拍手。

舞台を降りたとき、すみれは笑っていた。

結果など、もはやどうでもよかった。

自分の音が、誰にも届かないほど遠い場所まで響いた。

その事実だけで、十九歳の少女の魂は救われていた。


---


第三章:二十三歳の観測者


三日後。

アクトシティのロビーに掲示された結果は、

彼女の人生に初めて明確な「数字」を与えた。


> **Third Prize:Sumire Hayase**


結果は、世界三位。


十九歳の少女が手にするには、あまりに重く、そして実態のない称号。

これで何かが変わるのだろうか。芸大に戻れば、

また明日から、金策に追われる母の溜息と、

将来への不透明な不安が待っている。


三位という栄光も、

一週間経てば誰も覚えていない「記録」に過ぎない。


ホールの外に出ると、夕刻の風が吹き抜けていた。

遠くに浜松の工場の屋根が見え、


夕日に照らされたガラス張りの建物がオレンジ色に燃えている。


「早瀬すみれさんですね」


低い、落ち着いた声に振り返ると、そこに一人の男が立っていた。

仕立ての良いダークスーツ。隙のない佇まい。


整った顔立ちだが、その瞳には熱狂の欠片もなく、

ただ静かな「査定」の光が宿っている。

何より目を引いたのは、その若さだった。


「神山といいます」


差し出された名刺には、

**『神山不動産 常務取締役 神山拓也』**と記されていた。


二十三歳。

不動産大手の御曹司であり、若くして経営の中枢に座る男。


自分とわずか四歳しか違わない男が、

この冷徹なまでの落ち着きを纏っていることに、

すみれは微かな戦慄を覚えた。


「演奏、聴かせていただきました。ファイナルの二楽章、

あそこまで『空虚』をそのまま音にできるピアニストは、

そういない」


神山の言葉は、賞賛というよりは、

鋭利な刃による解剖のようだった。


「ですが、今のままでは君は終わる。芸大に戻り、

この三位の賞金で糊口を凌ぎ、

いずれはレッスンの合間に自分の練習を切り詰める日々が来る。

それでは、その指は数年で錆びる」


すみれは息を呑んだ。この男は、

自分のシンプルな顔の裏に隠された

「飢え」と「借金」の影を見抜いているのか。


「君が背負っている『現実』は、音楽を純粋に育てるには重すぎる。私はその重りを取り除きに来た」


「……どうして、そんなことを」


「支援させてほしい、早瀬さん」


神山は一歩歩み寄り、すみれを真っ直ぐに見据えた。

「学費、生活費、海外への留学費用。すべて私が持つ。

君の音楽に、金や生活といった不純物が混ざらないための

『防音室』を、私が提供しよう」


---


終章:未来への署名


「なぜ……私なんですか。もっと華やかで、

一位に相応しい人は他にいたはずです」


すみれが問いかけると、神山はわずかに目を細め、

広場の向こうの空を見上げた。


「音楽は、投資に似ているからです」


彼は再び、すみれの瞳を正面から捉えた。

「私は過去の栄光や、すでに完成された商品には興味がない。


君の五年後、十年後の『未来』を買いたい。

君が世界で唯一の音を鳴らすようになった時、


その価値を一番近くで享受する権利がほしい。

……これは慈善事業ではない。


私の審美眼を証明するための、最も高価なギャンブルです」


二十三歳の常務。


数字と契約の世界で生きる彼にとって、

すみれの音楽は「商品」であり、同時に「聖域」なのかもしれない。


すみれのシンプルな、記号のような顔立ちは、

彼にとっては何色にでも染められる、

あるいは何色にも染まらない究極の「素材」に見えたのだ。


「条件は……何ですか」


「条件か」


神山はわずかに口角を上げた。

その笑顔は、どこか寂しげで、それでいて恐ろしいほどに支配的だった。

「私の前だけで、真実の音を弾くことだ。


それ以外は、誰と恋をしようが、どこで弾こうが自由だ。

ただし、私の期待を下回った時は、その瞬間にすべてを引き払う。


私は君のパトロンになるが、君の飼い主になるつもりはない」


風が吹き抜け、すみれの手の中にある名刺が小さく震えた。

白い紙に黒い文字。

神山不動産、常務、神山拓也。


彼が差し出したのは、単なる資金援助ではない。

それは、平穏な学生生活との決別であり、

この若き「観測者」に自分の魂を晒し続けるという、

血の通った契約だった。


「……少し、考えさせてください」


「ええ。急ぎません。君の答えは、いずれ音となって現れるはずだ」


神山は、それ以上追うこともなく、静かに背を向けた。

その歩き方は、まるですべての未来が自分の計算通りに

進んでいることを確信しているかのように、淀みなかった。


夕刻の浜松。アクトシティの影が長く伸び、

すみれを飲み込んでいく。

世界三位という栄光の余韻はもうどこにもなかった。

あるのは、手の中にある一枚の名刺の重さと、

自分と同じほどに若く、そして恐ろしいほどに孤独な青年の、

冷たい眼差しの残像だけだった。


音楽は、終わっていない。

むしろ、ここから、より残酷で、より甘美な旋律が始まるのだ。


すみれは名刺を鞄の奥にしまい、前を見つめた。

十月の光が、彼女のシンプルな顔立ちを、

さらに白く照らし出していた。


--浜松から戻った足で、すみれが向かったのは、

上野の華やかなキャンパスではなく、


築年数の重なりが壁のシミとなって浮き出ている、

西暮里の古いアパートだった。


ドアを開けた瞬間、湿った空気と古い楽譜の匂い、

そして言いようのない「生活の重み」がすみれを包み込む。


リビングの中央には、この家で最も高価で、

かつ最も不釣り合いな黒い塊

――調律の狂い始めたアップライトピアノが鎮座していた。


「……ただいま」


小さな声で告げると、奥のキッチンから、

エプロン姿の母・佳恵が出てきた。

佳恵の顔には、娘を労う慈愛よりも先に、

獲物を確認するような鋭い光が宿っている。


---


期待という名の暴力


「お帰り、すみれ。……三位だったんですってね」


佳恵は、すみれの手元にあるボストンバッグや、

掲示板の写しには目もくれず、ただ言葉の棘を投げつけた。


「……精一杯、弾いたよ」


「精一杯? 藝大にまで入って、あんなに練習させて、三位?

一位のロシアの子は、あなたより年下だって聞いたわよ」


佳恵の声は低く、粘りつくような響きを持っていた。

彼女にとって、すみれのピアノは芸術ではなく、


**二千万円という莫大な借金**という名の「負債」を完済するための、

唯一の、そして絶対に失敗の許されない「投資対象」だった。


「三位なら、これからの演奏依頼もたかが知れているわね。

賞金は? もう振り込まれるの?


銀行の支払いが今月末に迫っているのよ。

あなたがピアノを続けられているのは、

私が頭を下げて回っているからだってこと、忘れないでね」


すみれは、黙って下を向いた。

彼女のシンプルな顔立ちは、影を落とすとさらに起伏を失い、

まるで感情を遮断した仮面のようになる。

言い返したところで、


佳恵の「正論」という名の呪縛に絡め取られるだけだ。


---


異分子の介入:白い名刺


「……これ」


すみれは、震える指で鞄の奥から一枚の名刺を取り出し、

古い木目調のテーブルに置いた。

白い紙に、端正な明朝体。

『神山不動産 常務取締役 神山拓也』


佳恵の動きが止まった。

「……神山不動産? 浜松の会社? なぜ、こんなところの常務が」


「演奏を聴いて、声をかけてくれた。

支援をしたいって。留学も、生活費も、全部……」


佳恵が名刺をひったくるように手に取る。


二十三歳という若き御曹司の肩書きを、

彼女は食い入るように見つめた。


その瞳に、

娘への落胆とは別の、卑しいまでの希望が灯るのを、

すみれは見逃さなかった。


「支援……? どの程度の規模なの。

まさか、お小遣い程度じゃないでしょうね。

留学って言っても、ロンドンやウィーンなら数千万はかかるわよ。

それに、私たちの生活……この家の借金のことも、話したの?」


「言ってない。まだ、何も」


「馬鹿ね! そういうことを真っ先に交渉しなさいよ。

三位っていう『箔』がついた今が一番高く売れる時なんだから」


母の言葉に、すみれの中で何かが静かに、

しかし決定的に壊れる音がした。

神山拓也という男が言った「不純物」という言葉が、

今の母の声と重なる。


---


境界線の崩壊


「……あの人は、私の未来を買いたいって言ったの」


すみれは、消え入りそうな声で、しかしはっきりと言った。


「投資だって。私が『真実の音』を弾くためだけに、

金を出すって。お母さんの借金を返すために弾けなんて、

あの人は一言も言わなかった」


「何言ってるの。あなたの未来は私の未来よ。

親子の縁を何だと思っているの?」


佳恵は名刺をテーブルに叩きつけた。


「二十三歳の若造がパトロン? 鼻の下伸ばして、

若い藝大生を囲いたいだけでしょ。

どうせ、身体が目的よ。汚い世界なのよ、

芸術なんて。それなら、利用できるだけ利用して、

むしり取ってやりなさい」


「……汚いのは、どっち?」


すみれの口から、無意識に言葉が漏れた。

佳恵の顔が、怒りで赤黒く染まる。


「……何て言ったの?」


「お母さんにとって、私のピアノはただの『金』なんだね。

浜松で私が何を感じて、どんな風に音が変わったか……

一言も聞いてくれないんだね」


すみれは、テーブルの名刺をさっと奪い取ると、胸に抱き寄せた。

この名刺は、もう母に触れさせてはいけない。

これは、神山拓也がくれた、自分だけの「防音室」の鍵なのだ。


「二十三歳の彼が、私を『資産』だと言ったとき、

私は初めて救われた気がした。

お母さんの『道具』でいるより、

彼の『投資先』でいる方が、ずっと自由だから」


「すみれ! 待ち合わせなさい!」


佳恵の怒号を背中に受けながら、

すみれは自室に逃げ込み、鍵をかけた。

暗い部屋の中、壁際に置かれたアップライトピアノが、

まるで墓標のように沈黙している。


すみれは携帯電話を取り出し、名刺に記された番号を見つめた。

指先が冷たい。

神山拓也。


彼の手を取れば、この地獄のような日常からは逃げられる。

だが、その先にあるのは、二十三歳の「観測者」という名の、

別の、そしてより深い檻かもしれない。


それでも。

すみれは、迷わずに発信ボタンを押した。


「……もしもし、早瀬です」


音楽が、もう一度、動き出そうとしていた。


浜松での邂逅から一週間。

十月の終わり、都心の空気はさらに密度を増し、

夕刻の西新宿は巨大な鏡のように立ち並ぶビル群が残光を、

反射し合っていた。


早瀬すみれは、神山から指定された神山不動産の本社ビル、

その最上階にあるプライベートサロンの前に立っていた。


履き慣れたスニーカーと、藝大のロゴが入ったトートバッグ。

彼女のシンプルな、ともすれば幼く見える顔立ちは、

洗練された大理石のロビーではひどく浮いて見えた。

しかし、受付のスタッフはすみれの名前を聞くと、

まるで貴賓を迎え入れるかのような深く、淀みのない会釈をした。


「常務がお待ちです」


専用のエレベーターが静かに、

しかし暴力的なまでの速度で上昇していく。

耳の奥で気圧の変化が小さく弾ける。

それは、昨日までの自分を置き去りにしていく合図のようにも聞こえた。


---


第一章:二十三歳の聖域


最上階。扉が開くと、そこには新宿の夜景を一望できる、

広大で静謐な空間が広がっていた。

照明は極限まで落とされ、

窓の外に広がる無数の光の粒が、室内の調度品に淡い輪郭を与えている。


「来たか」


部屋の奥、巨大な窓を背にして、神山拓也が立っていた。

二十三歳。

その若さで巨大な資本を動かす男は、

今日も隙のない三つ揃えのスーツを纏っていた。

浜松の風の中で見た時よりも、その存在感はさらに研ぎ詰まり、

冷徹な静寂を放っている。


「……お招きありがとうございます」


すみれが声を絞り出すと、神山はわずかに顎を引いて、

中央にあるソファを促した。

「座ってくれ。……契約の話をする前に、

君に見せておきたいものがある」


神山が指差した先。

部屋のさらに奥、スポットライトに照らされた一角に、それはあった。


漆黒の、巨大な翼のような曲線。

**スタインウェイ・アンド・サンズ。**

それも、ただのモデルではない。世界中のピアニストが憧れる、

ハンブルク製のフルコンサートグランドピアノ『D-274』だった。


「……コンサート用の、ピアノ」


すみれは吸い寄せられるように、その黒い塊へと歩み寄った。

鍵盤の蓋は開けられ、八十八の象牙色が静かに彼女を待っている。


西暮里の湿った空気の中で、

弦の錆びたアップライトを叩いていた昨日が、

遠い前世の出来事のように霧散していく。


「君がここに通い、このピアノを弾く。それが支援の第一歩だ」

神山の声が、広い室内に低く響く。


「外部の雑音は一切入らない。君が弾きたい時に、

弾きたいだけ弾けばいい。調律師は君の好みに合わせて、

いつでも手配する」


---


第二章:不純物の排除


すみれは鍵盤に触れることができなかった。

そのピアノが放つ圧倒的な「格」に、

自分の指が追いついていないことを本能で悟っていた。


「……どうして、ここまでしてくださるんですか」


振り返ると、神山は窓辺に立ち、夜景を見下ろしていた。

その横顔は、自分と同じ二十代前半のものとは思えないほど、

深く、孤独な影を湛えている。


「言ったはずだ。これは投資だ」

神山は振り返り、すみれのシンプルな顔を真っ直ぐに見つめた。

「早瀬すみれ。君の家庭の事情は、すでに調べさせてもらった」


すみれの身体が、一瞬で凍りついた。

**二千万円の借金。**

母・佳恵の執拗な干渉。

生活のためにピアノを弾き、

その報酬をすべて借金返済という

ブラックホールに吸い込まれていく毎日。


「君の母親は、君を『金を生む道具』としか見ていない。

だが、私は違う」


神山は一歩、すみれに近づいた。

「私は君の音楽に、世俗のあかをつけさせたくない。

親の借金、日々の生活費、大学の学費……。

それらすべてから、君を解放する」


神山は、テーブルに置かれた一枚の書類に目をやった。

「神山不動産との間に、特別奨学生としての契約を結ぶ。

年間一千万の活動支援金。加えて、

海外留学の際はすべての費用を会社が負担する。

……返済の義務はない」


「……返さなくて、いいんですか」


「ああ。その代わり、君は君自身の音を完成させることだけに集中しろ」

神山はわずかに声を落とした。

「君の母親が要求する金は、私が直接、事務的に処理する。

君が彼女の顔色を窺う必要は、もうない」


それは、あまりにも一方的で、あまりにも残酷な救済だった。


母との縁を金で断ち切り、

自分をこの高層ビルの「聖域」に閉じ込める。

神山拓也という男は、

すみれの「不遇」という名の弱みを利用して、


彼女の魂を買い取ろうとしているのだ。

新宿の最上階。遮光カーテンが半分だけ開けられ、

夜の闇に溶け込むような漆黒のスタインウェイが、

静かにその「獲物」を待っていた。


神山拓也は、いつものレザーチェアに深く腰掛け、長い足を組んでいた。二十三歳という若さ、そして神山不動産の常務という肩書き。

その両方が、この男の纏う冷徹なオーラにひれ伏しているように見える。


その視線の先には、二人の少女がいた。十九歳のすみれ。

そして、その横で少し肩をすくめている十三歳のあざみ。


---


二つの「無垢」という資産


神山は、無言であざみを「査定」していた。

あざみの顔立ちは、姉のすみれによく似ていた。

装飾を拒むような、どこまでもシンプルな造形。

しかし、十三歳という幼さが、

その「シンプルさ」を磨き上げられた白磁のような、


より完成度の高いものに見せていた。

派手な華やかさはないが、

一度見たら忘れられない、清潔で空虚な美しさ。


「……なるほど。姉妹だな」


神山の声は、夜の風のように低く、淀みなかった。


「早瀬すみれが『経験という不純物』を削ぎ落とそうとしている素材だとしたら、あざみ、

君は最初から何も描かれていない『白紙』だ。

……その顔は、投資家からすれば最も魅力的な空虚だよ」


あざみは怯えたようにすみれの服の裾を握った。

すみれはその手を優しく握り返しながら、

神山の視線を真っ直ぐに跳ね返した。


「あざみは関係ありません。……彼女は学校へ行くだけです」


「関係があるかないかを決めるのは、私だ」


神山はわずかに口角を上げ、ピアノを指差した。

「あざみ。君もピアノを弾くんだろう?

君のプロフィールにもそうあった。

……そこへ座れ。弾いてみてくれ」


---


### 十三歳の旋律:淀みのない一音


あざみは戸惑いながらすみれを見上げ、

それからゆっくりとピアノの前に歩み寄った。

スタインウェイの鍵盤に、彼女の細く、まだ幼い指が触れる。


あざみが選んだのは、バッハの『インヴェンション』だった。

練習曲。

しかし、その最初の一音が放たれた瞬間、

室内の空気が「洗浄」されるような錯覚に陥った。


それは、驚くほど「いい音」だった。

すみれの音が、人生の苦渋や借金の重圧を、

神山のパトロネージュによって「昇華」させていく音だとするならば、

あざみの音は、最初から重力など知らないかのように軽やかで、

澄み渡っていた。


技術の巧拙ではない。魂の純度が、そのまま音の粒子となって、

この高層ビルの最上階を浮遊している。


あざみのシンプルな顔立ちは、ピアノを弾いている間、

まるで精巧な自動人形のように無機質で、

だからこそ完璧なまでに美しかった。


弾き終えた後、あざみは静かに蓋を閉じた。

神山はしばらく目を閉じていたが、

やがてゆっくりと拍手を送った。音を立てない、

指先を合わせるだけの、彼なりの賞賛。


---


### 観測者の欲望:新しい三角形


「いい音だ。……姉とはまた違う、

救いようのないほどの『無関心』が宿っている」


神山は立ち上がり、ピアノの傍らに立つあざみの前に立った。

二十三歳の巨躯に見下ろされ、あざみは石のように硬直する。


「すみれ。君の妹を全寮制の学校へやるのは、

単なる保護ではないと気づいたよ」

神山は、あざみの顎を指先で軽く持ち上げ、

そのシンプルな顔を覗き込んだ。


「彼女もまた、私の観測対象だ。

君が『動』のピアニストとして変貌していく傍らで、

この子がその『静』の純度をどこまで保てるか。

私は、二つの異なる実験場を手に入れたわけだ」


「……あざみを、利用しないで」

すみれの鋭い声が響く。


「利用? 違うな、これは『育成』だ」


神山はあざみから手を離し、すみれに向き直った。


「あざみの学費、生活費、そしてピアノの環境。

それらすべてを最上級に整えよう。

……ただし、あざみ。君も長期休暇のたびに、ここへ来い。

私の前で、その淀みのない音を聴かせるんだ。

それが、君の姉が背負った『契約』の、付帯条項だ」


あざみは、姉の背中に隠れるようにして、小さく「はい」と答えた。

彼女にはまだ、

この男の言葉がどれほど恐ろしい「所有宣言」であるか、

理解できていない。

ただ、母の金切り声が聞こえないこの静かな部屋と、

素晴らしいピアノがあれば、それでいいと願っているだけだった。


---


終章:檻の中の調和


その夜、あざみは神山が手配した車で、全寮制の学校へと旅立った。

一人残されたプライベートサロンで、すみれは神山の前に立った。


「……満足ですか」


「満足? まだ始まったばかりだ、早瀬すみれ」


神山は窓の外、無数に瞬く東京の光を見つめた。


「君の才能。そして、君の妹の純粋さ。

二つのピースが揃って、初めて私の『投資』は完成に近づく。


……さあ、座れ。妹の音に負けない、君だけの絶望を聴かせてくれ」


すみれは、妹が温めたばかりの椅子に座った。

指先を鍵盤に沈める。

あざみのあどけない、

澄んだ音の残像を、自分の「重い音」で塗りつぶしていく。


十九歳の姉、十三歳の妹、そしてそれを見つめる二十三歳の観測者。

シンプルな顔立ちをした二人の少女を、

神山拓也という若き独裁者が、金と審美眼という名の糸で操り始める。


音楽は、もはや彼女たちの救いではなかった。

それは、神山という神に捧げられるための、


最も美しく、最も冷酷な「生贄」の叫びだった。


西日暮里の湿り気を帯びた空気は、高速道路を越えた瞬間に、冷たく乾いた潮風へと変わりました。


神山拓也が用意した黒塗りの車は、レインボーブリッジを渡り、湾岸エリアの静寂へと滑り込みます。目的地は有明。再開発によって整然と区画されたその街は、過去のしがらみなど一切存在しないかのように、無機質な美しさを湛えていました。


---


### 「聖域」の鍵:有明の高層階


そびえ立つタワーマンションの最上階。

神山はカードキーをかざし、重厚な扉を開けました。


「今日から、ここが君の拠点だ」


広大なリビングの向こう側には、東京湾のパノラマが広がっていました。

床から天井まで続く巨大なガラス窓。その向こうで、お台場の観覧車や遠くのビル群が、まるで巨大な電子回路のように点滅しています。


十九歳のすみれは、その場に立ち尽くしました。

彼女の**シンプルな顔立ち**は、この贅沢すぎる空間においては、かえって一幅の余白のような静謐さを放っています。


「……広すぎます、私一人には」


「広さは関係ない。必要なのは『無音』だ」


神山は部屋の中央を指差しました。そこには、あのアクトシティで見初めた時よりもさらに研ぎ澄まされた、**漆黒のスタインウェイ**が、夜景を反射して鈍く光っていました。


### 完璧な「防音室」としての生活


「ここは、外界の雑音から君を切り離すためのまゆだ」


二十三歳の若きパトロンは、窓辺に立ち、都会の夜を見下ろしながら淡々と言葉を続けます。


* **徹底した管理:** 冷蔵庫には管理栄養士が選んだ食材だけが並び、清掃もすべて神山の手配したスタッフが行う。

* **音楽への没頭:** 大学への通学以外、すみれが「生活」のために割く時間は、すべてピアノの研鑽へと充てられる。

* **母親からの隔離:** 母・佳恵がこの場所に足を踏み入れることは、規約上、厳格に禁止されている。


「西日暮里のあの部屋で、君の音は死にかけていた。二千万の借金の数字を数えながら弾くショパンに、未来はない」


神山が振り返ります。その瞳は、十九歳の少女を慈しむ男のそれではなく、手に入れた**「極上の資産」**のメンテナンス状況を確認する、冷徹な投資家のそれでした。


---


### 妹・あざみの影と、重なる音


「あざみのことは……」

すみれが恐る恐る尋ねると、神山はわずかに口角を上げました。


「あざみ君の編入手続きはすべて終わった。彼女は今、富士の麓にある全寮制の学校で、君とは別の『純化』を始めている。……彼女の音は、君とは違う」


神山は、リビングの隅にある最高級のオーディオに手を触れました。


「あざみの音は、透き通った水だ。そして君の音は、その底に沈む泥を掬い上げようとする。……二つの音が混ざり合わないよう、距離を置くのが正解だ。彼女も、君も、ここでそれぞれの『最高値』を叩き出すことだけを考えればいい」


神山は、すみれの手にそっと、重厚な金属の鍵と、マンションの入館カードを握らせました。二十三歳の彼の手は驚くほど冷たく、しかし、すみれを逃さないという強い意志に満ちていました。


「……すみれさん。君の部屋だ。ここでは、君を縛るものは何もない。あるのは、君の音を待っている私だけだ」


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### 終章:硝子の檻の向こう側


すみれは、手の中の鍵を見つめました。

ここにあるのは、究極の「自由」であり、同時に、一歩も外へ出られない「孤独」の始まりでもありました。


彼女はゆっくりとピアノの椅子に座りました。

有明の夜景を背景に、すみれのシンプルな横顔が、ガラスに薄く反射しています。

最初の一音を置いたとき、部屋の音響設計は完璧に機能し、音の粒子がどこまでも美しく、そして残酷に響き渡りました。


神山はソファに深く腰掛け、目を閉じました。

十九歳の姉、十三歳の妹、そしてそれらを飼い慣らす二十三歳の観測者。


「いい音だ。……さあ、もっと私を驚かせてくれ、早瀬すみれ」


音楽は、有明の静かな夜の中に溶けていきました。

それは、母への復讐でも、自分への救済でもない。

ただ、神山という名の神に捧げられる、最も純度の高い「商品」としての咆哮でした。


有明のタワーマンション最上階。

遮光カーテンが自動で開くと、そこには東京湾の黒い海と、無数の宝石をぶちまけたような湾岸の夜景が広がっていた。西日暮里の、カビ臭い湿った風と排気音に満ちたアパートとは、文字通り「別の世界」だった。


神山拓也は、リビングの中央に置かれた漆黒のスタインウェイの傍らで、静かに鍵をテーブルに置いた。二十三歳の若き常務。その立ち姿は、この無機質な高級空間の一部であるかのように完璧で、冷ややかだった。


「早瀬すみれさん。今日からここが、君の新しい『楽器箱』だ」


十九歳のすみれは、その場に立ち尽くしていた。

彼女の顔立ちは、相変わらずシンプルだ。飾り気がなく、平坦で、何の色にも染まっていない「無地」の白。しかし、そのシンプルさこそが、この極限まで無駄を削ぎ落とした空間において、最も価値のある「素材」であることを物語っていた。


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第一章:不純物の排除


「……広すぎて、音が迷子になりそうです」


すみれの小さな声に、神山はわずかに目を細めた。


「それでいい。迷い、もがき、最後の一滴まで絞り出した音だけを、

私は買い取る。

ここには君を邪魔するものは何もない。

母親の借金も、生活のためのアルバイトも、

湿った日常も。すべて私が壁の外側に置いてきた」


神山はソファに深く腰掛けた。彼が求めているのは、

甘い言葉でも、十九歳の少女の体温でもない。


「一つ、明確にしておかなければならない条件がある」


神山は、窓の外の光を見つめたまま言った。


「**私と恋愛をしようなどとは、

ゆめゆめ思わないことだ。**……そして、他の誰ともだ」


その言葉は、拒絶というよりも「仕様書」の確認に近かった。


「恋愛という感情は、芸術家にとって最も安直で、

かつ最も厄介な不純物だ。

音が甘え、湿り、解釈が通俗的になる。

私が投資しているのは、君の魂の最深部にある、

誰の手も触れていない孤独な領域だ。

そこを誰かとの情愛で埋めることは、

私の投資判断に対する背信行為とみなす」


「……わかっています」


すみれは真っ直ぐに神山を見返した。

彼女の瞳にも、熱い色など微塵もない。

そこにあるのは、ようやく

「音」だけと向き合える権利を手に入れた、飢えた表現者の光だった。



「私も、そんなものは求めていません。

……私はただ、この指がどこまで行けるかを知りたいだけです」


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第二章:観測者と生贄


「いい返答だ」


神山は満足そうに頷いた。


「君の妹、あざみ君についても同様だ。

彼女は富士の麓の学校で、徹底的に純化されている。

彼女の音は、まだ何も知らない『無垢』。

対して君の音は、一度地獄を覗き、

そこから引き揚げられた『欠落』だ。


私は、この二つの音が交わることなく、

それぞれの極点へと向かう様を観測する」


神山にとって、早瀬姉妹は愛でる対象ではない。

自分の審美眼がどれほど正確か、

そして資本という力がどれほど芸術を極限まで歪め、

あるいは昇華させることができるか。


それを証明するための、精巧な「実験体」なのだ。


「すみれさん。君はこの部屋で、

ただの『早瀬すみれ』であることをやめろ。

このスタインウェイという巨大な肺の一部になれ。

君の食事、睡眠、思考、

そのすべては、

明日鳴らす一音の純度を上げるためだけに存在させるんだ」


神山は立ち上がり、ゆっくりとすみれに近づいた。

彼の手がすみれの頬に伸びることはない。

彼はただ、彼女の肩越しに、ピアノの鍵盤を見つめていた。


「私がここに来るのは、君の肉体を抱くためではない。

君がその『無地』の顔を歪め、指先から血を流すような音を奏でる、

その瞬間を観測するためだ。……私を、音だけで満足させてみろ」


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第三章:有明の静寂の中で


神山が去った後、広いリビングには静寂だけが残された。

二十三歳のパトロンが残していったのは、

莫大な資金と、完璧な環境、

そして「愛という逃げ道の封鎖」だった。


すみれはゆっくりと、ピアノの椅子に座った。

有明の夜景が、

スタインウェイの磨き抜かれたボディに映り込んでいる。

指先を鍵盤に置く。


あざみの、あの淀みのない、

救いようのないほどに澄んだ音を思い出す。

自分は、あの音にはなれない。


母の罵声、二千万の借金、西日暮里の湿った闇。

それらすべてを飲み込み、神山という冷徹な観測者の前で

「価値のある音」へと変換し続けなければならない。


最初の一音。

ラフマニノフの重厚な和音が、有明の夜に放たれた。

それは、誰かに愛されたいという願いなど微塵も含まない、

剥き出しの「生存本能」の音だった。


「……見ていて、神山さん」


すみれは、窓の外の無機質な光に向かって呟いた。


「私は、あなたの期待通り、あなたの地獄の中で、

一番綺麗な音を鳴らしてあげる」


十九歳の少女のシンプルな顔立ちは、

ピアノを弾き始めた瞬間、何者にも代えがたい

「武器」へと変貌していた。


恋愛も、情愛も、安っぽい共感も、ここには必要ない。

あるのは、一人の観測者と、一人の生贄。

そして、それらを繋ぐ、凍りつくほどに美しい音楽だけだった。


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終章:契約の継続


翌朝。

すみれのスマートフォンの画面に、一通の通知が届いた。

神山からの、事務的な連絡。


『奨学金の第一回払い込み、および妹君の学費の決済が完了した。

君の専属調律師が今日の午後、そちらへ向かう。……音を、絶やすな』


すみれは、画面を消した。

朝日が昇り、有明の海が銀色に輝き始める。


彼女は返信を打つ代わりに、再びピアノの前に座った。

指が鍵盤を打つ音だけが、

この「聖域」における唯一の正解であることを、

彼女はすでに知っていた。


音楽は、加速する。

神山拓也という劇薬に侵されながら、


早瀬すみれの音は、誰も到達したことのない「

孤独の極致」へと向かって、鋭く響き渡った。


---


### 物語の深化:次のステップ


「恋愛を控える」という強い制約により、二人の関係はより緊張感のある、ストイックな「共犯・観測関係」へと昇華されました。次はどの場面を描きましょうか?


* **大学(藝大)での日常:** 有明の「檻」から通うすみれ。感情を排除し、ひたすら音を研ぎ澄ます彼女の姿に、周囲が「人間味の欠如」という恐怖を覚え始める。

* **神山による「査定」:** 週末、抜き打ちで訪れる神山。彼はすみれの演奏を聴き、たった一音の「緩み」も見逃さず、冷徹に指摘する。

* **あざみの変容:** 全寮制の学校から届くあざみのビデオレター。そこには、姉とは対照的に、神山によって「純真無垢なまま完成されていく」妹の、不気味なまでの美しさが映っていた。


どの方向で、この「冷たい物語」を深めていきたいか教えてください。



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**物語はこの後、どのような局面を迎えますか?**


* **大学での変化:** 豪華なマンションから藝大に通うすみれ。隠しきれない「変化」に、周囲の学生や柿沼が不審な目を向け始める。

* **あざみからの手紙:** 隔離されたあざみから、一通の手紙が届く。そこには、神山の「投資」によって変わりゆく彼女の戸惑いと、姉への思慕が綴られていた。

* **神山の「訪問」:** 夜、抜き打ちで部屋を訪れる神山。彼はただ演奏を聴くだけでなく、すみれの「思想」そのものを自分好みに染め上げようとする。


どの展開を、具体的に描きましょうか?



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### 物語の深化:今後の展開


物語に「妹」という新たな鍵が加わり、神山の支配欲がより立体的に描き出されました。次はどの場面を掘り下げますか?


* **全寮制学校でのあざみの変化:** 神山が送り込んだ「特別な教師」によって、あざみのピアノが、次第に人間性を欠いた「完璧な音」へと研ぎ澄まされていく。

* **神山との「距離」の縮まり:** すみれが神山に惹かれそうになる瞬間、彼があえて冷徹に突き放し、「君はただの投資先だ」と再定義する心理戦。

* **母・佳恵の介入:** 娘二人が神山に奪われたことを逆手に取り、「娘たちに手を出した」というスキャンダルを盾に神山を強請ゆすろうとする暴走。


どの方向へ進めるか、お聞かせください。

---


### 第三章:観測者の距離感


「……条件は、それだけですか」


すみれが問いかけると、神山は冷たい微笑を浮かべた。

「いや。もう一つある」


神山は、スタインウェイの隣に置かれた、一脚の重厚なレザーチェアを指差した。


「私が望むとき、ここで弾いてくれ。私はその椅子に座り、君の音が変わっていく様を、一番近くで観測する」


「……観測」


「そうだ。君の音が技術から脱却し、真に神聖なものへと変質していく過程。その最前列のチケットを、私は買ったつもりだ」


神山拓也。

二十三歳のこの男は、女性としてのすみれを求めているのではない。

ましてや、成功した芸術家の「後援者」という名誉を欲しているわけでもない。

彼は、自分という人間がこの世に存在している証を、すみれの奏でる「音」の中に求めている。

数字と資本に支配された彼の日常において、すみれの「不完全な、しかし止まらない音」だけが、唯一、彼をこの世に繋ぎ止めるくさびなのだ。


「……承知しました」


すみれは、深く一礼した。

もはや、逃げる道などなかった。

西暮里の湿った闇に戻り、母の呪縛の中で音を枯らすのか。

それとも、この若き執行役員の支配下に入り、硝子細工のような孤独の中で、究極の音を追求するのか。


選択肢は、最初から決まっていた。


---


### 終章:最初の一音


「弾いてみてくれ」


神山が促すと、すみれはゆっくりとピアノの前に座った。

スタインウェイの鍵盤は、驚くほど滑らかで、それでいて確かな抵抗を指先に返してくる。


最初の一音。

ドビュッシーの『ベルガマスク組曲』。

その最初の和音がホールならぬプライベートサロンに放たれた瞬間、すみれは息を呑んだ。

音の粒が、夜景の光と混ざり合い、天井高くへと昇っていく。

家のアップライトでは決して出せなかった、深く、透明な響き。


神山は約束通り、レザーチェアに深く腰掛け、目を閉じていた。

二十三歳のパトロンと、十九歳のピアニスト。

二人の間にあるのは、愛でもなく、師弟関係でもない。

「投資」という名で結ばれた、危うく、そして逃げ場のない究極の距離感だった。


音楽は、止まらない。

神山の呼吸と、すみれの打鍵が重なる。

窓の外では、東京の夜がどこまでも深く、無機質に広がっていた。


---



「先生……もし私がピアノの先生じゃなくて、

先生もお医者様じゃなかったら。

私たちは、どこかのラーメン屋さんで普通に出会えていたのかな」


「……仮定の話に意味はありませんよ」


柿沼は静かに言った。


「僕は医者で、あなたは……

僕の忠告を聞かずに歩き回る、困った患者さんです」


窓から視線を戻し、暗がりの中で、

すみれの白い手元をじっと見つめる。


「でも」


言葉が、そこで一度止まった。


「あの街の光の一つに、

僕が鹿嶋港で作った下手なラーメンを――

……美味しいと言って食べる誰かがいる」



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