6章 淡い恋心
柿沼は一瞬だけ言葉を失っ診察室
診察室の空気は、いつもどこか無表情だ。
しかし、窓の外から陽ざしが入り、
デスクの上の小さな電灯だけが灯るこの時間帯だけは、
少しだけ空気が柔らかくなる。
医師の柿沼はカルテに目を落としながら、
最後の患者であるすみれに声をかけた。
「……数値は安定していますね。体調はどうですか?」
「おかげさまで。昨日はよく眠れました」
すみれが微笑む。
彼女はどこか儚げな雰囲気を持っていたが、
瞳の奥には凛とした芯の強さが見える女性だった。
柿沼はペンを置くと、椅子を少しだけ彼女の方へ向けた。
いつもならここで「お大事に」と締めくくるはずだったが、
今日は口が勝手に動いた。
「それは良かった。……そういえば、すみれさん。
休日はしっかり休めていますか? 誰か、
家で食事を作ってくれるような方は……」
あえてぼかした聞き方だった。
すみれは一瞬きょとんとした表情を見せた後、
少し悪戯っぽく目を細めた。
「先生、それって
『独身ですか?』って聞いてるのと同じですよ?」
「……。隠せていませんでしたか?」
柿沼が苦笑いすると、
すみれは椅子の背もたれに体を預け、彼を真っ直ぐに見つめた。
「私は独身ですよ。家には、
お腹を空かせて待っている野良猫が一匹いるだけです」
「猫、ですか」
「ええ。だから寂しくはないです。……でも、
たまには人間と、美味しいワインでも飲みたいって思うことはありますね」
すみれの声が、いつもより一段低くなる。
彼女は診察室のデスクを指先でなぞりながら、
柿沼との距離を測るように視線を絡めた。
「先生は? 忙しくて、そんな暇はありませんよね?」
柿沼は喉の奥が熱くなるのを感じた。
医者と患者。
一線を越えてはいけないルール。
たとえ合意の上であっても、
医師と患者の間には圧倒的な情報の非対称性と権力勾配がある。
真の意味での対等な関係は成立しない。
しかし、彼女の視線が、その境界線を鮮やかに溶かしていく。
「……もし、私が誘ったら、猫ちゃんに怒られますか?」
柿沼がわずかに身を乗り出すと、
すみれは満足そうに口角を上げた。
「なんのことか、分かりません」
「どうかしら。でも、その猫より先に、
私が先生を独り占めしちゃうかもしれませんけど」
「お互いの、夢かもしれませんね」
信也は、
彼女の瞳の奥にある空虚を見透かしたまま、静かに返した。
「それ、夢ですか?」
静まり返った診察室で、
二人の視線が熱を持ってぶつかり合った。
柿沼は、心に警戒の気持ちが込み上げたが、
黙って聞いていた。
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すみれは、病院の片隅で目を覚ました。
白い天井。
ルーバー越しの弱い照明、夜勤用の静けさ。
点滴の重さで、ここが現実だと分かる。
カーテンの向こうで足音が止まった。
その気配に、見覚えがあった。
――鹿嶋。
あの夜の、海の匂いが一瞬だけ戻る。
エタノールの冷たさと潮騒が混じり合った、あの独特の静寂。
「……起きましたか」
カーテンが静かに引かれ、柿沼信也が姿を現した。
白衣を纏い、首には聴診器を下げている。
目の下には、夜を徹して「生」を監視し続けた者特有の、
深い隈が刻まれていた。
港で見せた無頼な男の影は消え、
そこには冷徹なまでに研ぎ澄まされた外科医の輪郭がある。
「気分はどうですか。頭痛や吐き気は」
「……大丈夫、です」
「……どうして、ここまでしてくれるんですか」
すみれの声は小さかった。
点滴の管の先に繋がれたままの、か細い問いだった。
信也は一瞬、答えを探すように視線を落とした。
医師なら簡単だ。
「偶然です」「職務です」「当然です」と言えばいい。
けれど、
彼は嘘がつけなかった。
「……放っておけませんでした」
短い。
それだけで十分だった。
すみれの喉が震える。
「わたし、あなたに……迷惑を」
「迷惑じゃない」
言葉が重なるように落ちた。
信也はモニターに目をやったまま続ける。
見つめれば、何かが決壊するのを知っているように。
「あなたは昨日、港にいました」
すみれの指先が僅かに強張る。
「死ぬ場所を探している人を、
見過ごすのは……医者じゃなくても無理です」
沈黙。
点滴の雫が、一滴、落ちる。
すみれはかすれた声で言った。
「医者だから、ですか?」
信也は初めて彼女を見た。
「……医者だからじゃない。人間だからです」
低い声。
「あなたが、早瀬すみれだったからです」
その呼び方は、診断ではなかった。
祈りだった。
その言い方だけで、まだ大丈夫ではないことを、
彼はもう知っている。
信也は枕元のモニターを一瞥し、
点滴の落ちる速度をわずかに調節した。
「脱水と低血糖、それに極度の過労です。
身体が悲鳴を上げていた。……自覚はあったはずだ」
責めるような言葉。
けれど、その声の底には、
自分と同じように「透明」になろうとして失敗した者への、
やり場のない共感のようなものが滲んでいた。
すみれは、自分の細い腕に刺さった針をぼんやりと見つめた。
透明な液体が、一滴ずつ自分の中に流れ込んでいく。
「……気分、どうですか」
病院の声が、現在へ引き戻す。
カーテンの外に、柿沼信也が立っている。
白衣。
疲れた目。
すみれは、小さく頷いた。
「大丈夫です」
その言い方で、大丈夫ではないことを、もう知っている。
信也は、それ以上踏み込まない。
医者として、そして鹿嶋で出会った一人の人間として。
「点滴が終われば、今日は安静です。明日、帰れます」
事実だけを置く。
それが彼なりの、この場所における誠実さなのだろう。
それでも、一言だけ付け足した。
「……無理は、続かないです」
命令でも、慰めでもない。
それは、同じように極限を歩いてきた者だけが持つ、
経験の共有だった。
「先生、ありがとう」
点滴の落ちる音が、一拍だけ、その言葉を挟んだ。
すみれの掠れた声に、信也はカルテから目を離さず、
わずかに顎を引いただけだった。
「……ぼくの忠告を聞いていたら、
こんなことにはならなかったですよ」
責める調子ではなかった。
ただ、動かしようのない現実を、
静かにその場に置いただけのような声。
すみれは白い天井を見つめたまま、自嘲気味に小さく笑った。
「そうですね……。でも、こうしてまた先生のそばで
何かを言ってもらえるのは、
結局、あのとき私が自分の足で歩き出したからですよ」
「歩いたせいで、意識を失ったんでしょう。
数値が悪い時に無理をすれば、
体が悲鳴を上げるのは当然のことです。
不調を招くと分かっていて動くのは、賢い選択とは言えません」
柿沼はベッドの傍らに腰を下ろし、
彼女の細い腕を手に取った。
点滴の準備を始めるその手つきは、
驚くほど丁寧で、それでいて迷いがない。
「……もし道路に倒れていたら、命はなかったかもしれません」
柿沼は、呆れを含んだ溜息をついた。
「……少し、冷たいですよ」
アルコール綿のひんやりとした感触が、
熱を帯びた彼女の肌に触れる。
彼は慎重に針を導き、点滴の速度を調整した。
「このボトルが空になるまで、動かないでください。
いいですね。あなたの『現実』は、
今はそのベッドの上にあるんですから」
「ふふ……先生、そんなに怖い顔しないで。
せっかくまた、こうして二人きりになれたのに」
すみれは青白い顔のまま、悪戯っぽく目を細める。
「点滴が終わるまで、ここにいてくれますか?
ラーメンの話でも、ハンバーグの話でもいいから……
先生の、普通の人の声が聞きたいんです」
点滴のボトルから、一滴、また一滴と透明な雫が落ちる音が、
静まり返った部屋に響く。
すみれは重い瞼をゆっくりと動かし、
枕に頭を預けたまま、天井に漂う影を見つめて囁いた。
「ねえ、先生……。明日はね、
小さな女の子にショパンのノクターンを教えるはずだったんです」
「ショパン……。僕でも知っているような有名な曲ですか」
柿沼は彼女の手首から指を離し、
代わりに椅子に深く座り直した。
指先の記憶
「ええ、きっとどこかで耳にしたことがあるはず。
とても優しくて、でもどこか胸の奥が締め付けられるようなメロディ。
……あの子、左手のアルペジオがどうしても硬くなっちゃうの」
すみれは毛布の上で細い指先を、
ピアノを弾くように微かに動かした。
「『もっと力を抜いて、湖の波をなぞるように弾いてごらん』って、
明日こそは伝えたかったな。
……私の指も、今は少しだけ鍵盤が遠く感じるけれど」
「……その生徒さんは、あなたの指導を待っているんでしょうね」
柿沼の声は相変わらず静かだったが、
そこには先ほどまでの突き放すような冷たさはなかった。
「ピアノの先生っていうのは、体力仕事なんですね。
音を奏でるだけだと思っていました」
「ふふ、そうですよ。心も体も、全部その一音に乗せるんです。
……先生の診察と同じくらい、真剣勝負なんです」
沈黙のデュエット
すみれは少しだけ顔を横に向け、柿沼の横顔を見つめた。
「先生は……音楽、聴かないんですか。
冷蔵庫に納豆しかないような生活じゃ、心まで乾いちゃいそう」
「……車で移動するときに、流すくらいです」
少し間があって、信也はぽつりと続けた。
「クラシックなら……チャイコフスキーが好きです」
「チャイコフスキー?」
「白鳥の湖。ピアノ協奏曲第一番」
すみれの目がわずかに見開く。
そして、熱の残る声で笑った。
「いつか、先生のために弾いてあげたいな。
私のピアノ協奏曲第一番。そうしたら、
その眉間の皺も少しは解けるかもしれない」
信也は何も言わなかった。
ただ、点滴の落ちる速度を確かめるように目を細める。
「……聴きたいです」
短い言葉だった。
「あなたが弾くなら」
すみれの喉が震える。
「……治ったらですよ」
信也は同じくらい短く言った。
その声に、すみれは今日いちばんの、本当の微笑みを浮かべた
点滴が終わるまで、あと少し。
窓の外には、暗がりに沈む街の明かりが遠く点々と広がっていた。
それぞれの光の下に誰かの生活があり、誰かの「現実」がある。
柿沼は椅子に座ったまま、視線をその光の海へと向けた。
診察室の蛍光灯の下では決して見せることのない、
どこか遠くを見つめるような無防備な横顔だった。
「……あんなにたくさんの光があるのに、
ここだけは、静かですね」
すみれの囁きに、柿沼は小さく頷いた。
「病院の夜は、外の世界から切り離されていますから。
……あそこにある光のどれかが、
あなたの音楽教室かもしれないし、
僕の、あの終わっている冷蔵庫がある部屋かもしれない」
「ふふ……先生、まだ冷蔵庫のこと気にしてる」
「……気にしてません」
柿沼は否定したが、その声には先ほどまでの硬さはなかった。
静まり返った室内で、点滴が落ちる音だけが時を刻む。
しんみりとした空気が、夜露のように二人の間に降りてきた。
「先生……もし私がピアノの先生じゃなくて、
先生もお医者様じゃなかったら。
私たちは、どこかのラーメン屋さんで普通に出会えていたのかな」
「……仮定の話に意味はありませんよ」
柿沼は静かに言った。
「僕は医者で、あなたは……
僕の忠告を聞かずに歩き回る、困った患者さんです」
窓から視線を戻し、暗がりの中で、
すみれの白い手元をじっと見つめる。
「でも」
言葉が、そこで一度止まった。




