5章 倒れるピアリスト
**ローソン 鹿嶋平井店**。
青い看板が、工業地帯の闇の中で不自然なほど明るかった。
無機質な鉄と煙突の風景に慣れきった眼には、
その光が、まるで異世界への入り口のように眩しい。
信也は迷いなくテリオスを駐車場に滑り込ませ、車を止めた。
エンジンを切る音さえ待たず、
彼は助手席のドアを外から開けた。
すみれは、もう言葉にする力さえ残っていなかった。
ただ、彼の手を借りる恥じらいを捨て、
すがるように車を降りた。
冷たいアスファルトを踏みしめる感覚。
自動ドアが開く電子音。
店内に満ちた明るすぎるほどの光と、
どこか場違いに明るい入店チャイム。
「……ここです」
それだけだった。
医師の声は、余計な感情を削ぎ落としている。
すみれは頷けない。
頷く動きひとつで終わってしまう。
ドアの外から、コンビニの自動ドアの開閉音が聞こえる。
乾いた電子音。
平和な日常の音。
その日常が、彼女には今、処刑台のように遠い。
信也が助手席側に回り込む。
「歩けますか」
「……むり」
声がかすれる。
限界はもう、秒で形を変える。
信也は一瞬だけ目を伏せた。
そして決めるように言った。
「じゃあ、抱えます」
---
すみれは、奥にあるトイレの表示だけを目指して、
よろめく足取りで進んだ。
背後で、信也が店員に軽く会釈をする気配がした。
――数分後。
洗面台の鏡に映る自分の顔は青ざめていて、
ひどく惨めだった。
けれど、下腹部を苛んでいたあの暴力的な圧迫感からは、
ようやく解放されていた。
石鹸で手を洗う。
冷たい水が、現実との接点を教えてくれる。
(わたし、生きてる)
あんなに透明になりたいと願っていたのに、
今は、自分の身体が持つあまりに生々しい欲求に振り回され、
それを救われたことに、心の底から安堵している。
店を出ると、信也は自動ドアの横で、
温かいペットボトルのお茶を二本持って立っていた。
彼は、すみれの顔を見ようとはしなかった。
ただ、手元にある「生活」の象徴のようなお茶を、
そっと差し出した。
「……落ち着きましたか」
夜の駐車場。
潮風に混じって、
コンビニのゴミ箱から漂う生活の匂いと、
彼のまとったエタノールの匂いが混ざり合う。
それは、あの寂寞とした港の端よりもずっと、
残酷で、けれど優しい現実だった。
---
ローソンの白い光の下で、すみれはペットボトルを受け取った。
結露した冷たさが指先に沁みる。
「ありがとうございます……」
声が、自分のものではないみたいに遠い。
信也は短く頷き、袋の中を確かめるようにして言った。
「あと、栄養になるもの。食べられるなら」
差し出されたのは、カロリーメイト。
その無機質な箱の整然さが、
かえって今の状況の現実味を奪っていく。
すみれは笑おうとして、けれど唇がわずかに震えただけだった。
次の瞬間、
世界が、ふっと軽くなった。
足元の地面が、急速に遠ざかる。
――あ。
――あ。
音が、消える。
コンビニの入店チャイムも、
アイドリングする車の排気音も、
すべてが薄い膜の向こう側へと沈んでいった。
視界が白く滲み、焦点が結べない。
「早瀬さん?」
信也の声が、遅れて届く。
すみれは返事をしようとしたが、
言葉より先に膝が折れた。
倒れるというより、
張り詰めていた糸がふっつりと切れるように、
身体が重力に従って落ちていく。
その瞬間、信也が動いた。
迷いはなかった。
それは外科医としての、あるいは一人の男としての、
鋭い反射だった。
腕が伸び、すみれの肩と背中を強引に支える。
硬いアスファルトに頭がぶつかる寸前、
彼女の重みは彼の腕の中で止まった。
「……っ」
信也は息を呑み、すぐに低い声で呼びかける。
「早瀬さん。聞こえますか」
頬に触れる指先は冷静で、手首の脈を探る動きは驚くほど
正確だった。
すみれの瞼は重い。
それでも最後に見えたのは、街灯を背負い、
逆光の中に浮かび上がる信也の顔だった。
港の夜よりも、ずっと近い場所で。
「……すみれ」
自分の名前を呼ぶ声が、鼓膜を微かに震わせた気がした。
それが救いなのか、それとも終わりを告げる旋律なのか。
判別がつかないまま、
世界は音のない深い闇の底へと沈んでいった。
信也は、腕の中のあまりに心もとない重さに、
奥歯を噛み締めた。
ピアニストとしての矜持も、
透明になりたいという願いも、
すべてがこの薄い皮膚の下で限界を迎えていた。
彼は迷わず彼女を抱き上げ、テリオスの助手席へと寝かせた。
コンビニの白々しい光を背にして、
車は再び夜の町へと滑り出す
行き先は、決まっていた。
神栖済生会病院の救急入口。
鹿島港の暗い海ではなく、まだ「生」の匂いが残る場所。
車内には、彼が纏うエタノールの香りと、
彼女の浅い呼吸だけが、静かな不協和音となって流れていた。
「**神栖済生会病院**です」
「早瀬さん。聞こえますか」
返事はない。
瞼が震えるだけで、意識は遠い。
信也の指が頸動脈に触れる。脈はある。細いが、
消えてはいない。呼吸もある。
——失神。
貧血か、脱水か。あるいは、極度の睡眠不足と低血糖。
医者としての判断は、一秒で組み上がる。
信也は迷わなかった。
「……だめだ」
今の彼女を一人で駅まで行かせることなど、
医学的にも、人道的にも許されない。
ましてや、死を望んで港にいた女だ。
このまま意識を失った彼女を放り出せば、
次に見つかるのはどこか別の、もっと暗い淵になるだろう。
信也はすみれの細い身体を軽々と横抱きにすると、
テリオスの助手席へ静かに寝かせた。
シートを倒し、
ローソンで買った温かいお茶のペットボトルを首筋に添え、
体温を奪わないよう自分のジャケットを深くかける。
コンビニの白々しい光が、車内の無機質な空間を照らしていた。
アイドリングの振動が、眠るすみれの睫毛を微かに震わせる。
信也は運転席に乗り込み、深く息を吐いた。
手元には、まだエタノールの臭いが残っている。
それは死を遠ざけるための、彼にとっての呪いであり、
今の彼女にとっては、
この世に繋ぎ止めるためのたった一つの「現実」だった。
「……勝手な女だ」
毒づく声は低かったが、ハンドルを握る手には力がこもっていた。
車はローソンの駐車場を滑り出し、神栖の夜へと消えていく。
夜空には、巨大な工場のフレアスタックが、不気味なほど美しい赤い炎を噴き上げている。
その光は、かつて彼女が奏でたはずの、
情熱的な旋律の残影のように見えた。
---
とてもよくまとまった救急搬送の場面です。
緊急外来の空気感も自然に出ています。
意味を変えず、**重複整理・語調統一・医療現場の動作の流れ**を整えて校閲しました。
赤い文字。
**「神栖済生会病院 救急入口」**
夜の闇でも消えない、残酷なまでに明快な現実。
信也は車を寄せ、ブレーキを踏む。
自動ドアの向こうに蛍光灯の光が広がっている。
それは港の灯りとは違う、生と死の境目を無機質に照らし出す光だ。
信也はドアを開け、声を張った。
「すみません! 意識消失です!」
外科医の声だった。
迷いも感情も削ぎ落とした、緊急外来の現場に響く鋭い声。
止まっていた夜が、一気に動き出す。
---
自動ドアが開いた瞬間、空気が一変した。
鼻腔を突く消毒薬の匂い。目に刺さる蛍光灯の白。
救急外来の待合は、沈黙が休息ではなく、
次の修羅場を待つための張り詰めた緊張として存在している。
信也はすみれを抱えたまま、受付に声を落とした。
「すみません。意識消失です」
その一言で現場のギアが切り替わる。
看護師が顔を上げ、次の瞬間には足音が廊下を走り出した。
「ストレッチャー!」
金属の軋む音。車輪の回転。
信也はすみれを慎重に寝かせる。軽すぎる身体、冷たい指先。
手際よく血圧計が巻かれ、酸素飽和度のクリップが指を挟む。
「血圧低いです」
「脈は?」
「細いけど触れます」
飛び交う言葉に無駄はない。
信也は一拍だけ迷い、それから低く名乗った。
「柿沼です。外科医です」
その瞬間、看護師の視線が変わった。
付き添いではなく、医療側の人間としての距離。
冷静に病状を並べる信也。
けれど視線だけは、ストレッチャーの上のすみれから離れない。
カーテンの向こうで、
モニター音が生命のリズムを機械音に翻訳し始める。
点滴の針が入り、
透明な液体が彼女の欠乏した身体へと落ち始めた。
---
しばらくして、すみれの睫毛が震えた。
薄い瞼がゆっくりと開き、蛍光灯の白が滲む。
「……?」
「……救急外来です」
信也の声が、沈みかけていた彼女の意識を繋ぎ止める。
港の街路灯の下で別れたはずの男が、今は白衣に近い、
けれどまだ潮風の匂いのする姿でそこにいた。
「……わたし……」
「倒れました」
信也は短く答えた。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ事実として。
すみれは恥ずかしさと安堵が混ざり合った吐息を漏らし、
小さく呟いた。
「……来てくれたんですね」
「――」
信也はモニターの波形を一瞥した。
脈は戻りつつある。一過性の失神。けれど、
このまま帰せる状態ではない。
睡眠不足、脱水、低栄養。そして、
一人で夜を彷徨っていたという事実。
すみれは担架の上で、ぼんやりと彼を見上げる。
さっきまで隣にいた男が、別の人間に見える。
同じ顔なのに。病院の光の中では、彼の輪郭が鋭すぎた。
処置室のカーテンが引かれる。
モニターが鳴り始める。
ピッ、ピッ、ピッ。
信也は手袋をはめながら、一度だけすみれに視線を落とした。
ほんの一瞬。港の距離感が戻る。
「……大丈夫です」
誰に言ったのか分からない声。
次の瞬間、彼は顔を上げる。院内の顔に戻る。
「血圧、再チェック。輸液速度上げて」
外科医・柿沼信也が、夜を支配し始めていた。
---
処置室のカーテンが引かれる。
モニターが鳴り始める。
ピッ、ピッ、ピッ。
信也は手袋をはめながら、一度だけすみれに視線を落とした。
ほんの一瞬。
港の距離感が戻る。
「……大丈夫です」
誰に言ったのか分からない声。
次の瞬間、彼は顔を上げる。院内の顔に戻る。
「血圧、再チェック。輸液速度上げて」
外科医・柿沼信也が、夜を支配し始めていた。
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カーテン一枚を隔てた向こう側では、
別の救急搬送の喧騒が聞こえる。
しかし、この四角く区切られた空間だけは、
信也が発する冷徹なまでの静謐さに満たされていた。
すみれの視界は、
点滴のボトルから落ちる雫を追うことしかできない。
透明な液体が、一滴、また一滴と、
枯れ果てた身体へと吸い込まれていく。
それが自分をこの世界へ繋ぎ止めるための、
砂時計のようにも見えた。
信也は傍らのモニターを見つめたまま、微動だにしない。
時折ペンライトで彼女の瞳孔を確認し、
手首の脈を素肌で確かめる。
その指先は、港で彼女を抱き止めた時の荒々しさは消え、
鍵盤を愛撫するピアニストのような繊細さで、
彼女の「生」の微かな振動を拾い上げていた。
「……少し落ち着く薬を入れます。眠りなさい」
低い、けれど深い震えを持った声。
それは医師としての指示というより、
この夜の終わりを告げる祈りに近かった。
すみれは、彼の白衣の袖から漂う、
あのエタノールの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
排気ガスの苦味も、砂塵の乾きも、今はもう遠い。
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